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2020/7/10 17:00

老舗CLUB三宿web閉店の真相をナガサワさんが自らが語る!

1994年の開店から、長年多くの芸能人たちからも愛された老舗「三宿web」。コロナ自粛のなか、ネットでの突然の「閉店発表」は話題になりました。そこで、今回は店長であるナガサワタケシさんから、閉店の真相や26年間の「三宿web」の歴史について語ってもらいました。

 

正直この店の閉店がこんなに騒がれると思ってなかった

──まずは、三宿Webが閉店する経緯を聞かせてください。

 

ナガサワ 色々ありますけど、やっぱりコロナの影響ですね。近年はクラブシーン自体が厳しくて、うちもよく26年続いたなって感じだったんですよ。それでコロナの問題が起きた。オーナーから連絡が来て「今まででギリギリだったのにコロナで当分先行き見えない状態で、これで店を続けるのは難しい」って話をされたんです。もちろん26年やってきましたし一抹の寂しさもありましたけど、オーナーが言わんとしてることもわかったので、しょうがないか……って自分も受け入れた感じですね。

 

──現状を踏まえて、オーナーの判断を受け入れたと。

 

ナガサワ そうですね。普段うちのオーナーはまずボクに相談してくれる人なんですが、今回は「閉店を決めた」っていう意見を求めない決定事項的な書き方だったので、よほどの感じもあったのでしょうがないかなって。もちろん言われた直後はめちゃショックでしたよ。なんせ49年間生きてきた中の26年間たずさわってる店なので、さすがに思い入れも多々ありますし。ただ、ほんとここ数年の時代の変化が激しいじゃないですか。26年間って歴史を大事にしたいっていうのは、みなさんにももちろん自分の中にもありますけど、やっぱり思考を変えていかないといけないんじゃないかなっていうのは思いましたね。コロナの状況は長引きそうですし、なかなか元の世界には戻らないかなとも思いますし。

 

──パッと戻る感じではなさそうですね。

 

ナガサワ マスクなしの生活は相当先だろうし、特に飲食でもライブハウスやクラブは槍玉に挙げられがちですし。

 

──そこは大きいですね。

 

ナガサワ そう考えると、ある意味いい潮時だったのかなって。でも、正直この店の閉店がこんなに騒がれると思ってなかったんですよ。

 

──いろんな出演者もお客さんも、ショックだった人は多かったと思いますよ。自分もそのひとりでした。最近行けてないのは申し訳ないなと思いつつでしたが。

 

ナガサワ やっぱりどうしても、近年ご無沙汰してる人も多いんです。思い出は風化されていくじゃないですけど、「そうかWebか、昔よく行ったな」くらいの人は多いかなと思ったけど、あれだけツイッターでいろんな人が思い出を語ってくれるとは思ってなかったです。「青春だった」とか「一生忘れない」とか、ボクからしたらそんなだったの? ってくらいちょっとびっくりしました。

 

──そんなに愛されてたのかと確認できたわけですね。

 

ナガサワ そうですね。でも、たくさんの方に惜しんでいただいてほんとにありがたかったです。

 

 

──クラウドファンディングをやればかなりの額が集まりそうですけど、それはやらないとツイートされてました。そこはどういう思いがあったんですか。

 

ナガサワ 周りからも閉店が決まる前のコロナの段階で「やれば絶対支援してくれる人多いよ」とは言われてたんです。他のクラブもやってて結構な金額になりましたよね。たぶんうちも、やったらある程度は支援していただけたとは思うんです。でもなぜやらなかったかというと、ボクがあまりクラウドファンディングが好きじゃないんです。もともと余り人に頼りたくないタイプっていうのもありますし、あとやっぱり状況が大きかったですね。ボク個人的には元に戻るまで2年くらいはかかると思ってるんです。2年先行きが見えない状況で、例えば何百万何千万円集まってもただ延命するだけで、何か面白いことができるかと言ったらできないと思うんですよ。

 

──確かにそうかもしれません。

 

