乗り物
クルマ
2018/9/30 19:00

【中年名車図鑑|日産VWサンタナ】販売こそ低調だったが、日産にとっては大きな収穫だった

1980年代前半に大きな問題となった日本と欧米間での自動車の貿易摩擦。国際戦略に力を入れていた日産自動車は、その対応策として西ドイツのフォルクスワーゲン社と協力関係を樹立し、同社のフラッグシップセダンであるサンタナのノックダウン生産を実施する――。今回は初の和製フォルクスワーゲン車として1984年にデビューした「日産VWサンタナ」の話題で一席。

【Vol.87 日産VWサンタナ】

厳しい排出ガス規制と石油ショックを何とか克服した日本の自動車メーカーは、来るべき1980年代に向けて海外市場への本格進出に力を入れ始める。なかでもこの分野での先駆メーカーといえる日産自動車の戦略は、群を抜いて精力的だった。陣頭指揮を執ったのは、1977年に社長に就任していた石原俊氏で、経済マスコミでは同氏のことを“輸出の石原”と称した。

 

■日産自動車の貿易摩擦への対応策

一方、ここで重大な事態が発生する。日本車の進出によって、欧米の自動車メーカーの自国シェアが大幅に減ったのである。同時に、日本市場での輸入車に対する閉鎖性が大きくクローズアップされるようになった。この状況は徐々に深刻になり、やがて時の政府を巻き込んだ自動車の“貿易摩擦”として大問題となる。

 

このままでは海外市場での事業拡大に大きな支障が出る――。日産自動車の首脳陣は様々な議論を重ね、1980年12月には欧州向けの対策プランを実施する。そのプランとは、西ドイツ(現ドイツ)のフォルクスワーゲンAGとの「国際貿易上の問題解決に積極的に貢献することを目的として、全般的な協力関係を樹立する」という合意だった。そして翌81年9月には、日本でフォルクスワーゲン車のノックダウン生産を行い、販売も日産のディーラーが手がける契約を結ぶこととなった。

 

■ノックダウン生産に選ばれた車種はVWのフラッグシップセダン

日産VWサンタナは80年代の貿易摩擦緩和のため誕生した。生産は日本国内で行うノックダウン方式、販売も日産ディーラーが行った。日本仕様として5ナンバーサイズに収まるようアレンジが施された

 

日本でノックダウン生産するクルマを決める際、日産は自社の車種ラインアップになるべくバッティングしないフォルクスワーゲン車を検討する。選ばれたのは、1981年に欧州デビューしていた同社のフラッグシップセダンである「サンタナ(SANTANA)」だった。

 

日産の開発陣はサンタナを日本仕様に仕立てるにあたり、5ナンバーサイズに収めるためにサイドモールを薄型にするなどして1690mmのボディ幅とする(全長×全高は4545×1395mm、ホイールベースは2550mm)。さらに、日本の法規に則したヘッドライトやサイドマーカー、交通環境に応じた導入口の広いラジエターグリルなどを装着した。ハンドル位置は右。駆動レイアウトはFFで、縦置きに積まれるエンジンはアウディの設計によるJ型1994cc直列5気筒OHC(110ps)、フォルクスワーゲン設計のJN型1780cc直列4気筒OHC(100ps)、そしてCY型1588cc直列4気筒ディーゼルターボ(72ps)の3タイプを用意する。5速MTおよび3速ATのトランスミッションやラック&ピニオン式のステアリングギアなどの主要部品も、フォルクスワーゲン社から供給を受けた。また、エクイップメントに関しては本国でオプション設定の快適装備品をふんだんに盛り込んだ。

 

1984年2月、神奈川県の座間工場に設けた専用ラインで生産され、M30の型式を取得した「日産VWサンタナ」が市場デビューを果たす。グレード展開はJ型エンジンを積むXi5とGi5、JN型エンジン搭載車のGiとLi、CY型エンジン搭載車のGtとLtという計6グレードを設定。トランスミッションはガソリン仕様が5速MTと3速AT、ディーゼル仕様が5速MTだけを組み合わせていた。ちなみに、サンタナの新車記者発表会の席では、当時フォルクスワーゲン車の輸入・販売権を持っていたヤナセも同席。日産のサニー店系列とヤナセの直営店の2体制で日本生産のサンタナを売る旨がアナウンスされた(後にプリンス店系列も販売に加わる)。

