エンタメ
ムー
2017/2/11 20:38

【ムー伝説探訪】「桃太郎といえば岡山」は間違いだった!? 「山梨県・大月発祥」を確信に変える驚くべき符合の数々

眼前の大岩壁の下は、巨大な岩陰になっている。つまり、岩壁の下部は、大きくえぐられたかのようにして、横幅の広い洞窟になっているのだ。幅はおよそ30メートル、奥行きは10メートル、高さは最大で5メートルはあろうか。中に入ると、異界に続く領域に足を踏み入れたかのような不安と恐怖がからだを伝った。

↑岩殿山の中腹にある「鬼の洞窟」。手前は大月桃太郎連絡会議事務局の山地渉氏
↑岩殿山の中腹にある「鬼の洞窟」。手前は大月桃太郎連絡会議事務局の山地渉氏

 

山梨に眠る「鬼の洞窟」

ここは山梨県大月市にある岩殿山の中腹。岩殿山は標高634メートルにすぎないが、巨岩、岩壁が所々に露出し、奇観・名勝をつくっている。

 

この洞窟もそうした奇観のひとつだが、地元では「鬼の洞窟」と呼ばれている。そして、それはただの鬼ではない。「この洞窟は、桃太郎に退治された鬼のすみかだった」――地元では古くからそう言い伝えられているのだ。

 

ということは、この岩殿山は「鬼ヶ島」になるのだろうか? いやそもそも、桃太郎物語の舞台は、山梨県から遠く離れた岡山ではなかったのか?

 

桃太郎岡山発祥説は、昭和生まれ

桃から生まれた桃太郎が、黍団子(きびだんご)を携え、犬・猿・雉を家来にして、鬼ヶ島の鬼退治に行く――。日本代表する昔話「桃太郎」の物語は、日本人ならだれでもみんな知っている、といっても過言ではないだろう。

 

そしてまた多くの人が「桃太郎の故郷は岡山だ」と、思っていることだろう。たしかに桃太郎岡山発祥説にはいろいろと根拠らしいものがあり、非常に説得力がある。「崇神天皇の時代に大和から吉備(岡山県)へ征討におもむいた吉備津彦が桃太郎のモデルだ」「岡山県にあった山城の鬼ノ城が鬼ヶ島のモデルだ」「吉備津彦が鬼ノ城を本拠とした百済王子・温羅を討ったという吉備津神社の伝承が、桃太郎物語のモチーフになった」……。

 

だが、答えを先に言ってしまうと、「岡山の桃太郎」は、じつは「昭和生まれ」なのだ。

 

昭和のはじめごろ、岡山在住の難波金之助が『桃太郎の史実』という本を出版し、このなかで桃太郎物語を吉備津彦の温羅征討伝承と結びつけ、桃太郎岡山発祥説をはじめて唱えた。だが、この説は当初はあまり注目を浴びなかった。

 

ところが、戦後の昭和30年代の後半になって、一気に広まった。きっかけは昭和37年(1962)に岡山県で開かれた国民体育大会。国体の開催に際し、当時の三木行治知事がこの難波氏の説に目をとめ、「岡山は桃太郎で行こう」ということで桃太郎を県のシンボルに活用し、行政側の全面的な支援を受けて「桃太郎の故郷は岡山!」が全国的にアピールされたのだ。つまり一種の地域おこしの宣伝戦略として桃太郎が持ち出されたわけだ。

 

黍団子の「黍(きび)」と岡山の旧名「吉備(きび)」がかぶっていることや、もともと桃の栽培が盛んだったことも幸いし、ねらいはあたって観光客が増え、桃と「きびだんご」が岡山名物となり、やがて岡山駅の駅前には立派な桃太郎像が建立されるにいたったのである。

↑岡山駅の駅前広場にある桃太郎の銅像
↑岡山駅の駅前広場にある桃太郎の銅像

 

大月で語り継がれる桃太郎伝説

↑桃太郎が生まれた桃の木が生えていたとされる百蔵山(桃倉山)
↑桃太郎が生まれた桃の木が生えていたとされる百蔵山(桃倉山)

 

岡山発祥説が昭和に「創造されたもの」だとすると、結局、桃太郎物語はいつ、どこで生まれたことになるのか。

 

これについてはさまざまな研究があるが、まず起源については、室町時代末期までに口承の昔話として原型が成立したと考えられている。文字化されたのは江戸時代に入ってからで、江戸時代なかばには赤本・黄表紙などによって広く流布し、明治時代には国定教科書に載ったため、さらに広まった。

 