ナガサワ クラブのクラウドファンディングのリターンって、フリーパスとかドリンクチケット付けますとかありますけど、今のこの状況が続いたら使えないじゃないですか。そういうことを自分で想定してるのにお金を集めるのはどうかな? って思ってしまったんです。クラウドファンディングは投げ銭みたいなものだから気にしなくていいよとは言われますけど。でもリターン以外でもみなさんの支援していただく気持ちに応えたい。でも、それも難しい。みなさんも同じように大変な状況な中で、何も返せそうもないのに人様のお金をいただくのは性格的にできないなってところですね。

 

──人に楽しい場を提供したいけど、延命してお店を続けてもそれができない歯がゆさを感じたわけですね。

 

ナガサワ そういう精神的な部分が大きいです。それに、もし今クラウドファンディングしても2年は保たないと思うんですよ。人件費維持費とかいろいろ考えると半年が限度だと思うんです。それで第2波が来ました、またお願いしますとはいかないよなって。いろいろ考えると、26年で終わるのと26年半で終わるのとでは大して変わらないかなって。これが30周年目前とかなら延命しますけど(笑)、26年って中途半端だよなとも思いましたね。

 

──なるほど。でも、いろんな方から続けて欲しいって声が届いたと思いますが。

 

ナガサワ 言っていただけるのはありがたいですけどね。「寂しい」とか「ここは一生あるもんだと思ってた」とか言ってる人もいましたし。自分もどこかで似たような感覚があって、なんだかんだ潰れないんじゃないかとか思ったりもしてましたね。

 

──自分もご無沙汰してるけど、いつでも行けるような感覚がありました。

 

ナガサワ いつでも行きたいときに行きたいから残しといてって感覚の人も多いと思うんですよ。自分でも、何かあったときに集まれる場所があると便利なのは感じてたので気持ちは分かるんです。たくさんの思い入れの染み込んだ空気があるから、やれるうちはなんとかがんばろうってやってきた感じですね。

 

──ナガサワさんも、結構前から続けていく大変さを言われてましたね。

 

ナガサワ 常に言ってましたよ、もう辞めようって(笑)。なので、自分の中では26年もやれたのは奇跡以外の何ものでもないというか。18〜19年目のころは、人生かけても20周年までは絶対にやってやると思ってましたけど、でも20周年越えてからは、いつ辞めてもいいかなくらいの感じが正直なところでした。でもやるからには一生懸命やって。そしたら、なかなか潰れそうで潰れないな、あれ? 25周年行ったぞって感じでしたね(笑)。

 

──最近は集客も落ちてきてたと言われてましたが。

 

ナガサワ そうですね。5〜6年前くらいからですかね。

 

──何が要因だったと思いますか。

 

ナガサワ これはある意味小箱全般の話だと思うんですよ。他のクラブの話を聞いても人が入ってないし。それは、小箱のよさを分かる人間が、年々歳をとって結婚して子どもができてマイホームを遠くに作って、夜遊びできない、行きたいけど行けないって状況の人が増えた。そういう人たちが遊ばなくなった。しかも、若い人たちがクラブ自体で遊ばない。行くとしても大きいクラブ。「なんでお金払うのにこんな小さい狭いところで?」って風潮になったのは顕著にあるかもしれないです。「こんな狭くて居場所ないじゃん」って人もたまにいますし、そういう感覚の人の方が多いと思う。逆に若い子から「こういうところの方が新鮮で好きです」って話聞くと、珍しいねって思っちゃいますもん。年々、小箱は厳しくなってますよ。

 

──クラブカルチャー自体も大きな岐路なのかもしれないですね。

 

ナガサワ そうですね。もっと以前の話だと、ネットとスマホが普及しまくったのが非常に大きかった。昔は、家にいてもつまらなかったじゃないですか。寂しかったし、音楽の情報も分からないし、まず人と知り合えない。で、こういうところに来ていろんな人と知り合いになって、話してると「面白い仕事してますね」って仕事の幅が広がったり。しかもイケてる音楽を知れるってほんとに刺激的な場所だったんです。でも、今はスマホで暇も潰せるしディスカッションもできるし、いくらでも音楽を探せるし。

 

──昔の小箱のクラブのあり方が、まさに今のSNS的だったんですよね。そういう意味でも、時代の変化を感じます。

 

ナガサワ 箱の希少価値が年々薄れていったのは、やっぱりあったと思います。それはしょうがないことなんですけどね。

 

──そこにコロナが追い打ちを掛けたと。

 

ナガサワ まさにそうです。このままズルズルやってどの道終わるなら、潔く引き際はきれいな方がいいのかなっていうのが自分の中にもあったし、だから延命を選ばなかったのはあるかも知れないですね。

 

 

「Web? ベタですね」って言われるけど、94年だと誰も知らなかったですから(笑)

 

──なるほど。ではここまで長く続けてきた、三宿Webならではの面白さはどういうところにあったと思いますか?

