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2019/8/31 20:15

【ムー妖怪探偵団】異界・熊野へ! 化け物と共生する山人の痕跡を追う!

熊野は山深い。南紀白浜へ向かう航空機から見た山々は、幾重にも列を成していた。世界でも稀な大断層帯、中央構造線の南に広がる山地である。

隠岐ジオパークの研究員、平田正礼から事前に届いた紀伊半島の地形図や地質図は見ていた。だが、海陸のプレート運動で折り畳まれた紀州の山々が、これほど険しいとは思っていなかった。

 

耕作に適した平地など、ほぼないに等しい。正直、こんな山地に人が暮らせるのかと思った。

 

「山の人々を知るには、山に入ってみるしかない」と、荒俣宏団長はいった。本誌4月号「湯本豪一妖怪コレクションと『稲生物怪録』に迫る !」の三次調査を終えたときだ。

 

『稲生物怪録』の検証では、主人公・平太郎を襲う化け物たちに、山の民のイメージが反映されているのではないかという仮説が浮かんだ。だが、多くの化け物を擁する山の暮らし、団長いうところの「山中文明」>がどういうものなのかが、よくわからなかった。

 

「現代人は山を不便な場所だと思っているけれど、想像以上に豊かで高度な文化が大昔から山にはあった」と団長。

 

「柳田国男も、山中には日本の先住民族である山人がいた、といっていますね」という妖怪博士の香川雅信に、「柳田は山人を“里から山へ追いやられた漂泊民”としたけれども、僕は“自ら望んで積極的に山に入った民”だと考えている」と答える。

 

確かに、古代や有史以前の人々の営みが、この20 〜30 年間で塗り替えられてきている。なかでも際立っているのが縄文人の生活だ。

 

かつて狩猟・採集を主とする縄文人は、食うや食わずの生活をしていたと思われていた。だが、考古学的な調査により、彼らが四季を通じて計画的に食料を調達し、さらには海を渡り、広範に交易していたこともわかってきた。和歌山県みなべ町の徳蔵地区遺跡は、西日本で最古の縄文集落だが、ここからは関東から九州にかけての地域と同タイプの土器が出土している。

 

だが、注目すべきはそこではない。一般的に縄文遺跡の多くは丘陵部にあるのだが、この遺跡は川の下流の平野部に位置する。そして、周辺に散在する弥生中期以降の遺跡が、なぜか山の中にあるのだ。通常とは逆だ。

 

平地から山への展開は、和歌山の縄文・弥生遺跡の特徴だと聞いた。これは、有史以前に自発的に山へ入った人がいたことをうかがわせる。山中文明を追うわれらにとって、絶好の旅先ではないか。

 

紀州は8割方を山地が占め、熊野は古くからの聖地でもある。中世以降、法皇・上皇から庶民まで、多くの人が訪れた。ここなら山の民たちの痕跡が、多く残っているのではないか。山中の住人である化け物もたくさんいるはず。

 

「猪笹王や一つだたら、ほかにもいろいろ妖怪がいますね、紀州の山には」と香川がいえば、「あの南方熊楠も熊野の化け物のことをいろいろ書いているよ」と団長。探偵団の和歌山・熊野行きが決まった。

熊野本宮大社の鳥居。

 

曼荼羅絵解きの女たち

まず訪ねたのは、田辺市の世界遺産熊野本宮館。社殿へ上る参道の前にある。その多目的ホールで、熊野本宮参詣曼荼羅の絵解きを受けた。名調子で語るは、熊野本宮語り部の会の谷口佳子さんだ。

 

「本宮の地に神が祀られたのは、およそ2000年前、第10 代崇神天皇の世とされています」

 

時代が下って神仏習合が起こると、熊野は補陀落浄土の地とみなされた。平安期の終わりから鎌倉期の初めまで、歴代の法皇・上皇が何度も参詣したことで、熊野三山は一躍有名になった。その人気が庶民にも広がる。

熊野本宮参詣曼荼羅。

 

「室町時代から江戸時代まで、熊野本願寺院に所属し、全国を回って絵解きをした、熊野比丘尼という女性たちがいました」

 

彼女たちが主に持ち歩いたのが「那智参詣曼荼羅」と「熊野観心十界図」。

 

絵解きは、熊野信仰を広めることと、三山の社殿造営や改修にあてるお布施を集めるためだ。また「熊野三山は、性別、貴賤を問わず参詣者を受け入れた」という。

 

だが、そこが奇妙なのだ。

 

ひとつは「性別を問わず」という部分。日本の霊山の多くは、修験道場という聖域だったから、女性を一切受け入れなかった。熊野も修験の山だったのに、禁制がなかったのは、実は異様なのだ。

 

しかも、僧とはいえ、全国各地に派遣できるほどの比丘尼集団がいた。これも驚きだ。箱に収めた曼荼羅を携え、諸国行脚をした熊野比丘尼とは何者なのか。

 

「時宗と熊野の関係をまず考えたいね」と団長はいう。

 

踊り念仏の時宗を開いたのは一遍上人。その一遍は、熊野権現の託宣を受けて開眼した。また、時宗聖は、南北朝以降、熊野三山の勧進権(信者などから寄付を集める権利)を独占していた。

 

「でもね、そのころには法皇・上皇の熊野詣でが途絶え、熊野三山はスポンサーを失ってピンチに陥るんですよ」

 

そこで熊野三山プロモーション軍団、熊野比丘尼たちの登場となる。しかし、熊野比丘尼の発祥は室町時代とされるが、室町時代は後半から戦乱の時代になる。街道を歩けば、地域の領主らが勝手に設けた関所がいたるところにあり、通行料を取られる。物取り・野盗も横行していて、女のひとり旅は厳しい。

 

「そこが山の女のすごいところですよ。彼女たちは、山の尾根筋をたどって旅をしたのです」

 

団長によれば、時宗は一遍に教団をつくる気がなかったため、組織化が遅れたのだという。主要な平野部は、他の宗派に席捲され、山の中や辺境に布教の地を求めるしかなかった。そこで、修験のネットワークを利用しようと熊野と組んだ。熊野比丘尼も、そのルートを使って旅をした。

 

「尾根筋に関所はない。野盗が出るのは里の近く。もう山岳フリーウエイですよ。しかも、彼女たちは山歩きが得意。どこへでも行けた」

 

ついでにいえば、彼女たちはおそらく、山中での化け物との遭遇を避ける方法や、出会ってもうまくあしらう方法もよく心得ていたはずである。

(ムー2019年9月号より抜粋)

 

文=森一空

 

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