だが、「発祥地はどこか」という問題になると、明確に答えるのは非常に難しい。というのも、桃太郎物語は、全国各地で、話の細部を微妙に変えながら、民話としてさまざまに語り伝えられているからだ。とはいえ、発祥の候補地として有力なものとなると、ある程度限られてくる。そのひとつで、近年にわかに注目を集めているのが、山梨県の大月なのである。

 

まずは、大月で語り継がれてきた桃太郎物語がどのようなものなのかを紹介しておこう。

 

「昔々、桃倉山(今の百蔵山)の麓は、桃がいっぱいで、とてもきれいだった。ここにおじいさんとおばあさんが住んでいた。2人には子どもがないので、常日頃子どもが欲しいと神様に祈りつつ、桃を栽培していた。

 

ある日、2人は桃をもぎにいったら、大きな桃がなっていたので、喜んで、もぎとって家に持ち帰った。その桃を切って食べようとしたら、2つに割れて中から男の子が生まれた。桃太郎と名づけた。成長した桃太郎は、岩殿山に住む悪い鬼を退治に出かけた。途中で犬ときじと猿を家来にした。犬の出た所が犬目、きじの出た所が鳥沢、猿の出た所が猿橋で、現在の地名がそれである。ある本に『桃太郎ここらで伴や連れにてけん、犬目、鳥沢、猿橋の宿』という歌がある」(大月市文化財審議委員・石井深編『大月市の伝説と民話』昭和55年発行、より)

↑犬目(山梨県上野原市)の集落にある犬島神社
↑犬目(山梨県上野原市)の集落にある犬島神社

 

起源は大正・明治、それ以前?

こうした大月の桃太郎は、いったいいつ頃から言い伝えられていたのだろうか。大月市在住で、子供の頃から桃太郎物語を聞いて育ったという、大月桃太郎連絡会議事務局の箕田雅友さんに話を伺った。

 

「昭和12年(1937)発行の桃太郎の絵本に、大月が桃太郎の生まれた場所として紹介されています」

 

たしかにその絵本の「桃太郎物知り帖」というコーナーをみると、「桃太郎の生まれた場所」の候補地のひとつとして「山梨県北都留郡」(昭和20年代まで大月市付近は北都留郡に属していた)が挙げられている。

↑資料提供=大月桃太郎連絡会議事務局
↑資料提供=大月桃太郎連絡会議事務局

 

ここに「桃太郎もち」なるものが挙げられているが、箕田さんの話によると、猿橋では大正時代には「桃太郎もち」が「猿橋名物」として売られていたはずだという。そうなると、大月桃太郎物語は、少なくとも大正時代まではさかのぼりえることになる。

 

じつは、さらにさかのぼる可能性もある。

 

明治23年(1890)の菱川春宣が描いた桃太郎の錦絵には、背景に明らかに富士山とわかる山が描かれている。富士山が描かれているといってその地を軽々に大月に直結させるわけにはいかないが、この絵は、大月桃太郎物語が明治までルーツをたどりえる可能性を示す、貴重な物証となろう。

 

そして、当然、伝説が文字化・絵画化される以前には、民話として口承されていた時代が、相当に長く続いていたはずである。

 ↑猿橋で売られていた「桃太郎もち」の包み紙。資料提供=大月桃太郎連絡会議事務局
↑猿橋で売られていた「桃太郎もち」の包み紙。資料提供=大月桃太郎連絡会議事務局

 

大月周辺に点在する桃太郎の史跡

大月桃太郎のルーツが相当に古い可能性を秘めているとして、次に気になるのは、「なぜ大月で桃太郎伝説が語り伝えられてきたのか? なぜ大月に『桃太郎』なのか?」という点だろう。

 

地名でいえば、上野原市から大月にかけては、旧甲州街道沿いに犬目、鳥沢、猿橋という地名が並んでいる。この並び方は、「桃太郎は、鬼退治のために街道を進んだ際、犬・雉・猿と次々に出会って家来として引き連れていった」という説明と見事に符合している。おじいさん・おばあさん夫婦が桃をもいだという桃倉山も、漢字は違うが、大月駅の北東にたしかに存在する(百蔵山)。

 

だが、大月桃太郎物語の信憑性を高めているのは、地名だけではない。大月には、桃太郎の「史跡」が点在しているのだ。大月在住で大月桃太郎連絡会議事務局の山地渉さん(なんと、岡山県出身!)にそのいくつかを案内してもらった。

↑「鬼の立石」。高さ2メートルはある
↑「鬼の立石」。高さ2メートルはある

 