 

ナガサワ 近年の話で言えば、年々規模は落ちてましたけど、うちらしい何かを発信できなくて完全に惰性だけになったらやる意味ないなとは思ってたんです。でもなぜか不思議なことに月に1〜2つは面白いイベントが入るんですよ。例えばスケジュール表を見て、「やっぱWebってなんかヘンテコなことやってるな」って思わせるようなのがたまたま空いてる日に話が来たりするんです。The XXがアフターパーティやったのもそうだし。幕張で超満員の人たちがなぜここで? って、関係者もみんなビックリしてましたよ(笑)。

 

──海外のビッグネームがなぜ三宿の小箱で? ってなりますよね(笑)。

 

ナガサワ それは、そのバンドのマネージャーが昔ここでライブやったことがあったらしいんです。たぶんBIG LOVE RECORDSの仲(真史)くん関連のイベントだったと思うんですけど。昔やったのを覚えてて、ここでやりたいってBIG LOVE経由で話が来たんです。そういう変なつながりの話が今だにあるんですよ。全盛期のころはそんなつながりばかりだったじゃないですか。

 

──イベントでDJやった人がゲストで誰かを呼ぶと、その人がまだ誰かをDJで呼んでみたいな感じでしたよね。

 

ナガサワ 次から次へと人が人を呼んでくれて、ほとんどブッキングした覚えないくらいつながってましたから(笑)。それが今だにちょっとあるんです。やってれば何かしら面白いことがあるなっていうのは感じてました。それで、ズルズル26年経ってたみたいな(笑)。最近だと某スーパーメジャーなアーティスト、タレントさんが名前出さないで平日にバースデーパーティやったり、貸切イベントやったりもしたり。それも誰かの紹介で連絡が来るんです。

 

──遊びに来てる人も、近い業界の人たちなのでだからより広がりますし。

 

ナガサワ イベント自体も、いろんなジャンルの人たちにやってもらってましたしね。普通のクラブではやらない人たちがオールジャンル的にやってたのも大きかったかもしれません。

 

──なるほど。ここからは三宿Webの歴史を辿って話を聞かせてください。一番最初のオープンの経緯は?

 

ナガサワ ボクは、一番最初はバーチーフで呼ばれたんです。もともとプロデュースチームがいて、酒屋をやってるこのビルのオーナーと知り合いだったんです。亡くなってしまった社長が結構アメリカによく行く人で、向こうの事情も詳しい人だったんです。当時、海外でナイトクラブが流行ってて、ここの空いてる地下でクラブをやりたいって話になったんです。

 

──それが1994年ですか。

 

ナガサワ ハイ。店の名前もその社長が決めたんですよ。Webって今でこそ誰でも知ってる言葉ですけど、26年前だと「どういう意味?」って感じでしたから。日本では全然知られてなかったけど、クモの巣のように広がるって意味のインターネットウェッブがアメリカで流行っていて、それで社長が、情報発信的な意味合いがあるからWebがいいんじゃないかって決めたんです。実は他にも幾つか候補あったのに半ばごり押しで。今考えるとすごい先見の明があったなって。よく「Web? ベタですね」って言われるけど、94年だと誰も知らなかったですから(笑)。そうやって、社長がやりたくて始めたんですけど、ボクは(渋谷のクラブ)ROOMを辞めるのが決まっていて、バーテンが足りないからって呼ばれたんです。

 

──初期はどんな感じだったんですか。

 

