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2018/11/12 18:15

新鮮な発見が次々に!– 見て乗って食べて良しの【上信電鉄】の旅

おもしろローカル線の旅19〜〜上信電鉄上信線(群馬県)〜〜

紅葉前線が南下し、鉄道の旅が楽しい季節となっている。今回は群馬県内を走る上信電鉄の旅をお届けしよう。

 

この上信電鉄。かなり個性的な鉄道路線で、車両や路線などの鉄道施設のほか、沿線で“発見”することも数多い。それこそ群馬の方言を借りれば「えれぇ〜おもしろい(とてもおもしろい)」路線だ。そんな新鮮な発見の旅に出発!

 

↑上信電鉄の旅の出発点は高崎線の0番線ホーム。JR高崎駅の西口を出て、回り込むように駅構内に再び入ると、その先に上信電鉄の高崎駅がある。停まるのは200形。製造されてからほぼ半世紀を迎える古参車両だ

 

 

【路線の概略】なぜ、上信という鉄道名が付いたのだろう?

まず旅に出る前に、上信電鉄の路線の概要と歴史について触れておこう。路線は上信線のみ、高崎駅〜下仁田駅(しもにたえき)間33.7kmを電車が走る。

 

路線の開業は1897(明治30)年5月10日のこと。高崎駅と福島駅(現・上州福島駅)間が結ばれたことに始まる。同年の9月8日には、現在の終着駅、下仁田駅まで路線が延ばされた。開業してからすでに120周年を迎えた歴史ある鉄道路線だ。

 

開業当時の鉄道会社名は上野鉄道(こうずけてつどう)だった。1921(大正10)年に上信電気鉄道に、さらに1964(昭和39)年に現在の、上信電鉄に名前を改めている。

 

なぜ、群馬県内のみを走るのに上野(群馬の古い国の名)に加えて、信州の「信」を鉄道会社名に加えたのだろうか?

会社名の経緯はご存知の方も多いかも知れない。おさらいということで触れておこう。

 

上信電鉄は開業当初、線路幅762mmの軽便鉄道として誕生した。沿線に富岡製糸場などの工場があって、鉄道事業は開業当初から順調だった。とはいえ軽便サイズでは輸送力に限界がある。そこで1924(大正13)年に線路の幅を国鉄と同じ1067mmに、さらに路線が電化(直流1500V)された。この計画が立てられるにあたり、将来は長野県の中込(長野県佐久市・現在の小海線中込駅)まで路線を延ばそうと上信電気鉄道(現在は上信電鉄)に名が改められた。

 

希有壮大な計画だった。実際に延伸計画も立てられ、一部区間の鉄道免許も申請されたが、昭和恐慌、満州事変から日中戦争が勃発するなど世情が安定せず、下仁田駅から先は着工されることなく、延伸が断念された。計画は断ち消えたが、鉄道会社の信州まで路線を延ばしたいという思いは鉄道会社名として消えずに残されたわけだ。

 

 

【発見の旅1】高崎駅の構内に停まるさまざまな車両に注目!

高崎駅を訪れたら、電車に乗り込む前に、ぜひ駅に隣接する施設を見ておきたい。

 

高崎駅の構内には車両検修場と車両基地があり、その一部がホームから、また敷地外から望むことができる。ここに上信電鉄のさまざまな車両が停められている。新旧の気になる車両も多い。

 

今、停められている車両の中で多くの鉄道ファンが注目しているのは、元JR東日本の107系の動向だろう。上信電鉄ではJRを引退する107系を数多く購入したが、この車両が高崎駅の構内に停められているのだ。すでにJRでは消滅した車両形式だけに、どのような姿で上信電鉄を走り始めるのか、気になる。

↑JR東日本の近郊形電車として高崎地区を中心に走った107系。すでに全車両が引退し、一部が上信電鉄に引き取られた。現在は高崎駅構内に留置中。上信電鉄では700形と車両形式名を改めて走らせる予定だ

 

↑高崎駅構内には、1924(大正13)年、上信線が電化した当時に導入した電気機関車デキ1形も停められている。現在もイベント列車などの運行に使われることがある

【発見の旅2】運転台が左でなく右にある同社のオリジナル車両

隣接する車両基地の車両を確認し終わったら0番線ホームの電車に乗り込もう。

 

この日、筆者が乗車した電車は6000形だった。上信電鉄が自社発注して製造したオリジナル車両で、四角張った車体に特徴がある。正面に貫通トビラは無く、大きな正面窓、下部に自動車のバンパーのようなパーツが付き、そこに前照灯、連結器がまとめられる。

 

姿形は6000形の一代前の車両、1000形のデザインに近い。ちょうど現在、日野自動車の広告塗装の姿で走っているが、電車の前面スタイルというよりも、日野の大型トラックの前面に近いといったデザインだ。

