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2017/10/15 20:00

路線距離100km超の鉄道に何が――2018年春に廃止される「三江線」が伝える地方路線の維持の難しさ

2018年3月いっぱいで消える鉄道路線がある。島根県の江津駅(ごうつえき)と広島県の三次駅(みよしえき)を結ぶJR西日本の三江線(さんこうせん)だ。路線距離は108.1kmと長い。JRの発足後、本州で100kmを超える路線で、初の廃止路線となる。なぜ、三江線は廃止せざるをえなかったのだろう。そこには、地方路線を維持していく難しさが見えてくる。

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中国地方最大の江の川にほぼ沿って路線が延びる

廃止に至る原因を探る前に、まずは三江線とはどのような路線なのかを紹介しておこう。

 

三江線は中国地方で最大の一級河川、江の川(ごうのかわ)にほぼ沿って路線が設けられている。江津駅で山陰本線と、三次駅で芸備線と接続している。

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路線開業は段階的に進められ、島根県側の江津駅~浜原駅(はまはらえき)間は戦前の1937(昭和12)年に開業し終えている。一方の広島県側の路線建設は戦後に本格化し、三次駅~口羽駅(くちばえき)間が1963(昭和38)年に開業した。最後まで残されていた口羽駅~浜原駅間も、山陽と山陰を結ぶ“陰陽連絡線”として建設され、1975(昭和50)年に開業した。

 

現在、1日に走る列車の本数は区間で差はあるものの、わずかに4~5本。全線を通して走る列車は江津駅発が2本、三次駅発は1本しかない。通して乗ると約3時間半。朝夕に走る列車がメインで、口羽駅~浜原駅間は日中6時間にわたり、上り下り列車とも走らない。

 

ローカル線用のキハ120形が1〜2両で走る

三江線を走る車両はキハ120形。JR西日本がローカル線用に開発した小型気動車で、三江線を走るキハ120形は300番台で定員は112名ほど。

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↑三江線を走るのはJR西日本のローカル線用気動車キハ120形。小型の気動車が1〜2両で走る

 

本数が少なく車体が小さめの車両。とはいえ列車はあまり混まない。たとえば、江津駅5時53分発の“始発”列車の10月某日の様子をお伝えすると、2両編成の前の車両は、地元の人らしき乗客が3人、旅行者が4人、廃止を惜しみ訪れた鉄道ファンが3人といった具合。後ろの車両も似た状況だった。途中駅で多少の乗降はあったものの、混雑にはほど遠い状況。この列車が江津駅を午前中に発車する列車で唯一、終点の三次駅まで行く列車であったにも関わらずである。

 

まず三江線が使われない原因を考えてみる

三江線の沿線を旅してみると、意外に住宅が建ち並ぶ風景に出くわす。中国地方らしく、島根県の石見(いわみ)で産出した粘土を使って焼いた茶色の石州瓦の民家が多い。極端な例だが、いま、多くの鉄道路線の危機が叫ばれる北海道に比べれば、住宅が建つ密度はかなり高いように思われる。

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↑三江線の沿線には意外に住宅が多く建ち並び、なぜ鉄道が使われないか疑問にも感じた

 

ところが、JR西日本が発表した2013年度の営業係数によると、三江線は879.7円。つまり100円を稼ぐのに900円近くの経費がかかる。1kmあたりの平均通過人数は45人。どちらもJR西日本の路線ではワーストの数字だ。

 

どうして三江線は使われないのか。乗車率が低い原因は、いくつか考えられる。

 

1)路線が曲がりくねり時間がかかる

大きくうねる江の川沿いに路線が造られた。直線的に線路が敷けなかったため、時間がかかる。

 

2)沿線人口の減少

三江線が全通した1975年当時の沿線3市3町の人口は16万7000人、それが40年間で4万人も減ってしまっている。また地方の核となる都市も無い。

 

3)災害により長期間、不通が続いた

災害の影響も大きかった。特に近年になり2006年~2007年、2013年~2014年とほぼ1年間にわたり、列車が走れない時期が続いた。これだけ休止期間が長いと、地元の人たちも頼りにできないというのが本音であろう。

 

宇都井駅のような“分不相応”な建築物を造ってしまったのは?