ナガサワ 正直、クラブに関してみんな素人でした。スタッフも関係者もクラブは遊び行ってたけど、実際のクラブの営業がどういうものか誰も分かってなくて。ボクは呼ばれた中で一番年下の23歳でしたけど、(渋谷の)CAVE、ROOMですでに3年間キャリアがあってバイトでは1番上でしたし、誰よりもクラブの内情に詳しかったんです。そんなこともあり、バーチーフに加えて副店長も兼任することになって。でも最初の半年は全然人が入らず、どうしようって感じでした。

 

4か月経って給料が半月遅れるようになって、このままいくとそのうち潰れると思って初代店長のマーヴィンとボクとガリバーのスタッフ3人で今後の話し合いをしたんです。Webは最初ラウンジみたいな感じで、ソファー席があったりして。ミラーボールもなかったんです。ボクはもっとクラブっぽくしましょうよって言ったけど、でも2人ともミュージシャンだからライブハウスにしようって。これは2対1だし僕は引こうかなと思ったけど、そしたら2人から「オレらではこのバーは扱えないからとりあえず好きにやっていいよ。それでダメならライブハウスにするわ(笑)」って話になったんです。で、94年の12月からボクがブッキングを担当してクラブっぽい感じを強化したんです。

 

──店の雰囲気を変えたと。

 

ナガサワ まず日本人はシャイだから暗くないと踊れないから、プロデューサーに何も言わずに当時真っ白だった壁を勝手にペンキで黒く塗って。あと昔店内を仕切る木材で出来た段差のついたパーテーションがあったんですけど、フロア側の方が低くてグラス洗ってると踊ってる人と目が合うんです。なので、これまた勝手に板の段差の位置を変えて目が合わなくなるようにしたんです。で、なるべく照明も暗めにしたりストロボもつけたり、音響の置き方も変えたかな。そしたら、急に踊るようになって。

 

──そんなに変わるものなんですね。

 

ナガサワ あとはDJですね。まずうちだけのオリジナル的なDJが欲しかったので、まだ余所でレギュラーを持ってなかったデビュー前のシアターブルックのDJチーム・エルパソブラザーズの吉沢(DJ吉沢dynamite.jp)と与西(泰博)を金曜日の帯に据えて。2人のDJも抜群に良かったし、更にはシアター周りは業界人多くて華やかで。あとやっぱり三宿だから、普通にやったら街外れのインディなクラブで終わっちゃうなと思ったんです。

 

なので「三宿でこんな人がやるの?」ってDJを入れたくて、CAVE、ROOMのころのコネクション使って、ちょっとでもシーンで名前のある人にやってもらったんです。瀧見(憲司)さんとか佐々木 潤さんとか。別経由で紹介して貰って朝本(浩文)さんとかも。有り難い事に皆さんここでDJやると大抵店を気に入ってくれたんですよ。マーヴィンのキャラもありましたし、なんせ酒が圧倒的に美味かったのはでかかったですね。

 

 

──クラブで酒の美味しい店として、かなりの評判でしたね。

 

ナガサワ やっぱり、こんな三宿で普通にやっても余所のクラブにはなかなか敵わないし、せめて酒でも旨くないと太刀打ちできないっていうのがあって。で、徐々にあそこ酒がめちゃくちゃ美味いって噂が広まったんです。そうこうするうちに、名前のある人でここでイベントやりたいって言ってくれる機会が増えて、そこからは末広がりに広がりました。また初めてここでDJしてくれた人が店を気に入ってくれてって、同じループで繰り返されるっていう。それが結果的に、歴代のフライヤーで表紙を飾ってくれたメンバーになっていったんです。ほんともう数珠つなぎでしたね。

 

──なるほど。三宿って場所はどうだったんですか。あまり頻繁に行く場所ではなかったですよね。それもよかった?

 

ナガサワ 結果的にはそうです。でも最初は、都内の人でも知らない場所でしたからね。三軒茶屋の手前って言わないと分からなかった。まず駅がないですし。そしたら95年くらいに三宿ブームが起きたんですよ。西麻布の次は三宿だって特集が、テレビとか雑誌で複数あったんです。それで一気に三宿ブームに火がついて。三宿ってヤバいスポットがあるって。当時あったの、ゼストとボエムくらいだったんですけどね(笑)。でも春秋とかイエローとかマッドなバーもあって、初期の西麻布、隠れ家感があったんですよ。

 

──確かに。

 

