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2017/6/3 20:00

【ムー怨霊伝説】「自分の指を与え…」一人の女が猫に託した凄まじい呪いとは? 熊本の「猫寺」に伝わる化け猫の恐怖

かつて、作家・司馬遼太郎が「日本で最も豊かな隠れ里」と呼んだ人吉球磨地方。衛星写真で九州を眺めると、その中央部から南部にかけて広がる深い山々のただ中に、ぽっかりと三日月形の盆地をなしている印象的な土地柄である。

 

目指す寺院は、そんな球磨盆地の最奥地にあった。

「千光山生善院(猫寺)」と掲げられた山門で出迎える「狛猫」。
「千光山生善院(猫寺)」と掲げられた山門で出迎える「狛猫」。

 

くまがわ鉄道の終点・湯前駅から球磨川を渡り、里山の道を歩くとほどなく、阿吽一対の「狛猫」に出迎えられた。山門には「千光山生善院」の表札。その脇に小さく(猫寺)と記されている。ただし、地元のほとんどの人はカッコ付きの通称のほうで呼ぶらしい。その名のせいか、近年は猫好きの聖地としても知られているようだ。

 

そんな寺院の境内に、これまで見たことのない漆黒のお堂が建っていた。重要文化財の生善院観音堂である。

 

桁行3間、梁間3間というから、大きさはさほどではない。しかし、仏堂の意匠(デザイン)としては他に類を見ないものだ。ぼってりと茅葺き屋根を載せた黒漆塗りの壁面に、極彩色に塗られた浮彫彫刻、印象的な青、白、赤の配色、朱塗りの格子。お堂正面入り口にあたる向拝・蛙股部分には、真っ赤な邪鬼(力士)像が踏ん張っている。

 

その内部も、目を見張る造作・デザインだった。

 

同じく黒を基調とし、要所に朱を用いた漆塗りが施されており、天井のつくりなどはとりわけ格式の高さを感じさせる。お堂とともに重文指定されている厨子もまた、黒漆に朱と金箔がアクセントを加え、堂全体とシンクロしていて美しい。

 

そして、その厨子に納められた秘仏――。

 

思わずはっとさせられる、匂い立つような色香を感じさせる千手観音の美像である。江戸時代の初期、京仏師の手で造立された像という。

 

聞けば、観音堂は平成14年に解体修理が行われ、創建当時の景観がよみがえったのだという。また、その独特のデザインは、人吉球磨地方特有の様式を踏襲したものといわれる。それにしても――、この仏堂が醸し出す世界観にただならぬものを感じるのだ。

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国重要文化財の生善院観音堂。

 

そもそもなぜ、この辺鄙な地にかくも丹精込められた豪奢な仏堂が建てられたのだろうか。

 

生善院観音堂は、寛永2年(1625)に人吉藩主・相良頼房(長毎)により創建された。堂内の厨子や本尊仏もこのときの造作という。

 

先述の「なぜ」への答えを先にいえば、この観音堂は本来、ある人物の御霊を慰めるための霊廟だったからである。藩主みずから、格別の配慮をもって弔わねばならなかったその人物とは、この地に住したひとりの僧侶とその母だった。

 

この親子をめぐっては、以下の驚くべき因縁が伝わっていた。そしてこの寺が「猫寺」と呼ばれるゆえんもそこに秘められていたのである。

 

冤罪による死で怨霊と化した母

話は、戦国時代、天正10年(1582)にさかのぼる。この年の3月、相良家内にこんな密告が飛び込んできた。

 

「湯山(湯前町湯山地区)地頭・湯山佐渡守宗昌と弟の普門寺・盛誉が、謀反を企てている」

 

おりしも、相良家の18代当主・義陽が討ち死にし、球磨の地を離れていた異母兄弟の頼貞がその跡を襲わんと策動していた。いったんはその危機を回避したが、その頼貞に右の両名が加担していたとあれば、見逃すわけにはいかない。その密告を聞いた相良家執政役は、さっそく兄弟一味を討ち取るよう地侍らに命じた。

 

その由を耳にした兄・宗昌は妻子従者を連れて普門寺に籠居し、謹慎の意を示した。そのため側近は追討をやめ、追って指図を待つようにと急使・犬童九介を差し向けた。3月15日のことである。ところが犬童は、途中で知人の所に立ち寄り、さらに近所の馬医者兼百姓の家であろうことか大酒をしてしまう。そして道を急ぐも日暮れとなり、途中の多良木で酔宿。急使の役を果たせなかった。

 

一方、地侍らは、16日早暁に普門寺に押し寄せた。宗昌らはいち早く逃れて日向(宮崎県)方面に向かったが、弟の盛誉上人は弟子らと仏前で観音経を読誦していた。そして雪崩れ込んだ地侍・黒田千右衛門らによって、盛誉はふたりの弟子もろとも誅殺され、普門寺には火が放たれたのである。

 

それをだれよりも嘆き悲しんだのが盛誉の母・玖月善女だった、冤罪による非業の死を深く恨んだ玖月は、姪の鶴菊女と愛猫をともなって市房神社に参籠。断食三七日(21日間)の行に入った。

 

すなわち呪詛の祈祷行である。それは次のような凄まじいものであった。

 

「左右の指を噛んでその血を善神王または狛犬に塗り、『この度寺中に駈入り、無実の盛誉を刃傷した一家末類七生まで、此の怨を我に代って報はせ給へ』と声を挙げ胸を打って狂気の如く呪詛し、且、相良家にも恨みありと呪ひ、又茂間崎水神に祈祷し、日々憔悴して同年四月二十八日酉の刻茂間崎の池に入水した」(『球磨郡誌』)

