乗り物
鉄道
2019/4/13 17:30

知多半島を走る愛知最古の路線「武豊線」で10の謎を解く

おもしろローカル線の旅36 〜〜JR武豊線(愛知県)〜〜

愛知県内を走る武豊線(たけとよせん)。地元の方々を除き、その名を聞いてすぐに思い出した方は、かなりの鉄道通といって良さそうだ。実はこの武豊線、1886(明治19)年開業と、愛知県で最も古い由緒ある路線なのだ。

 

この武豊線に乗ると「へえ〜」という発見に多く遭遇した。老舗路線だからこその歴史的な施設も残っていた。そんな不思議発見、そして謎解きを楽しんだ。

↑武豊線を走る車両は大半がJR東海の313系の2両編成、もしくは313系の4両編成だ。朝夕のみ名古屋駅から直通列車が乗り入れる。313系に比べて車両数が少なめの311系(写真)の姿も見ることができる

 

【武豊線の謎①】なぜ武豊線が愛知県初の鉄道路線となったのか?

歴史に触れる前に、武豊線の概要を見ておこう。

路線と距離 JR武豊線・大府駅(おおぶえき)〜武豊駅19.3km
開業1886(明治19年)年3月1日、武豊駅〜熱田駅(現・東海道本線)間が開業
駅数10駅(起終点を含む)

 

大府駅〜武豊駅間の全線が単線で、走る列車は普通列車のみ。朝晩を除き列車は30分間隔で走り、大府駅から終点の武豊駅までは32分ほどかかる。朝晩は、名古屋駅(一部は岐阜駅・大垣駅)間との直通列車が走る。

 

武豊線の歴史を振り返ってみよう。

 

新橋駅(仮営業期間は品川駅)〜横浜駅(現・桜木町駅)間に日本初の路線が生まれたのが1872(明治5)年のこと。その2年後には大阪駅〜神戸間の路線が開業した。明治政府はこの東西の路線を少しでも早く結ぶことに心血を注いだ。

 

路線は徐々に東西から延ばされていった。東と西の路線の延伸は順調に進められたものの、さらに路線の延伸を加速させるためには東海地区からの路線開業が不可欠と考えられた。この地区にどうやって建設資材を運べば良いか。この課題を解消すべく生まれたのが武豊線だった。武豊駅近くの武豊港(現・衣浦港)に建設資材を陸揚げ、誕生したばかりの武豊線を利用して運んだ。

 

↑武豊線沿いを歩くと、古い鉄道施設が多く見られる。写真は乙川駅(おっかわえき)〜半田駅間にある英比川(えびがわ)橋りょう。開業当時のものとされるレンガ造りの橋脚が残る

 

武豊線を開業させた効果は大きく、1887(明治20)年4月25日には、武豊駅〜長浜駅(滋賀県)間が開業。1988(明治21)年9月1日には大府駅〜浜松駅間が開業している。

 

1889(明治22)年7月1日には、後に東海道本線となる新橋駅〜神戸駅間が全通した。武豊線の開業からわずか3年ほどの期間でこの長い路線を開業させたというのだから、当時の突貫工事ぶりが目に浮かぶ。

 

 

【武豊線の謎②】なぜ愛知県最後の電化路線となったのか?

愛知県で一番古い路線である武豊線。その一方で、電化されたのはごく最近の2015(平成27)年3月1日のことだった。愛知県内のJRの旅客路線としては最も遅い電化路線となった。なぜ、遅くなったのだろう?

 

JR東海の在来線には非電化区間が意外に多い。高山本線、関西本線(亀山駅以西)、紀勢本線、参宮線など、多くの路線が非電化のまま残る。武豊線は首都圏や京阪神といった尺度で見れば電化が遅めで、愛知県内では最後の電化路線となったが、JR東海の在来線の中では電化が決して遅くなかったことがわかる。

 

その一方で、武豊線は今も「地方交通線」に分類されている。地方交通線とは日本国有鉄道(国鉄)の末期に、全国の路線を「幹線」と「地方交通線」に分けたもので、地方交通線とは「適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難であるもの」とされている。

 

地方交通線は、その運行を維持するために基準となる運賃に加算額が上乗せされている。武豊線の場合は路線距離が短いこともあり、同線内では幹線とほぼ同じ運賃となっているが、武豊線以外の駅からの直通運賃を支払う場合には地方交通線の料金が適用される。

↑武豊線の電化工事が進んでいた2013年9月の光景。すでに架線柱が立てられ初めていた。走るのはキハ75形気動車。ほかにキハ25形も主力車両として走った

 

とはいえ、「収支の均衡を確保することが困難であるもの」である地方交通線に分けている現状にはちょっと疑問も残る。

 

地方交通線に指定された一つの基準として輸送密度がある。地方交通線の輸送密度は8000人(日)以下とされる。武豊線は2008年度の段階ですでに9156人と基準となる輸送密度を超えている。さらに武豊線の10の駅のうち4駅が11万人都市の半田市内にある。半田市は名古屋のベッドタウンとして成長している都市だ。さらに中部国際空港にも近く、沿線での工業生産も盛んだ。