 

■販売台数は伸びなかったものの――

バブル景気前夜の日本において、サンタナの質実剛健なインテリアは地味に映った。同クラスのハイテク満載の国産車と比べると割高感があり、販売は苦戦した

 

貿易摩擦の打開策、そして初の和製フォルクスワーゲン車でもあったサンタナは、大きな注目を集めて日本の市場に迎えられる。自動車マスコミからも、高いボディ剛性を芯に据えたしっかりとした乗り心地やハンドリングなどが高く評価された。

 

しかし、実際に蓋を開けてみるとサンタナの販売成績は予想外に伸びなかった。1980年代中盤といえばバブル景気の助走期。日本車はハイテクが積極的に採用され、品質も大きく向上していた。そんな状況下で、サンタナの地味なルックスや質素なインテリア、数値上で見劣りするエンジンスペック、さらに同クラスの国産車に比べて割高な価格設定などが、ユーザーの購入欲を刺激しなかったのである。受け入れたのはドイツ流の固めの足回りが好きで、質実剛健の内外装に惹かれたコアなファンにとどまった。

 

日産はテコ入れ策として、サンタナのラインアップ拡充を実施する。1985年5月には専用セッティングの足回りやスポーツシートなどを装着するXi5アウトバーンを追加。1987年1月にはマイナーチェンジを敢行し、内外装の意匠変更を図った。同時に、Xi5アウトバーンには1994cc直列5気筒DOHCエンジン(140ps)が採用される。1988年1月にはXi5をベースに専用の内外装パーツを組み込んだマイスターベルクを300台限定でリリースした。

 

ところで、日産VWサンタナの広告展開およびグレード名は、当時ドイツ車への憧れが日本の一般ユーザーに広がり始めていたことから、ドイツ・カラーを色濃く打ち出す戦略をとっていた。広告でのキャッチコピーは“アウトバーンから日本の道へ”“ロマンティック街道から”“ドイツの光と風”など。また、デビュー当初は「ドイツの“香り”プレゼント」と称してドイツ産ワインのプレゼント企画も実施した。グレード名には「Xi5アウトバーン」や「マイスターベルク」といったネーミングを採用。Xi5アウトバーン登場時のCMでは、あえてドイツ語でスペック表記を映し出していた。

当時、ドイツ車への憧れが日本ユーザーに広がりはじめていたタイミング。サンタナはドイツ色を強く押し出したPR戦略をとった

 

さまざまな改良を施していった和製サンタナ。しかし、販売成績が大きく回復することはなく、そのうちに貿易摩擦の問題も現地生産化などによって次第に改善され、1988年末にはフォルクスワーゲン社との提携も解消される。そしてサンタナのノックダウン生産は中止となり、販売も1990年中には終了した。

 

販売成績の面では低調に終わった日産VWサンタナ。しかし、日産にとって高いロイヤリティを払ったことは決して無駄にはならなかった。当時の開発スタッフによると、「ドイツ流のクルマ造りを細部にわたって学べた。また、ドイツ車に対する日産の強みも把握できた」という。その結果は、以後に登場する日産車のボディ剛性の出し方や足回りのセッティングなどに存分に活かされたのである。

 

【著者プロフィール】
大貫直次郎

1966年型。自動車専門誌や一般誌などの編集記者を経て、クルマ関連を中心としたフリーランスのエディトリアル・ライターに。愛車はポルシェ911カレラ(930)やスバル・サンバー(TT2)のほか、レストア待ちの不動バイク数台。趣味はジャンク屋巡り。著書に光文社刊『クルマでわかる! 日本の現代史』など。クルマの歴史に関しては、アシェット・コレクションズ・ジャパン刊『国産名車コレクション』『日産名車コレクション』『NISSANスカイライン2000GT-R KPGC10』などで執筆。

TAG
SHARE ON