↑1981年製の上信電鉄6000形電車。車体側面やパンタグラフ、連結器などが見えなければ、その前面デザインは大型トラックのその姿に近いイメージ。1996年から日野自動車の広告塗装が施されている

 

↑6000形の運転台は右側にある。200形、250形、1000形といった上信電鉄オリジナル車はすべてが右側に運転台が付く。オリジナル車両の中で最新型の7000形のみが左に運転台がある

 

この6000形、珍しいことに運転台が右にある。6000形だけでなく250形、1000形といった上信電鉄のオリジナル車両の多くが、運転台を右に付けている。

 

日本の鉄道車両の多くは左側に運転台が付く。その理由としては日本の鉄道開業当時、最初に輸入されたイギリス製の機関車が左に運転台があったためだとされる。複線の路線で左側通行をしていることもあり、また信号が左側に付くことが多い日本の鉄道。運転台が左にあった方が運転しやすく、信号の確認もしやすいとされている。ただし、右か左か、どちらかにしなければいけないという決まりはない。どちらにつけても良いわけだ。

 

上信電鉄のように右に運転台が付く車両は、地下鉄専用の車両などの一部に限られている。実は、上信電鉄の車両も運転台がすべて右側というわけではない。左に運転台がある車両も走っている。同じ鉄道会社でこの違いは、やや不思議に感じる。

 

さらにここで上信電鉄を走る車両を簡単に紹介しておこう。

 

◆上信電鉄オリジナル車両200形、250形、1000形、6000形

上信電鉄では自社で発注したオリジナル車両が多い。1964年製の2000形から、前述した1981年製の6000形に至るまでオリジナル製の車両を導入してきた。この4タイプとも右側に運転台を付くことが大きな特徴となっている。

 

◆上信電鉄オリジナル車両7000形

2013年、30年ぶりに自社発注した車両。富岡製糸場が世界遺産に登録されることが見込まれたことから、沿線自治体の供出金から製作資金が捻出された。地方の民営鉄道の場合には、大手私鉄で使われた新古車を使う場合が多く、まったくの新製車両を導入されることは、近年では珍しくなっている。2両のみの導入に留まっていることがちょっと残念なところ。ちなみに、この車両は上信電鉄のオリジナル車両ながら、運転台は既存車と異なり左側に付く。

↑2013年に新製された7000形。地方を走る民営鉄道としては珍しいオリジナル製の新車が導入された。2両編成ながらパンタグラフ2つを持つ、力強い姿で路線を走り続けている

 

◆旧西武鉄道の車両150形、500形

各地の民営鉄道では大手私鉄の車両が導入されるケースが多いが、上信電鉄も例外ではない。オリジナル車両では足りなくなる不足分を旧西武鉄道からの道入車でまかなってきた。150形には元西武701系と801系の改造車両。500形には元西武の新101系の改造車両が使われている。

 

すでに150形は西武鉄道時代を加えると、車歴が半世紀に及ぶことから、この夏に、引退車両が現れた。元JR107系の700形が整備されて登場することになれば、真っ先にこの150形や、オリジナル車両で最も古い200形が消えていくことになりそうだ。

↑500形は元西武鉄道の新101系。現在は群馬県のキャラクター「ぐんまちゃん」のラッピング電車として走る。人気のご当地キャラ電車とあって、子どもたちに大人気だ

【発見の旅3】沿線で多く使われるレトロ感たっぷりの架線柱は?

寄り道がやや過ぎた。先を急ごう。

 

高崎駅を出た電車は高崎市街を抜けて南下。南高崎駅、そして佐野のわたし駅を停車しつつ進む。この駅の先で烏川(からすがわ)を渡る。対岸に渡り、さらに山名駅まで南下、ここでカーブを大きく描き、西へ向けて走り始める。

↑南高崎駅と佐野のわたし駅の間にある佐野信号所。ちょうど上越新幹線の高架橋下に造られたこともあり、ちょっといびつな線形となっている。駅での上り下り列車の行き違いだけでなく、路線途中にも行き違い用に計3カ所の信号所が設けられている

 

さて、上信電鉄ではコンクリートの架線柱以外に、深緑色に塗られた鉄の架線柱を多数、利用している。レトロ感たっぷり旧レールを使った架線柱だ。ある柱の刻印を見ると「UNION D 1885 N.T.K」とあった。

 

この刻印された架線柱は上信電鉄では最古に近いものだと分かった。「UNION」とはドイツのウニオン製を表す刻印。1885年製と、今から130年も前に造られたレールだ。きっと海を越えて運ばれ、はるばる群馬の地で鉄道の開業当時に使われたレールなのだろう。1世紀以上たっても架線柱に姿を変え現役として頑張っている。

