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2018/7/27 6:00

【朝の1冊】ベンチャーウイスキーとソメスサドルが世界進出できた理由とは?――『世界ナンバーワンの日本の小さな会社』

あなたは知っていますか? 肥土伊知郎さんという方を、そして、染谷昇さんを……。

 

お二人とも最初は小さかった会社を奮闘努力の末、大きく成長させ、今も活躍を続ける伝説の社長だ。

 

肥土さんはベンチャーウイスキー取締役社長であり、ウイスキーファンなら知らぬものはない「イチローズモルト」の産みの親。染谷さんは、日本での唯一の馬具メーカーとして、競馬や乗馬の世界で信頼を集めるソメスサドルの代表取締役社長である。ソメスサドルは馬具だけではなく、職人の技術を駆使したカバンやバッグの製造・販売も行い、今では「日本のエルメス」と呼ばれるまでになっている。

 

 

二人の小さな巨人を執筆した理由

世界ナンバーワンの日本の小さな会社』(山本 聖・著/クロスメディア・パブリッシング(インプレス)・刊)は、この「小さな巨人」と呼ぶべき2つの会社に着目し、その成功の鍵はどこにあるのか解き明かそうとした本だ。

 

著者の山本 聖は、元小田急百貨店でカリスマバイヤーとして注目され、小田急百貨店を退社後は一般社団法人・地球MD 代表理事をつとめている。現在は、中小企業基盤整備機構本部プロジェクトマネージャーとして、半官半民の見地で全国の中小企業の支援活動を推進中だ。そんな彼は、

 

「小さくても、いや、小さいからこそブランドをつくりたい!」と考えている、全国で頑張るリーダーのみなさんを応援したい気持ちで本書を執筆しました

『世界ナンバーワンの日本の小さな会社』より抜粋

という理由でこの本を執筆した。

 

 

肥土伊知郎を知っていますか?

2006年、「イチローズモルト カードシリーズ」がイギリスの『ウイスキー・マガジン』で日本産ウィスキーとして最高の栄誉「ゴールドアワード」を受賞した。この快挙を成し遂げたのが、マスターブレンダーである肥土伊知郎だ。

 

その後もイチローズモルトは快進撃を続け、今ではほとんど手に入らないほどの人気である。しかし、始まりは惨憺たるものであった。

 

社長の肥土伊知郎は、1625年から続く造り酒屋の長男として秩父に生まれた。周囲にいつもお酒がある環境で育ったがとくに酒造業界に入るつもりはなく、学生時代はウィンドサーフィンに明け暮れる青年であった。

 

敏腕営業マンから倒産寸前の会社へ

結局、大学を卒業するとサントリーに入社することにした。実家は日本酒や焼酎を製造していたが、肥土自身はウイスキーが大好きだったのだ。できることなら、実家よりサントリーで働きたい。ウイスキーを製造する山崎蒸留所に一生を捧げよう。肥土に迷いはなかった。

 

けれども、残念ながら蒸留所への配属は果たされず彼は営業職についた。夜の町を回ってはお酒を浴びるほど飲み、スナックなどで買ってもらうように働く毎日のくり返し。それはそれで充実していたのだが、そんな彼を突然の不幸が襲う。実家の家業がうまくいかず、立て直しを手伝って欲しいと頼まれたのだ。サントリーに未練を感じつつも実家に戻った彼は、あまりの業績の悪さに唖然とする。それでも、とにかくなんとかしようと必死の努力を続けたが、時既に遅し……。結局、事実上の倒産となった。

 

 

原酒を捨てる?

そんな肥土をさらに苦しみが襲う。会社が倒産した後も、倉庫には400樽にも及ぶウィスキーの原酒が眠っていた。当時、ウィスキーは人気がなく買い手が見つからない。商品化するまでの経費がかかるからだ。このままでは廃棄するしかないところまで肥土は追いつめられた。

 

20年もの間、祖父から父へと受け継いできた大事な原酒を自分の手で廃棄するなんてあってはならないことだ。肥土は悩み、苦しみ、ある決心をする。そこから始まるすさまじいドラマは、『世界ナンバーワンの日本の小さな会社』で味わっていただきたい。ウィスキーを楽しむようにゆっくりと、何度も転がすように……。

 

実話とは思えないほどの激しい毎日を経て肥土伊知郎はやり遂げた。廃棄寸前だった原酒を馥郁たる香りを放つウィスキーとして商品化するのに成功したのだ。

染谷昇を知っていますか?

