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2018/8/26 20:30

なぜ別々に発展? 近くて遠い2つの路線を抱えた東北の私鉄ローカル線のいま

【弘南線の旅1】 東京五輪の年に生まれたデハ7000系に乗車

↑弘前駅に停まるデハ7000系。駅には1・2番線のホームがある。すぐ左にJR奥羽本線の線路が並んでいる。弘南線の線路幅はJR線と同じ1067mmで線路もつながっている

 

弘前駅に停まるのはデハ7000系電車。元東急電鉄の7000系電車だ。銘板を見ると1964(昭和39)年に造られた車両とある。東京オリンピックの年に生まれた電車だ。40年以上にわたり、東急そして弘南鉄道を走り続けてきた古参電車。ロングシート、天井に付けられた首振り扇風機が懐かしい。

↑デハ7000系の車内。2両編成が基本で、朝夕に増結される日もある。ロングシートで天井に付いた首振りタイプの扇風機が懐かしい。渋谷109の吊り革がいまも使われている

 

列車は日中の11〜13時台を除き30分間隔。弘前駅から黒石駅は全線乗車しても約30分の道のりだ。ただし終電が21時台で終了するので注意したい。

 

【弘南線の旅2】新里駅で五能線を走ったSLが保存される

↑新里駅(にさと)駅で保存される48640号機。五能線で活躍した8620形蒸気機関車で、新里駅の駅舎内には当時の写真なども展示されている。保存・塗装状態は非常に良い

 

弘前駅を発車して3つめの新里駅(にさとえき)。窓の外を見ていると、「あれっ!蒸気機関車だ。なぜここに?」

 

駅舎の横に8620形蒸気機関車が保存されていた。弘南線は開業後に、蒸気機関車が使われた時期が短く、1948(昭和23)年には早くも全線電化されている。よってこの路線に縁はないはず……。慌てて駅で降りて見たものの、車両がなぜここで保存されているのか、解説などはない。

 

調べたところ、48640号機は1921(大正10)年、汽車製造製で、晩年は五能線で活躍していた機関車とわかった。青森県の鯵ケ沢町役場で保存されていたが、NPO法人・五能線活性化クラブに譲渡され、2007年7月にこの場所に移設された。有志の人たちの手で整備されているせいか、保存状態も良かった。

 

【弘南線の旅3】 田舎舘(いなかだて)といえば「田んぼアート」

↑弘南線沿線の田舎舘村名物の「田んぼアート」。臨時駅も開設される。色違いの稲を植えることにより絵を描く「田んぼアート」。展望所から見ると素晴らしい絵が楽しめる

 

SLが保存されている新里駅から再乗車。終点を目指す。

 

館田駅(たちたえき)を過ぎると、90度以上のカーブを描き、平賀駅へ着く。ここには車庫があり、デハ7000系とともに古い電気機関車や除雪車などが並ぶ。赤い電気機関車は大正生まれの古参で、武蔵野鉄道(のちの西武鉄道)が導入した車両だ。こうした古参車両も目にできるが、車両のとめ具合により、ホーム上から見えないときもあるので注意したい。

↑平賀駅には車庫がある。左右のデハ7000系は中間車に運転席を設けた改造タイプで、顔つきが異なる。中央のED33形機関車は1923(大正12)年製、西武鉄道で使われた車両だ

 

平賀駅の先、柏農高校前駅(はくのうこうこうまええき)や、尾上高校前駅(おのえこうこうまええき)と学校の名が付く駅に停車する。弘南線、大鰐線では学校の名がつく駅が計7つある。弘南鉄道の電車が通学手段として欠かせないことがわかる。尾上高校前駅の1つ先が田んぼアート駅。この駅は臨時駅で朝夕や冬期は電車が通過となる。

 

この駅のすぐそばに道の駅 いなかだて「弥生の里」があり、こちらで田んぼアートが楽しめる。田んぼをキャンパスに見立て、色が異なる稲を植えることにより見事な絵が再現される田んぼアート。地元の田舎館村(いなかだてむら)の田んぼアートの元祖でもあり、多くの観光客が訪れる。ここで写真を紹介できないのが残念だが、今回訪れたときには手塚治虫のキャラクターが田んぼのなかに描かれていた。

 

【弘南線の旅4】 終点の黒石駅で見かけた黒石線とは?

↑黒石駅には、通常は使われていないホームと検修庫が隣接している。この検修庫の外壁には「黒石線検修庫」とある。弘南線でなく黒石線となっているのはなぜだろう?

 

↑夏祭りが盛んなみちのく。黒石駅前には「黒岩よされ」の飾り付けがあった。日本三大流し踊りの1つとされ、連日2000人にもおよぶ踊り手の流し踊りが名物となっている

 

途中下車しつつも到着した終点の黒岩駅。ホームの横には大きな検修庫が設けられている。その壁には「黒石線検修庫」の文字が。

 

「ここの路線は弘前線なのに、どうして黒石線なのだろう?」という疑問が浮かぶ。

 

調べてみると、黒石線とは以前に奥羽本線の川部駅と黒石駅を結んでいた6.2kmの路線の名であることがわかった。1912(大正元)年に黒石軽便線として誕生、その後に国鉄黒石線となり、1984(昭和59)年に弘南鉄道の黒石線となった。弘南鉄道では国鉄へ路線譲渡の打診を1960年代から行っており、20年以上もかかりようやく弘南鉄道の路線となったわけである。

 

弘南鉄道の路線となったものの、黒石線は非電化路線のためディーゼルカーを走らせることが必要だった。路線距離も短く、効率が悪かった。そのため1998(平成10)年3月いっぱいで廃止となってしまった。もし、鉄道需要が高かった1960年代に弘南鉄道に引き継がれ、電化され電車が走っていたら。時を逸したばかりに残念な結果になったわけである。

 

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