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2016/7/27 21:35

「下町の酒屋」はいかにして表参道ヒルズに出店したか? 国内最大級の日本酒ターミナル「はせがわ酒店」社長に聞く

はせがわ酒店 代表取締役社長 長谷川浩一(はせがわ・こういち)。破竹の勢いで新時代へと突き進む日本酒業界において、その名前を知らない人はいません。今では当たり前に飲める生酒が市場に無かった時代から販売に踏み切り、焼酎ブームの波にも乗らず日本酒一筋。旨い日本酒を見つけ、それを広めるために奔走してきた、日本酒新時代の立役者です。

 

下町の小さな酒屋から始まった「はせがわ酒店」は、いまや表参道ヒルズ・東京駅グランスタ・東京スカイツリーなど都内の注目スポットで看板を掲げる有名店に成長しました。ここでは、長谷川社長へのインタビューを通して、現在の会社を築きあげるまでの苦労と、その成功の裏側に迫ります。

↑はせがわ酒店の表参道ヒルズ店
↑はせがわ酒店の表参道ヒルズ店

 

店を継いだときはビールを配達するだけの悲惨な店だった

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「兄貴が交通事故で突然亡くなってね。それで自分が継ぐことになったんですよ。昭和49年ですね。当時は悲惨な酒屋でした。2本買えばお皿がおまけでついてくような日本酒しか扱ってなくて、ビールを配達するのが商売でしたから。それじゃあダメだと思って、自分が継いでから扱う酒をガラっと変えたんです。スコッチウイスキーやバーボン、ボルドーやブルゴーニュ辺りのワインも並べて、下町にしてはまぁまぁな品揃えでしたよ。

 

でもね、まったく売れなかった。当時の下町は情報が遅れて入ってくるから、フランスのワインを売っても『何だこの酸っぱい酒は!』と怒られたりね。それでも何とかやってたんですけど、しばらくして酒の価格破壊が始まるわけですよ。地元のお客さんはビールの安売り店に流れて、せっかく銀座のバーに販路を見つけても、ウイスキーの安売り店が出来たらそっちと取り引きされちゃう……。ドン底に突き落とされるわけですよ。そんなときに、地方の日本酒と出会うんです」(長谷川さん)

 

仲間とともに酒造巡りを繰り返す日々がスタート

昭和50年代の中頃は、“地方の二級酒(※)が旨い”という都市伝説があったそう。都心では取り扱いがない、地元だけで販売されている旨い酒がある――。長谷川社長にとって、価格競争とは縁のないその市場が頼みの綱でした。以後、地酒に目をつけた飲食店や偏屈な酒好き仲間とともに、週末になると酒蔵巡りを繰り返す生活が始まります。

※二級酒=安価な普及酒のこと。当時のランク付けで、特級、一級の下に位置していました

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「北海道と沖縄以外は、ほぼ回りましたね。煙突があれば門をたたくといった感じで、たいてい行き当たりばったり。たまに外して醤油屋や味噌屋だったり(笑)。当時はお金もないですから、無礼千万で名刺だけ持って行ってね。でも9割の蔵が見せてくれましたよ。やっぱり酒蔵さんは人がいいですね。だから100年も200年も続いているんだと思います」(長谷川さん)

 

もっとも印象に残っている蔵は高知県の「酔鯨」

酒蔵巡りで蔵を知り、酒を知る日々。特に思い出に残っている蔵を聞くと、高知県の「酔鯨」という答えが返ってきました。今では県を代表する銘柄ですが、当時は地元でも評価の低いダメな酒だったそうです。

 

「蔵で試飲して、唯一おいしかったのが品評会用に造っていた大吟醸。それを売ってくれと頼むと、『売り物ではない』と断られて。『じゃあ来年はタンク1本分(一升瓶で約1000本)を必ず買うんで、お願いします』って頭を下げて。それから付き合いが始まるんです。あの当時で大吟醸が一升瓶6000円。二級酒が1300円の時代ですから、よくタンク1本分だなんて言いましたよね(笑)。

 

一緒に酒蔵巡りをしていた仲間にも助けられましたけど、全部売りましたよ。そういう付き合いをしていく中で、酔鯨の酒質もだんだんと上がっていくんです。あの蔵は問屋が親会社だから食うに困る蔵ではなかったんでしょうけど、酒造りに対する志に火をつけたのは僕だと思いますよ」(長谷川さん)

↑はせがわ酒店のオンラインショップでは、現在も多数の酔鯨を扱っている
↑はせがわ酒店のオンラインショップ。「酔鯨」は現在も多数の種類を扱っている

 

焼酎ブームが訪れるも「手のひらを返すようなことはしたくなかった」

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ひたすら酒蔵を巡りを続け、試飲して自分が旨いと思った酒を仕入れ、1本1本取り扱い銘柄を増やしていった長谷川社長。扱う酒は全国的には無名の銘柄がほとんど。新潟の淡麗辛口がもてはやされていた時代に、「酸」と「甘」のある味わいを提案します。決してブレることなく、自分の“旨い”を信じました。こうして日本酒に特化した酒屋として歩みはじめ、軌道に乗り出したのは平成3年ごろ。結婚し、銀行に務めていた奥さんの助言もあり、“店”を“会社”にしていく意識が芽生えます。地酒を売っていくことに手応えも感じ、これで順風満帆かと思った矢先のことでした。まさかの焼酎ブームが訪れます。

 

「あのときは辛かったですね。もう日本中が『鹿児島と宮崎の焼酎が一番』という雰囲気でしたから。だから僕は『焼酎ブームの間は九州には行かない』と宣言して、東北の日本酒蔵ばかりまわってました。意地ですよ。手のひらを返すようなことはしたくないですから。当時、“日本酒は終わってる”なんて言ってた飲食店が、今じゃ“やっぱり日本酒”だなんて言い出したり……。ブームに乗るってことはそういうことなんでしょうけど、そうはなりたくないですね」(長谷川さん)

 

都内屈指の注目スポットに次々と出店した理由とは?

