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ムー
2018/12/22 20:00

【ムー的結界考察】「結界」とは何か?神々の日本列島結界呪術

本誌読者なら、「結界」という言葉はよくご存じだろう。しかし念のためということもある。ここでもう一度、結界について確認をしておこう。

神社の注連縄は、神の住まう聖域とわれわれの住む世界を隔てる結界である。

 

そもそも結界とは、いったい何なのだろうか?

 

結界という言葉自体は本来、仏教用語である。

 

実際、『大辞林』をひもとくとまず最初の意味として、「仏道修行に障害のないように、一定地域を聖域として定めること。寺院などの領域を定めること」とある。

 

つまり、仏教という教団に所属する修行者(僧や尼)たちの修行が妨げられることがないように、ある一定の地域を物理的に区切り、外界との接触を避けたのが始まりということになる。

 

寺の山門の脇に、「葷酒許入山門」と刻まれた石が置かれているのをご覧になったことがあるだろうか。あれは、ここから先の寺域は結界で護られている、という宣言なのだ。ちなみに葷くんとは、ニンニクなどの香りの強いものを意味している。

 

だが同じ仏教のなかでも、密教となると結界の意味はかなり異なってくる。

 

密教の場合、修行を妨げるのは酒や人といった物理的なものではなく、超常的な存在――魔ということになるからだ。修行の場に妨げをしてくる「魔」が侵入できないように、周囲に境界線を引き、一種の呪術によって区切ってしまうことを意味するのだ。ようするに、呪術的な結界である。

 

こうしたことから結界のサイズは、修行者の周りを囲っただけのごく小さなものから、比叡山や高野山など、山ひとつをまるごと囲ってしまうものまでさまざまということになる。

 

そして、おそらくわれわれがイメージする結界とは、こうした密教世界のものがもっとも近いのではないだろうか。

 

神道の世界における結界

このように結界という言葉自体は仏教用語だが、「結界的な考え方」という意味から考えると話は違ってくる。結界とは、ある意味では世界共通の概念なのである。

 

たとえば西洋魔術における魔法円など、典型的な結界といっていい。その魔法円のなかにいる限り術者は護られるし、あるいはそこに魔を封じこめることもできる。

 

さらにいえば聖地、聖域という考え方も結界のひとつだ。

 

当然、日本古来の思想のなかにも、結界は存在する。

 

たとえば神道のはじまりにもそれは見ることができる。というよりも神道は、どこを見ても結界だらけといっていい。

 

神社の起こりは、自然の山や磐いわ、樹木、あるいは海などに神の存在を感じ、それを信仰の対象としたことにある。現在のような本殿や拝殿などの建築物は、あとの時代になってつけられたものだ。

 

したがって神を招き、崇あがめる儀式にしても、もともとは屋外で行われるものだったのである。

 

神を招くには、神が依り憑くためのシンボル、すなわち依り代が必要となる。そのひとつが、巨木であり磐だった。

 

神が降りる巨木は神聖なものだ。したがってその周囲には垣根(玉垣)を巡らせ、さらに注連縄で囲む必要が生まれた。神のいる場所と人間のいる場所は、明確に分けられたのである。こうして囲まれた神の聖域を、神籬と呼んだ。

 

語源については諸説あるが、「ひもろぎ」の「ひ」は神を、「もろ」は天降ることを、そして「ぎ」は木を意味しているといわれている。いずれにしても、まさに神が降る聖域だ。

 

このように玉垣や注連縄は、聖域(常世)と外界(現世)を分ける役割を果たしている。つまり、聖域と俗域を隔てる結界そのものなのである。

 

これは神が宿るとされる巨大な磐、磐座の周囲においても同じことだ。

 

また、神社全体でいえば、いわゆる鎮守の森もひとつの結界といえる。その結界の内側にある神域と、外側にある俗界をつないでいるのが、入り口にある鳥居であり注連縄なのだ。

聖なる神社の森と外界を隔てる結界が垣根(玉垣)であり、その出入り口となるのが鳥居である。

 

民間信仰のなかにある結界

あるいは、もっと身近な民間信仰のなかにも、結界は見ることができる。

 

いや、というよりもかつて、われわれが暮らす集落を護る結界は、日本各地に当たり前のように張られていたのだ。

 

具体的な例を挙げよう。

 

集落の外れに置かれた道祖神や庚申塔、小さな石仏が祀られる社などがまさにそれだ。なかでも道祖神は別名で「賽さいの神」とも呼ばれ、集落に外部から災厄が侵入するのを防いでくれる神とされている。

 

現在の都市部のように、集落と集落が続いていなかった昔は、個々の集落はそれぞれがひとつの島のようなものだった。そして、そんな集落どうしをつないでいたのが街道(道)だったのである。

 

こうした構造上、災厄はいつでも道を経由して集落に入ってくるという理屈になる。それを見張り、防いでくれるのが、集落の外れに祀られた道祖神だったのだ。

 

ということは、道祖神もまた、集落と外の世界を隔てる結界であり、要かなめなのである。

 

この論理を敷衍させると、集落の外は神の世界であり、死者の世界(黄泉の国)であるという解釈にもなっていく。道祖神という結界は、そうした異世界からの禍わざわいが誤って集落に入ってこないための防波堤の役割も果たしていたことになる。

 

まさに霊的な堤防、防衛線なのである。

道祖神石。村を外部から護る結界の役割を果たしている(写真=中村友紀)。

 

日常生活のなかの小さな結界

仏教や神道、陰陽道などが混合した山岳宗教である修験道においても、結界は存在する。

 

その象徴といえるのが、いわゆる「女人禁制」とされる修行場の結界だ。もっともこれは、男性の修行の障害になるという、ある意味身勝手な結界でもあるわけだが、山を聖なる場所と見なすという点においては、やはりひとつの霊的防波堤といえる。

 

もっと細かいところを見てみよう。意外に知られていないことだが、日常生活のなかにも結界は何気なく存在しているのだ。

 

たとえば食事のときの箸の置き方がそうだ。

 

日本の食卓では一般的に、膳の手前の位置に横向きに箸が置かれる。箸が食べる人と食物を分けへだてる役割を果たしているわけで、これも結界の一種なのである。

 

なぜそのようなことをするのかといえば、食物は人間が生きていくために神様から与えられたもの、という考えが背景にあるからだ。箸をつける前の食物は、まだ神の領域にある神の持ち物なのである。

 

だからわれわれは、食べる前に「頂戴します」「いただきます」と口にする。そう宣言してから箸をとることで、神との間に張られた結界を外すことができるようになるわけだ。

 

同様に、人間が生活する空間を分けるものは、その多くが結界と解釈することができる。

 

たとえば部屋と部屋を隔てる障しょう子じや襖ふすま、あるいは部屋のなかを区切る衝つい立たても結界だといえるし、さらにいえば家の壁や塀もまた結界となる。同じように、商店において外部と店内を隔てる暖簾も結界と見なすことができるだろう。

 

こうしたものが結界であるということは、無意識のうちにわれわれ日本人の間では認識されている。だからこそ、これらの結界を無断もしくは礼儀もわきまえずに破れば、非難を受けることになるわけだ。

 

いずれの場合であっても、「結界破り」は大きな禁忌(タブー)なのである。

(ムー2019年1月号 総力特集より抜粋)

 

文=中村友紀

 

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