 

木造の架線柱に比べて、鉄製ともなれば、塗装し、メンテナンスさえしていれば、ほぼ耐用年数がないに等しいものだろう。開業した軽便鉄道頃の遺産がこうして今もこうして生かされていることに驚きを感じざるをえない。

↑上信電鉄の架線柱は古いレールを利用したものが多い。やや細めということから軽便鉄道時代に使われていたもののよう。下仁田駅に隣接の駐車場内に立つ架線柱には上信電鉄では最古と思われる1885年刻印が入る(右下写真)。一般の人も近寄り見ることが可能だ

 

 

【発見の旅4】南蛇井駅 –− さてこの駅は何と読むでしょうか?

山名駅を過ぎると沿線には群馬らしい田畑風景が広がる。上州福島駅を過ぎれば間もなく世界遺産に登録された富岡製糸場の最寄り駅、上州富岡駅に到着する。同駅で乗車していた人たちの多くが降りていく。さすが世界遺産に登録されたご威光なのだろう。

 

さらに電車は走り、上信越自動車道の高架橋の下をくぐる。そして着いたのが南蛇井駅。さてこの駅名、何と読む?

↑駅舎はレトロな趣のある南蛇井駅。駅名表示にルビやローマ字が入らないため、クイズにはぴったりの駅名案内です。さて何と読むでしょうか?

 

読み方はなんと「なんじゃい」だ。

 

「なんじゃい」その読み方は、と言うなかれ。伝説を元にして生まれたしっかりした地名なのだ。その言われは次の通り。

 

すぐ近くを流れる鏑川(かぶらがわ)のほとりに、温井(ぬくい)という夏は冷たく冬は温かい泉があり、蛇が集まって暑さ、寒さをしのいだとされる。「南」の方にあった「蛇」が好む「井」戸ということ「南蛇井」という土地名となったそうだ。もちろん、こうした地名には諸説ありなのだが、この説が最も一般的とされているようだ。

 

さて難読駅名の南蛇井駅を過ぎ、路線は険しさが増してくる。次の千平駅(せんだいらえき)と下仁田駅間は、路線の中で最も険しいところ。鏑川に沿って右に左にカーブを描きながら電車は走る。

↑千平駅から下仁田駅へは鏑川沿いの険しい山中を走る。電車からは見えないが、写真のように鏑川の中流域には切り立つ断崖絶壁の峡谷が続く

 

白山トンネルを抜けて国道254号に沿ってしばらく走れば、間もなく終点の下仁田駅に到着する。高崎駅から下仁田駅まで、約1時間の行程だ。下仁田駅では平屋の古風な駅舎が出迎える。駅構内には留置線が並ぶ。

 

電車はここで折り返しとなるが、使われる電車の変更などで時に入れ換え作業が行われることがある。古風な転轍機を動かし、手旗信号で誘導するシーンなど、ローカル線ならではの趣ある光景に出くわすこともある。

↑終点の下仁田駅。木造の駅舎が出迎える。駅近くを国道254号(富岡街道)が通る。大正末期に同街道沿いに長野県の中込まで路線の延長が計画されたが、県境区間は現在でもかなり険しく感じられる。当時の土木技術では新線建設など、とても難しかったように思える

 

↑留置線など側線が多く設けられる下仁田駅構内。上信電鉄では1994(平成6)年まで貨物営業も行われ、側線も使われていた。現在は保線用の事業用車両などが置かれている

 

【発見の旅5】富岡製糸場以外にも発見が多い上信電鉄の沿線

上信電鉄の沿線は観光要素にも事欠かない。

 

世界遺産に登録された富岡製糸場はもちろんのこと、駅からやや離れてはいるが、ぜひ訪れたい城下町。最近注目のB級グルメ、隠れたようにひっそりと立つ史跡など、訪れてみたいポイントがふんだんにある。

 

ここからは写真を中心におすすめの観光ポイントを紹介しよう。

 

◆佐野橋(佐野のわたし駅から徒歩約2分)

高崎市街の西側を流れる烏川(からすがわ)。上信電鉄が渡る烏川橋梁付近には、大正期まで渡船場があったとされる。近年、駅もでき、木造の佐野橋を渡れば、対岸まで散策が楽しめる。

↑上信電鉄の駅としては最も新しい佐野のわたし駅。2014年12月に開業した。烏川に面していて、河畔と広がる風景が楽しめる。古くには烏川の両岸をつなぐ渡船場があり、人や牛馬、荷車などを運んでいたとされる

 