長谷川社長には、日本酒に生かされてきたという強い感謝の心と愛があります。都内の一等地、麻布十番に店を構えたとき、「これが酒屋か?」というモダンな店舗デザインと斬新なコンセプトで業界を驚かせました。その後も、表参道ヒルズ、東京駅グランスタ、東京スカイツリーなど都内の“目立つ”スポットに出店。この店舗展開のやり方には、長谷川社長のこんな想いがありました。

↑麻布十番
↑麻布十番店

 

「よそから見ればただ調子に乗ってる奴かもしれませんが、『日本酒で食えるようになったら、東京の真ん中で商売しよう』と昔から決めてました。お世話になった造り酒屋に恩返しがしたくてね。目立つ場所に自分のお酒が並んでいると、酒蔵さんは喜んでくれるんですよ。内装デザインにこだわって店を構えたわけですから、ちょっとくらいは日本酒のイメージ向上にも繋がったんじゃないですかね」(長谷川さん)

↑東京スカイツリータウン・ソラマチ店
↑東京スカイツリータウン・ソラマチ店

 

搾った後の処理で酒をダメにする蔵元に腹が立つ

“造り酒屋に恩返しがしたい”。その想いが、「はせがわ酒店」成長の原動力になっています。酒蔵に対する想いが強い長谷川社長ですが、決して甘やかすことはしません。もちろん褒めることもありますが、叱ったり怒ったりすることのほうが多いそう。社長から電話がかかってくると、ビクっとする蔵元が多いという話も業界では有名です。

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「褒めるだけなら誰でもできる。僕は言づらいことも言いますよ。搾った後の処理が下手クソで酒をダメにしてしまう奴がいると、本当に頭にきますね。あと、設備投資しないでボサっとしている酒蔵もダメ。やっぱり売れているところは設備投資していますから」(長谷川さん)

 

上位の酒が「消える」という市販酒のコンペを創設

言いたいことは言う、やりたいこともやる。このスタンスで、長谷川社長は業界にさまざまな風を吹かせてきました。昭和57年には全国の酒販店に先駆けて生酒を扱い、飲み切りサイズで贈答用にも良い4合瓶での販売も積極的に提案。市販酒のコンペを20年前から企画し、現在では部門1位になると酒が(売れて)消えるという権威あるコンペ〈SAKE COMPETITION〉として定着しています。また、日本酒新時代のひとつのキーワードとなっている“低アル(低アルコール)”という概念も、10年以上前から提案。今では当たり前となっていることの種を蒔き、芽を出すまで根気よく育ててきました。

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↑今年の7月29日に表彰式が行われるSAKE COMPETITION 2016の審査風景

 

↑2015年の表彰式
↑昨年に開催されたSAKE COMPETITION 2015の表彰式の一幕。中央には元サッカー日本代表の中田英寿さんの姿も

 

人と人との繋がりを作り日本中の蔵の酒質向上を目指す

また、蔵元同士の交流会を仕切ることで横の繋がりを作り、情報交換の場を提供。手弁当で蔵元を海外へ連れて行き、世界各地で試飲会を開くことも行なってきました。人と人、人と酒を繋ぐことも、長谷川社長がライフワークに近いスタンスで実践してきたことです。「僕が声をかけたら断れないって人も多いと思いますけど」と笑いますが、彼の元には全国の蔵元や酒販店が集まってきます。そんな長谷川社長は、今この業界をどう見て、何に期待しているのでしょうか。

 

「爽やかな酒であれば、いろんなジャンルがあっていいと思っています。秋田の『新政』が表現する新たな酸と、木桶仕込みや無添加という考え方など、行き過ぎくらいなスタンスも面白いですよね。あと、佐賀の銘柄『東一』の勝木さん(現・五町田酒造取締役製造部長)が今年いっぱいで退社して、いくつかの蔵の技術指導をするそうなので、さらに酒質が高まっていくでしょうね。

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↑新政酒造の蔵元、佐藤祐輔さん

 

醸造だけじゃなくて酒米栽培のスペシャリストでもある勝木さんが田んぼの面倒も見るので、兵庫特A地区の山田錦や岡山の雄町の進化も楽しみですね。今年7月から東京のど真ん中の港区にある蔵に醸造免許が下りたり、そういうトピックスが多いのはいいこと。ネタが尽きない業界であって欲しいと思っています」

 

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↑現・五町田酒造取締役製造部長の勝木慶一郎さん

 

伝統と革新を酒造りで表現する全国の醸造家たち。そして女性や20代の元気な飲み手にも支えられ、活気に溢れる日本酒シーン。国外に目を向けても、ニューヨーク、パリ、ミラノ、香港など、日本人が思っている以上に世界から注目を集めています。そんな現実の裏側に、長谷川浩一という男の挑戦と日本酒に対する愛、そして彼が繋いだネットワークがあります。「いずれはパリにも出店したい」と語る長谷川社長。新たな挑戦が、日本新時代をさらなる次元へと誘ってくれることでしょう。

↑ミラノでの開催したSAKE BARの蔵元との集合写真
↑懇意にしている蔵元とともにイタリア・ミラノでSAKE BARを出店

 

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はせがわ酒店 http://www.hasegawasaketen.com/index.html