ナガサワ 西麻布と三宿ってちょっと似てるんです。駅もなくて、でもちょっと離れててその分隠れ家感が増すっていう。それでブームになったら、軒並みゼストは週末は超満員で人が入りきらなくなって苦情来て警察来たり、喜楽亭、夢吟坊、天下一品は軒並み行列ですよ。週末なんて交差点の行き交う人の数が尋常じゃなかったです。

 

──そんなでしたか。

 

ナガサワ 95〜97年くらいはそうでした。うちも毎週末金土両日200人ずつくらい入るようになって。だって、週末に1度ボクひとりがDJやっても160人くらい入ったんですよ(笑)。誰がDJとか関係ない状態でした(笑)。イケてる三宿にクラブがあるぞって感じだったんでしょうね。しかも当時はクラブブームがあって、さらに助長されたんです。奇跡的な三宿ブームとクラブブームの交差が起きた(笑)。それがなかったらとっくに潰れてたと思いますよ。いいタイミングで、店をクラブっぽくしたのもよかったし。これはラッキー意外の何ものでもないです。

 

──そのころはバブルは弾けてましたけど、まだみんなお金に余裕ある人も多かったですし、夜遊びが普通でしたからね。

 

ナガサワ そうです。あと、ディスコが下火になってナイトクラブって新しい遊び場があるみたいよって一般層がざわつき始めたのもあったんです。当時、ここに200人ってどうやって入ったの? って思いますけど、そのころは20〜21時にオープンして24時までは、サラリーマンとかOLとか一般層が100人入るんです。その人たちが終電で帰ったころからクラブ慣れした人が100人来るっていう、なんか自然と入れ替え制みたいになってたんです(笑)。だから、時間帯で客層が全く違うのが面白かったですね。

 

 

常に、他ではやってないオリジナリティを追求してきた

 

──では、歴代のレギュラーのDJやイベントをざっと振り返っていきたいと思います。

 

ナガサワ 初期のころよくやってもらってたのは、朝本さん、二見(裕志)さん、今、和モノで有名な吉沢、あとは冷牟田(竜之)さんとかがやってくれてました。

 

──スカパラ勢が多く出られてましたよね。

 

ナガサワ もともと、アーティマージュの社長のGEE(浅川真次)さんがうちの立ち上げに関わったひとりなんです。僕もともとスカパラファンでしたし、前述したようになるべく華やかな人に演って貰いたかったのもあって、浅川さんに「ここで冷牟田さんとかやってくれないですかね?」って相談したら、やってもらえることになったんです。当時の冷牟田さんの人気っぷりはすごかったです。初めてやったのが木曜日でしたけどパンパンになって。冷牟田さんも気に入ってくれて、毎月やってくれるようになったんです。

 

そのあとバイク事故に遭われて当分DJ活動もできなくなって、その代わりに入ったのが谷中(敦)さんだったんです。谷中さんが違うイベントをやり始めて、次に青木(達之)さんも呼んで2人でやり始めて。青木さんが亡くなったあとは川上(つよし)さんが入って。スカパラのみなさんはほんと一様にいい人で、ちょいちょい遊びに来てくれてました。今はお酒もやめましたけど、谷中さんはしょっちゅう呑んだくれてて、昔は毎日ここにいるくらいの勢いでしたから(笑)。

 

──その印象が強いです(笑)。渋谷系周りの出演者も多かったですよね。

 

ナガサワ 仲くんの『ESCAPE』ってイベントは96年に始まったのかな。仲くんとはROOMのころからの知り合いで、何かしらでよく遊びに来てたんです。当時関連するインディレーベルがいっぱいあったのでそれだけの曜日を作ろうかと思っていて、良かったらエスカレーターレコーズもどうですか? って言ったら乗ってくれて。試しに1回やってもらったら、それがどえらい入ったんですよ。仲くん自身も驚いてました。他のクラブでやってたころは全然入ってなくて、仲くんもこんなに面白いことやってるのにって自暴自棄になりかけてたみたいで。

 