途中の宇都井駅(うづいえき)は、鉄道ファンが多く訪れる駅。ホームは地上20mの高さにあり、下からは116段の階段で上る。天空の駅とも呼ばれる、不思議な感覚の駅だ。

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↑三献線のユニーク駅として鉄道ファンに知られる宇都井駅(うづいえき)。天空にそびえる不思議な駅だ

 

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↑ホームへのエレベータは無く、116段の階段を上る。「天空に向かいそびえる宇都井駅」――地元の人たちが作ったカルタ巡りの川柳が面白い

 

たが、この駅の平均乗降人数を見ると……。2004年までは1日に2~4人あったのに、いまは1人いるかどうかの状況になってしまっている。

 

三江線が全通した1975年、最後に造られ区間が口羽駅~浜原駅で、宇都井駅はこのなかほどにある駅だ。この区間はトンネルが多く、ほかの三江線の区間とは異なり直線的に路線が敷かれている。江の川をまたぐ鉄橋も非常に立派だ。宇都井駅も駅下に集落があり、利用者もいるだろうと考え、造られた駅。この新線区間は、“費用対効果”を細かく考えずに造られていることが透けて見える。

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↑宇都井駅のホームには団体客用の臨時列車が停車中。上空からは宇都井の集落が見渡せる

 

日本鉄道建設公団がもたらした功罪

三江線は全線開通するまで島根県側の路線を三江北線、三江南線と呼んだ。1960年代にこの北線、南線が開通した当時は、もちろん国鉄が路線を運営していた。そのころ、すでに閑散路線で、国鉄では三江線の全線開業をより強く推進していたわけではない。

 

そんな三江線を全線開業へと大きくカジを切ったのが、1964(昭和39)年3月に発足した日本鉄道建設公団。1966(昭和41)年に口羽駅~浜原駅間の工事を着工する。日本鉄道建設公団とは、鉄道建設事業を独自に行った特殊法人で、完成後に路線を国鉄に貸付、または譲渡を行った。

 

日本鉄道建設公団が路線建設を独自に行うことになり、政治的な思惑が路線建設に絡みやすくなった。国鉄側が引き取りを強く拒否しているのにも関わらず、建設された路線すらある。

 

もちろん、日本鉄道建設公団が建設した路線のうち、地方の幹線として機能したところもあるものの、大半が黒字を見込めない線区だった。その後、国鉄が民営化せざるを得なかった1つの原因として、この日本鉄道建設公団が行った強引な路線建設にあったことは否めない。

 

計画当初は三江線の利用者も、それなりにあったものの、三江線が全通した1975年ごろにはすでに、車社会が訪れていた。そして民営化したJR西日本を苦しめることにもなっていったのである。

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↑江の川の支流、濁川を渡る三江線の列車。河川を渡る姿が絵になった三江線だった

 

今後、代替バスを走らせる予定だが……

三江線の沿線には3市3町があるが、沿線は現在、三江線以外に支えとなる公共交通機関が無い空白地帯でもある。そのため地元では代替バスを走らせる予定だ。だが、実証実験を始めたものの、鉄道路線沿いに走る国道や県道にはバスの運行に支障をきたすほど狭い区間もあり、バスの運行を危ぶむ声も聞かれる。

 

島根県、広島県それぞれの県内を移動する人はそれなりにいる。全線開通させずに三江北線、南線のままで運転本数を保つことができたなら、まだ路線存続の可能性があったのかもしれない。消えることが決まってから、改めて鉄道の大切さを知るというのは、なんとも悲しい現実である。

 

さらに三江線の廃止を通して見えてくるのは、政治のカジ取りの難しさである。真に必要な公共施設かどうか将来を見据え、“負の遺産”とならないようにしっかり見極めないと、今後もこうした第2・第3の三江線が現れてくるのではないだろうか。

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↑宇都井駅の待合室。地元の人たちによって毎日、清掃され、きれいに守られてきた。沿線住民に愛された路線だったのだ