○〈鬼の石杖〉と〈鬼の立石〉

岩殿山の鬼は、桃太郎と戦ったとき、石杖(棍棒)を投げ飛ばした。このとき、石杖は2つに折れ、ひとつは石動の野原に突き刺さって〈鬼の石杖〉となり、もうひとつはもっと遠くの笹子峠近くの白野にまで飛んでいって〈鬼の立石〉になった、と伝わる(鬼が左手で投げたのが〈鬼の石杖〉、右手で投げたのが〈鬼の立石〉、という説もある)。

 

○鬼の血

岩殿山の麓に鎮座する子神神社の境内は、土が赤い。桃太郎に征伐された鬼が逃げようとして岩殿山の向かいにある徳巌山に足を掛けたとき、股が裂けて血が流れたと伝えられている。

 

○桃を手にもつ地蔵

岩殿山の麓にある円通寺(天台宗)の小堂の裏手に建つ石地蔵(建立年代不明)が左手に持っているのは、宝珠ではなく桃だといわれている。

 

そして、このリストにさらに加わるのが、冒頭で紹介した「鬼の洞窟」なのだ(なお、「鬼の洞窟」に続くルートは崩落箇所があって危険なため、現在一般人は通行禁止)。

 

こうなると、「大月こそが、桃太郎物語のオリジンではないのか」という思いは、確信に近いものになってくる。

 

鬼は岩殿山の城主か山伏か

岡山では桃太郎のモデルは吉備津彦ということになっているが、大月の場合はどうなのだろうか。

 

大月では、東征を行ったヤマトタケルを桃太郎のモデルとする説はあるものの、有力な説にはなっていない。では、「鬼」はどうだろうか?

↑鬼の住みかとされた岩殿山
↑鬼の住みかとされた岩殿山

 

鬼が住んでいたという岩殿山の山頂には、戦国時代、武田二十四将のひとりである小山田信茂が築いた山城があった。そして、武田信玄の子・勝頼は、織田信長勢に攻められて甲斐を追われようとしたとき、信茂を頼ってこの城に向かった。だが、信茂が裏切ったために城に入れず、織田軍が迫るなか、天目山の田野(甲州市大和町)で一族とともに自害し、武田家はついに滅亡したという――。

 

こんな哀史を耳にすると、岩殿山の鬼とは、主君を裏切った小山田信茂のことを隠喩しているようにも思える。ただし、信茂は城下が戦場になって民衆の命が失われることをさけるために、勝頼の入城を拒んだ、という説もある。そうなると、「鬼に見立てられたのは勝頼で、信茂こそが桃太郎のモデルだ」という見方もできるかもしれない。

 

「富士王朝」の幻影

ところで、石動の「鬼の石杖」だが、この板状の石は人間の手で加工したような痕跡は見受けられず、どうみても自然石だ。ちなみに、昔は高さが2メートル以上もあったが、あるとき(今から20~30年以上は前のことになるらしい)、上端の方が折れてしまって現在のかたちになったそうだ。

 

そうなると、なぜ板状の巨石がひとつだけポツンと地面に突き刺さるようにして置かれてあるのか、いったいどうやって置かれたのか、不思議に思えてならなくなる。いったい、この石はどのくらいの深さまで地面に突き刺さっているのだろうか。

 

そう思ったのか、かつて、鬼の石杖がどれくらい地中に埋まっているか調べようとした人がいたが、結局どれだけ掘り返してもわからなかったという。しかも、「その人はその後、病気になって亡くなった」――という話もあるらしい。鬼の祟りにあったということか。

20170211-s3 (2)
↑明治23年(1890)に菱川春宣によって描かれた桃太郎の錦絵。背景に富士山がはっきりと描き込まれている

 

また、大月という地理を考えたときに、気になるのは「富士王朝」のことだ。超古代史文献『宮下文書』によれば、神武天皇よりもはるか昔の時代、富士山北麓の「高天原」(現在の富士吉田市付近)を拠点として、超古代王朝が繁栄したといわれる。大月はその「高天原」に比定される地点から桂川沿いに20キロメートルほど北東へくだった場所にあたり、富士山の眺めが日本一美しいともいわれる土地でもある。

 

『宮下文書』そのものには、桃太郎に言及する箇所はない。しかし、仮に桃太郎を富士王朝の英雄のかすかな残映とみれば、大月桃太郎物語において、霊峰富士山をバックにした桃太郎一行の勇ましい姿は、太古の富士王朝の栄光を伝えようとする、暗号めいたメッセージのようにも思えてくる。

 

――それとも、退治された鬼とは、歴史から消された富士王朝のことを隠喩しているのだろうか。「大月桃太郎」をめぐる謎の解明は、まだこれからである。

 

(「ムー」2017年2月号より抜粋)

文=古銀 剛

 

「ムーPLUS」のコラム・レポートはコチラ

TAG
SHARE ON