で、たまたまやったらえらい入った。そこからはレギュラーですよ。一大ムーブメントですよ。メジャーに1度も行ってなくて、インディであれだけのパワーはほんとすごかった。月に2回もやってましたから。平日の火曜日に2500円とかで。しかも150人くらい毎回入ってて超満員でした。あと、当時仲くんが「ハッピーチャーム(当時あった渋谷系寄りのダンスミュージック)的なのは、クラブミュージックじゃないってディスられたり、なかなか他のクラブでやるのは難しいジャンルで、Webじゃなかったらできてなかったかも」って言ってました。うちとしてもよかったですし、仲くんにとってもいいホームができた感じがあって、お互いにいい相乗効果がありました。

 

──まさにタイミングがあったって感じですね。

 

ナガサワ ほんとにそうでした。小西(康陽)さんが本格的にDJし出したのもうちからだと思いますし、京都から出てきたばかりのFPM・田中(知之)さんもDJやってくれてましたね。チャーべくん(松田岳二)とはROOMからのつながりで、『ESCAPE』の前から亡くなった岩城健太郎くんとイベントしてもらったりしてました」

 

 

──『申し訳ないと』もすごかったですよね。

 

ナガサワ 『申し訳』も『ESCAPE』並みのムーブメント作りましたね。J-POPが頻繁にクラブで掛かるようになったのは確実に『申し訳』の影響は絶大だったでしょうし。うち、お笑いのイベントとかいろんなアバンギャルドなイベントやってきましたけど、そんな自分でさえ、実は『申し訳』やるときは結構勇気がいったんです。

 

──それはどうしてですか。

 

ナガサワ 当時、宇多田ヒカルやMISIAとかがクラブミュージック的な邦楽を出すようになりましたけど、当時ではまだクラブで日本語曲を掛けるのは、えっ日本語? って風潮が強くあったんです。ボクでさえそういう感覚ありましたし。それなのに果たして一晩中日本語、しかもJ-POPで大丈夫なのか? って不安があったんです。

 

──下手するとイロモノのイベントに見られるかもしれないと。

 

ナガサワ ほんとそうです。ノリと勢いでやりませんか? と誘っておきながら、お客さんに文句言われるんじゃないかって当日キャッシャーに座りながらドキドキしてました。昔は結構いたんですよ、「ギューギューすぎるから金返せ」とか「なんだこれJ-POPじゃないか金返せ」とかはっきり言う人多かった。そんな中で、ルードなゴツい3人組が来て、これはヤバいな説明した方がいいかな? って迷ってたんです。言いかけた直前に、入ろうしてる人の背中見たらうちわが刺さってて“加護亜依”って書いてあって、なんだよイベント目当てじゃんってずっこけそうになりました(笑)。

 

──完全にノリノリの人たちだったと(笑)。

 

ナガサワ そうです(笑)。でも、お客さんはオタクっぽい人たちも多かったし、J-POPをつないでクラブ的に掛けるイベントは当時なかったから、一体中はどんな雰囲気なんだろう? ってフロアを覗いてみたんです。そしたら、ギュウゾウさんがDJやって宇多丸さんが横でマイクで煽ってオタクの人らががガンガン踊ってるんですよ。なんだこれは?! いろんなことをやってきたつもりだけど、これはやられた! って思いました。

 

──新しい世界を見てしまったみたいな(笑)。

 

ナガサワ 思いました(笑)。J-POPしばりはちょっと怖いけど、でも面白いしこれはやろうと思いました。そこから毎月やるようになったんです。

 

──『申し訳ないと』は何年から始まったんですか。

 

ナガサワ 2001年です。ちょうどそのころから、始まったイベントも多いんですよ。NONA REEVESのイベントもそうでしたし、杉浦(英治)くん曽我部(恵一)くんの『VEGAS』もそう。キャラの濃いスタッフも居たのも相まって、そこら辺をWeb第二次全盛期って呼んでます。『VEGAS』も一時代築きましたね。杉浦くんがSUGIURUMNでハウスになるくらいのタイミングで。曽我部くんの人気もすごかった。だから「初めて行ったイベントが『VEGAS』です」って人も多いですね。

 

──RIP SLYME勢も結構やってますよね。

 