↑上信電鉄の烏川橋梁に平行に架かる木造の佐野橋。佐野のわたし駅から徒歩2分と近い。川の氾濫で橋が流されることが多々あり、かけ替えしやすいように木造にしたとされる。対岸には田畑がひろがり散策コースとして、上信電鉄の撮影ポイントとしておすすめだ

 

◆城下町・小幡(上州福島駅から車で約8分)

上州福島駅がある甘楽町(かんらまち)の町内には、江戸時代に小幡(おばた)藩という2万石の小さな藩があった。この藩を立ち上げたのは、織田家。

 

織田信長の次男であった信雄(のぶかつ)。その四男にあたる信良(のぶよし)が立藩した。全国統一を目指した信長の孫にあたり、また残された直系にもあたる信良だったが、すでに徳川の天下となり、小さな藩の支配しか認められなかったわけだ。小幡では7代にわたり織田家の統治が続いたが、7代目が蟄居処分となり、出羽(山形)高畠藩(たかはたはん)に移封されている。そんな織田家ゆかりの地が、群馬の地にあることがおもしろい。

↑織田信長の孫により立藩された小幡藩。現在も一部に城下町の面影を残す。特に桜の季節は訪れる人が多い。写真の雄川堰(おがわぜき)は織田家が統治した17世紀中ごろに造られた用水路。上州福島駅からレンタサイクルの利用で約20分(駅に貸し出し用の自転車あり)

 

◆富岡製糸場(上州富岡駅から徒歩約10分)

日本の近代化のために1872(明治5)年に設けられた富岡製糸場。今も敷地内に多くのレンガ建ての建物が残され、往時の姿を伝えている。2014年に富岡製糸場と絹産業遺産群が世界遺産に登録された。

 

近代日本の礎を築いた製糸場とその関連遺産だけでなく、上州富岡駅の近くの倉庫群などにも、当時の富岡の繁栄ぶりが目に浮かぶようで興味深い。

↑世界遺産への登録にあわせ2014年3月に建て替えられた上州富岡駅。現在の駅舎は3代目にあたる。駅構内にインフォメーションコーナーもある。左には富岡市のイメージキャラクター「お富ちゃん」が立つ

 

↑上州富岡駅の駅前からは「まちなか周遊観光バス」も運行される。乗車運賃は100円(ガイド料を含む)で、約40分でまちなかを1周する。富岡製糸場前も経由するので便利だ。特製の8輪電動バスを利用していて環境にもやさしい

 

↑日本の近代化に大きく貢献した富岡製糸場。現在も当時のレンガ造りの建物が多く残る。見学料1,000円、開場は9〜17時/年末12/29〜31日のみ休み 画像提供 富岡市

 

◆下仁田かつ丼(下仁田駅近くの食事処で味わえる)

昨今、駅近くの食事処や店舗が店じまいしているところが多くなっているが、上信電鉄の終点、下仁田駅ではそのような心配は無用だ。

 

むしろ、ここではぜひ食べておきたいメニューがある。「下仁田かつ丼」だ。かつ丼といえば、普通は卵とじかつ丼や、ソースかつ丼が一般的だが、この下仁田では、揚げたカツをさっと醤油だれで潜らせる。さっぱりした味が特徴だ。大正後期から町内の飲食店で提供された味で、現在では、町の名物として駅そばの8店舗で名物かつ丼の味が楽しめる。

↑下仁田駅そばの8軒で下仁田かつ丼が味わえる(800円〜)。写真は日昇軒の下仁田かつ丼。カツが2枚重ねでボリューム満点だが、さくっとした衣味、しつこさはなく食べやすかった。スタンプラリーも行われ(冬期を除く)、8軒全店めぐれば農産品をプレゼント

 

↑下仁田駅そばにあるレンガ建ての「下仁田倉庫」。1921(大正10)年と1926(大正15)年に建てられた2棟が連なる。繭(まゆ)の保管場所として使われた。観光施設ではなく外観しか見ることができないが、こうした歴史的な建物が沿線に数多く残るのがおもしろい

 

◆上野三碑(山名駅、吉井駅などから徒歩で)

今回は紹介できなかったが、沿線に点在する上野三碑(こうずけさんぴ)も世界遺産に登録され、注目を集めている。

 

古代(7〜11世紀)に上野国に住んだ朝鮮半島からの渡来人が立てたとされる石碑で、日本では18例しか現存しない石碑の中で最古のものを含む三碑だとされる。

 

三碑のうち、山上碑(西暦681年・年号は建てられた時期=以下同)へは上信電鉄の西山名駅または山名駅から徒歩約20分。多胡碑(西暦711年ごろ)へは吉井駅から徒歩25分、金井沢碑(西暦726年)は根小屋駅から徒歩10分。吉井駅または山名駅から三碑めぐりバスも運行されている。

 

歴史好きの方は訪ねてみてはいかがだろう。