『世界ナンバーワンの日本の小さな会社』に描かれるもう一人の主人公・染谷昇の半生も、肥土伊知郎に負けるおとらず波瀾万丈だ。

 

染谷は北海道の歌志内の生まれである。かつては炭鉱の町として栄えた町だが、閉山によって一気に人口が減ってしまった。何とか新しい産業をと模索した結果、白羽の矢が立ったのが馬具作りの会社だった。炭鉱で働くことができなくなった人々に技術を指導し、日本産の馬具を世界に広めようというものだ。

 

地元の人々が相談を重ねた結果、染谷昇の父政志が、既に馬具製造輸出業であったオリエントレザー社の社長に就任することになった。社長とはいっても、実態は億単位の負債を抱えた会社を引き受けた形となった。このオリエントレザー社が、後にソメスサドル社として躍進すると、この時、誰が想像したであろうか?

 

当時、染谷はまだ学生だった。東京の大学でアルペンスキーの選手として活躍していたが、父のために、そして、故郷のために会社を手伝おうと決心する。そこから始まるひたすらの前進。馬具も革も商売のノウハウもわからないまま、染谷昇はただ若さにまかせて、行動した。

 

 

様々な出会いを経て

ここで染谷がとった行動は、がむしゃを通り越してめちゃくちゃに見える。しかし、奇跡としかいいようのない素晴らしい人々との出会いが染谷を成長させていく。

 

たとえば、鞍のことを勉強しようと、紹介状もないまま飛び込んだ名門乗馬クラブでの出会い。追い返されても当然だが彼に何かを感じ取ったのだろう。乗馬クラブのオーナーが「居候していけ」と勧めてくれた。染谷は染谷でそのままキャンピングカーに住み込み、乗馬と馬具について教えを受ける。

 

また、馬に関連があるだろうと飛び込んでみたウエスタンスタイルのバーでのこと。歌手として一世を風靡した尾崎紀世彦と染谷は自然と知り合いになった。その店の常連は乗馬好きの人が多く、あるとき「馬具屋ならサドルバッグを作ってくれないか」という依頼を受けた。染谷はすぐに工場へ発注し、それが後にバッグ作りへとつながっていくのだからまるでおとぎ話のようではないか。

 

 

馬具とバッグで世界に打って出る

ソメスサドル社は馬具とバッグを2つの車輪として成長を続けた。馬具は、最初ヨーロッパに追いつくこともできない有様だった。しかし、今では外国人ジョッキーが「ソメスの鞍を」と注文するほどのクオリティを誇る。

 

さらに、馬具づくりはもちろん大事だが、馬具だけでは会社として安定しないと染谷は考えた。もう1つの看板商品として製造を始めたバッグは、品質の高さから2008年の洞爺湖サミットでG8各国の首脳夫妻への贈り物として選ばれるまでになった。

 

とはいえ、順風満帆な毎日だけが続いたわけではない。借金返済から始まった会社を建て直すべく奔走する毎日、鞍のことも革のことも、一から必死で勉強した若い日々、ようやく経営が安定したとほっとしているところに襲ったリーマンショックと、その後の景気の低迷。

 

それでも染谷は負けなかった。工夫と努力と情熱と、何よりも周囲の支援を得て、どうにか乗り切ってきたのだ。

 

 

2つの会社を追いかけたい!

「ベンチャーウイスキー」と「ソメスサドル」2つの会社を見ていると、結局、商売は人の力で行うものだとよくわかる。

 

そこにあるのは、人柄であり、真心であり、努力そして明るさだ。ノウハウを学ぶより、人間力から得るものを大事に行動することが何より大切なのだろう。これからも先行きを見守り続けたいと心から思う。日本製品はこうした会社によってそのクオリティを失わずにいるのだと、私は信じている。

 

 

【書籍紹介】

世界ナンバーワンの日本の小さな会社

著者:山本聖
発行:クロスメディア・パブリッシング(インプレス)

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