ナガサワ リップも2001年くらいからやってるんです。けどデビューしたころころに名前出してイベントやったらパンパンになっちゃって、しかもファンの子たちが集まる感じになっちゃったんです。これマズいなってことで、変名イベントをやって。『機種変しないと』とか誰のイベントか全然わからないっていう(笑)。それは、SUくん、FUMIYAくんとかがやってました。近年では、FUMIYAくんが『bond』っていうのをずっと長いことやってくれてました。3月にもやったばかりで。

 

──ヒップホップ系もわりとやってますよね。

 

ナガサワ そうですね。何気にヒップホップ勢とつながりが多いんですよ。特に、FGクルー周辺とやたらと縁があって。前述のRIP SLYMEも然り、RHYMESTER、EASTEND、MELLOW YELLOWとか。LITTLEくんもよく出入りしてますし。FG好きな若手からするとちょっとした聖地みたいになってるみたいです。あとヒップホップ勢だと、石田さん(ECD)とかNIPPSさんとかも。あと元々Lamp EyeのDJ Yasはうちのオープニングスタッフなんですよ。当時二木くん(Yas)が呼んで、DJ KRUSHさんもやったりとかも。

 

──いろいろ濃いですね(笑)。まだまだいろんな方が出演されてると思いますが、ほんと新しいカルチャーを発信する場所だったんだなっていうが改めて分かります。

 

ナガサワ さっきも言いましたけど、余所の王道のクラブには普通じゃどうやっても勝てないなっていうのがあったんです。なおかつ三宿なので、他じゃやらない人をなるべくフィーチャーしようっていうのはありました。アンダーグラウンドのガチンコのクラブは渋谷青山西麻布に任せて、うちは邪道で。プロレスラーの大仁田は嫌いな方なんですけど、なぜか自分も大仁田の道を行っちゃったっていう(笑)。

 

──インディでやって行くとなるとアイディア勝負なところは強いですし。

 

ナガサワ 常に、他ではやってないオリジナリティを追求してきたというのはあります。ボクもCAVE、ROOMってガチンコのアンダーグラウンドな店で働いてきたので、頭はそういうモードだったんですが、マービンと知り合って崩されたんです。

 

──マービンさんは、もともとムスタングA.K.A.というバンドのボーカルでした。

 

ナガサワ そうです。あの人はもともとインディ趣向だったけどメジャーデビューしていろんな世界を見て、面白かったらメジャーとかインディとかどうでもいいじゃんって考えられる人だったから、それにすごく影響されました。やっぱりお客さんあっての店なので、お客さんが「めちゃ楽しかったです!」って帰ってくれるのが何よりだなって。例えば、誰も知らないかっこいい選曲だけど客3人とかじゃなかなか何かが生まれずらいというか。売り上げも然りですけど働いてても動きが無いからつまらないし。でも客が100人くらい入ると売り上げもそうですけど、何かが生まれたりすることが多いんですよね。客同士の出逢いもそうだし、店の空気が動くというか。そういう思考にシフトチェンジして行ったのもあります。裾野を広げて、普通のクラブじゃやらないようなこともやろうって。

 

──電流爆破みたいなことをやってきたと。

 

ナガサワ まさにそうです(笑)。

 

 

店はなくなっても、心の片隅に残ってくれるかな

 

──では改めて、ナガサワさんが感じる、三宿Web閉店への思いを聞かせてください。

 

ナガサワ なんせ49年のうちの26年関わってきたんで、ある意味ボクの人生的な部分はありました。はよ辞めたいなってずっと思ってましたけど、その反面閉店が決まるまでは辞めることを想像できなかったっていう。周りのみなさんと一緒で、なんだかんだ続くんでしょって思ってた部分が自分もあったので。だから不思議な感覚ですね。でも逆に、これだけ長くやってきたからこうやっていろんな話もできるし。いろんな歴史があって、いろんなつながりもできたなって。しかも閉店を機に、たくさんの方にとって思い入れがあるお店だっていうのが知れてほんとにありがたいなと思いました。ここ数年はやってる意味すらも自問自答してるところが強かっですけど、長くやってきてよかったなって閉店によって改めて思わされました。

 

──ナガサワさん自身、これからどうされるんですか?