 

この呪詛によって、のち斬殺の下手人・黒田千右衛門や使者・犬童九介は狂死し、災いは馬医者の主人一族にもおよんだという。

 

相良家に祟った猫の怨霊

なお、生善院に伝わる縁起原本は、玖月善女の呪詛をこう伝えている。

 

「日数を経るに従って、猫の空腹に耐えかねるを見ては自分の指を切ってこれを与えるなど、辛苦恨嘆は目も当てられず、その結願の夜半、わが愛猫に向って、『汝、畜生の身とはいえ、もし魂があるならば、吾が言うことをよく聞けよ。……恨みは女の身悲しさ如何ともし難いが骨髄に達する。この後は、われとともに亡霊となって相良家末代までたたり、怨念を晴らしてくれよう』と……」

 

こうして、玖月善女の怨念は愛猫に託され、相良藩を巻きこんだ化け猫騒動へと発展していく。

 

「これ以来というものは、猫の怨霊が毎夜のごとく、あるときは美人となり、あるときは夜叉となって相良家に祟り、責め苦しんだという」(以上、『肥後相良今昔史誌』より)

 

天正13年(1585)2月、相良家19代当主・忠房は疱瘡を患い、寺社に祈祷を命じたが、ほどなくして死去した。享年14であった。

 

その後継には忠房の実弟・頼房が就いたが、不幸は止まなかった。

 

とりわけ姉千満の病死は、20代当主・頼房にとってショックだったのだろう。慶長2年(1597)には氏神である青井阿蘇神社の西脇に社壇を設け、盛誉、玖月善女の御霊を祀っている。

 

やがて江戸時代を迎え、この地は相良藩(人吉藩)となった。しかし、化け猫の祟りを畏れる思いは完全に払拭できなかった。このため、騒動勃発から44年目になる寛永2年、頼房は普門寺の旧地に生善院を建て、同所に千手観音堂を建立。玖月善女と盛誉上人の菩提を弔う霊場と定めたのである。

 

そして、3月16日を市房神社の祭日とし、その日、藩主みずから同社を参詣し、その帰途、生善院観音堂を詣でる「お嶽参り」を、全領民に対しても恒例とするよう命じた。

 

そのためもあってか、ようやく猫の怨念も鎮まり、その後は祟りもなくなった。そして、これよりのち生善院は別名「猫寺」と呼ばれるようになっていったという――。

 

玖月善女と盛誉上人

「化け猫騒動」は各地に伝わっており、とくに佐賀・鍋島藩のそれは歌舞伎の演目にもなってつとに知られている。同じく風説に端を発するところまでは同じだが、伝説が脚色されて怪談となっていった鍋島藩の場合と比べ、相良藩のそれは、何より生善院観音堂という歴史的遺産を残し、今につづく「お嶽参り」という信仰文化を生んだ点で大きく異なっている。

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厨子の基壇となる須弥壇の右手に、眠るような猫が描かれている。

 

改めて観音堂内を着目すると、秘仏本尊の厨子を載せる須弥壇の腰嵌板には、金地に草花などが浮彫りされているなか、ただ1匹動物が描かれている。安らかに眠るような猫の像である。また、堂内の漆黒の壁に巡らせた一画には、なぜか馬ばかりが浮彫りされている。

 

「眠り猫」のモチーフは、くだんの化け猫(名前を「玉垂」という)の霊が慰められ、鎮まることを祈願する意味が込められたものだろう。

 

馬といえば、急使を普門寺まで運ぶことができず、馬医者までもが祟りを蒙った逸話が思い起こされる。つまり壁の「走り馬」は、本来は伝馬で無実を知らせるはずだったという、藩主の無念と謝罪の思いが込められたモチーフだったと考えられるのだ。

 

そしてより重要なポイントは、「秘仏の千手観音は玖月善女の影仏」とする寺の伝承だろう。影仏とは、その人の面影を託した像という意味である。とすれば、観音堂への参詣は、まさに観音に擬せられた玖月善女を須弥壇の「眠り猫」とともに拝し、その冥福を祈ることにほかならなかったのである。

 

このほか、境内には「愛猫玉垂の墓」があり、猫面の古い石像と〃猫足〃の石灯籠が残されている。また、近くには玖月善女と盛誉上人の墓もある。

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猫顔の地蔵像と思しき石像を安置する「愛猫玉垂」の墓。

 

千葉住職はこんな話をしてくれた。

 

「昔は、それぞれの墓に寄り添うように3本のヒノキが地面から伸び、その幹が中空でひとつに合わさって一本の巨樹をなしていたんです。まるで3人(親子と愛猫)の絆の強さを象徴するような不思議な木でした。残念なことに50年ほどの前の台風で倒れてしまったのですが、そのとき、観音堂や本堂(住坊)を少しも損なわず、計ったように建物の間に倒れてくれました。私は子どもの頃、『仏さんがお堂を守ってくれたんだよ』と聞かされてきたんです」

 

そして現在――。

 

猫寺には、愛猫の病気平癒やその冥福を祈る人たちのほか、何らかの強い願いごとを抱えた人、家族の無事を祈る人たちなどが訪れる。そんな彼らを惹きつけてやまないのは、この寺が、か弱くも強い思いを貫徹させたひとりの女性とその息子、および愛猫との強い絆が記憶された「場」であったことと無関係ではあるまい。

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「ねがい猫 玉垂」の石碑の裏には、ペットの猫の病気平癒の祈願などが貼られている。

 

(「ムー」2017年6月号より抜粋)

文=本田不二雄

 

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