 

ナガサワ 店が終わると決まったときにいろんな思いがありましたけど、当然自分のことも考えますよね。このあとどうしよう? この歳で無職はキツいな、しかもコロナの状況でどうやって食っていくんだ? って。そしたらですね、ありがたいことに売り出してたWebTシャツをすごい数買っていただけて。みなさんのおかげで、ちょっと考えられる時間ができたなって。あと、ずっと紙のマンスリーを作ってきたじゃないですか。ネットがあるからフライヤーも作らなくていいけど、歴史もあるしって頑なに作ってたんです。若い子はこの表紙になるのが夢だって人も多々いたし。せっかくだから、今までの表紙を一冊の本にしようとしてるんですけど、それもいい反応がいただけそうなんです。あと、うちはクラブで初めてだと思うんですけど、オープン当初からグラスに店のロゴを入れてるんですけど、あれ見るとWebを思い出すって方もいて、しかもうちって酒のイメージが強いので、ロゴ入りのグラスを販売しようかなと思ってるんです。

 

──確かに、思い入れある人にはうれしいですね。あと、若い世代でもフライヤーをまとめた本見て、こんな人がやってたんだって楽しめますね。

 

ナガサワ そういうことができるのも、26年やってきた積み重ねだと思うんですよ。長くやってきてよかったな、人生無駄な時間はないとよく言いますけど、ほんとにそうだなって最近すごく思います。

 

──関わった人や遊びに来た人も多いですし、各方面から、今まで三宿Webを守ってくれてありがとう的なナガサワさんへの感謝もあると思いますよ。

 

ナガサワ そうだとありがたいですね。あと以前、下北沢のクラブSLITSの歴史をまとめたスリッツ本(『LIFE AT SLITS』)ってあったじゃないですか。あれがすごく面白かったんです。2007年に出たんですけど、当時だとまだWebでは本にできないなって思ってましたけど、今なら書けるかなって思って。

 

──それいいですね、三宿Web本。

 

ナガサワ ウェブなのにネットじゃなくて本? って感じですけど(笑)、それもうちっぽくて面白いなって。歴史を検証する上で、ああいうのやりたいなって願望はすごくあります。時間かかってもいいから、これぞ三宿Webの歴史が凝縮されたような本を作りたいですね。思い入れのある方も多いので、その人たちがいつ見てもWebを思い出せる面白い本を作りたいなって思います。そうやって、Tシャツにしろ、表紙本、グラス、歴史本とかちょっとずつでもやって行って、SNSをうまく使えば三宿Webって名前がもうちょっとは忘れられないのかなって思うんです。店はなくなっても、心の片隅に残ってくれるかなって。

 

──確かにそうですね。ちなみに、最後のイベントとかはやったりするんですか?

 

ナガサワ やりたいですけどね、現実問題考えるとやれないのかなって。具体的に閉店する日はまだ決まってないですけど、まあ近々だとは思うんです。オーナーには1か月前には伝えてくれとは言ってますけどね。最悪最後の1か月はバー営業でもして店の雰囲気を味わってもらおうとも思ったんですが、それでも結構な人来そうなので。確実に密になるだろうし、それでよからぬことが起きちゃったら、みなさんに迷惑がかかっちゃうし、演者の人にも悪いし。最後に何かやれば儲かるとは思うんです。入れ替え制とかでもしてね。でもそれもあこぎな商売だなって思うし。

 

──なるほど。最後だしあこぎなことやっても誰も文句言わないと思うんですが、そうしないところがさすがです。

 

ナガサワ いやいや、最後まで誠意大将軍でいこうかなと(笑)。まあ最後どういう形になるかわかりませんが、とりあえずもし最後何もできなくても、これだけ沢山の人に愛されて、色んな想いや気持ちを頂けて本当に感無量です。長い間、三宿Webをご愛顧頂きまして、誠にありがとうございました!

 

 

【プロフィール】

 長澤剛史 (ながさわ・たけし)

渋谷のクラブ・THE CAVEでバーチーフとして活躍後、同じく渋谷のクラブ・THE ROOMのオープニングに初代バーチーフとしてバーのプロデュースも。その後三宿Webのオープニングにバーチーフとして入店、1か月後に副店長兼任、1年後からは店長に。業界歴は29年目。

 

 

企画・撮影/丸山剛史(朝本浩文ファミリー)
ライター/土屋恵介(INAZZMA☆K)