 

こうした取り巻く環境にも関わらず、実際に乗車してみると、朝夕を除いて走る列車の車内は空き気味だ。その理由は後述するとして、日中の武豊線はローカル線の雰囲気そのものだった。

 

路線の高架化などの都市再開発計画もこれまでなく、近代化という影響を受けなかったこともあり、貴重な鉄道遺産が数多く残されていることも武豊線の魅力となっている。

【武豊線の謎③】大府駅から分岐する線路の1本が非電化という謎

↑武豊線の起点となる大府駅。東海道本線のホームにはさまれるように武豊線の2・3番線ホームがある(右側、屋根が短めのホーム)

 

大府駅から武豊線の列車に乗ってみよう。日中は2番線ホームを利用しての折り返し運転が行われている。列車は2両編成で、運転士のみのワンマン運転だ。

 

起点の大府駅からは313系のセミクロスシートの座席をほぼ埋めるぐらいの人が乗り込んだ。ドアは半自動で、駅の停車時には中から開閉できる仕組みだ。

 

駅を発車すると坂をのぼり、東海道本線の路線を高架で越える。しばらく走ると、右手から非電化の線路が合流してくる。さて、この線路は何だろう?

↑大府駅構内には貨物列車の入れ替え用の線路が多く並んでいる。構内で良く見かける衣浦(きぬうら)臨海鉄道のディーゼル機関車。自社の専用線から武豊線の大府駅まで乗り入れている。大府駅から先はJR貨物の電気機関車が引き継ぎ貨物列車の牽引を行う

 

↑国道155号の大府跨線橋から東海道本線と武豊線の分岐点を眺める。武豊線の列車は左手の立体交差で東海道本線を跨ぐ。一方、衣浦臨海鉄道の機関車が牽く貨物列車は、右側の線路を走り武豊線へ入る。東海道本線は同ポイントから左へ大きくカーブしている

 

大府駅の先で合流した非電化の線路は、貨物列車専用に用意されたもの。衣浦臨海鉄道のディーゼル機関車が大府駅でJR貨物から貨車を引き継ぎ、この貨物列車専用の線路を利用して武豊線へ入る。機関車は武豊線の東浦駅と東成岩駅(ひがしならわえき)から衣浦臨海鉄道の路線へ乗り入れている。

 

各地に臨海鉄道が走っているが、自社路線以外にJRの路線まで機関車が乗り入れるケースは非常に少ない。武豊線ではそうした珍しい光景を見ることができる(ほかには岡山県の水島臨海鉄道がJR山陽本線へ乗り入れている)。

 

 

【武豊線の謎④】亀崎駅には明治生まれの日本最古の駅舎が残る

大府駅を発車、次の尾張森岡駅を過ぎるころから東側(進行方向の左側)に水田、西側(進行方向の右側)に住宅が続く。

↑尾張森岡駅〜緒川駅(おがわえき)間を走る313系電車。路線の東側には広々した田園風景が、西側には住宅地が広がる。東側で風景が異なるのは緒川駅前(大型ショッピングセンターが建つ)ぐらいだ。こうした傾向は、先の亀崎駅近くまで続く

 

地図を見ると、武豊線の東側には境川、逢妻川といった河川が合流して衣浦港へ注ぐ。河川の水利を利用しての米栽培と、港が近いことを活かし、工業団地化が進んだ。対して西側には知多半島を南北に結ぶ国道366号が貫く。この国道沿いに住宅地、商業地が連なり発展した。

 

鉄道路線を境にしてこうした区分けが自然と生まれているところが興味深い。

↑日本最古の現役駅舎とされる亀崎駅。シンプルな木造駅舎で、軒先が延びる姿が趣深い。入口の上部には建物資産標(右上写真)が付き、建てられた年月が刻印される。せっかくの古い駅舎だが、入口横に自動販売機を設置されているのが何とも惜しく感じられた

 

大府駅から約20分で、亀崎駅に到着した。この駅ではぜひ下車しておきたい。

 

何しろ、日本最古の現役駅舎が残っているのだから。駅舎は路線開業よりも早い明治19年1月に建てられたとされる。駅の軒下に付けられた「建物資産標」には「M19年1月」と刻印がある。

 

木造のシンプルな建物。入口を入ると小さな待合室、無人駅のため、窓口は閉じているが、駅の事務所だったスペースが駅の入口に連なって奥に延びる。

 

実は最古の駅にはさまざまな説がある。火事が起こり全焼した、いや火事は官舎のみの消失で、全焼したわけではないという諸説ある。そうした説がありつつも、明治期に生まれた古い駅舎が残ることは確かなようだ。

↑駅舎の南側にある自転車置き場。その形からして、かつては構内に引込線があり、貨車からの荷物の積み下ろしに使われていた建物だと推測される。レールを柱がわりにつかった構造が歴史を感じさせる。古くは同駅から耐火レンガの貨物輸送が行われたそうだ

 

筆者としては駅舎の前に残る、貨物を積み下ろしに使われたと推測される上屋と古いホーム跡が気になった。こちらが建った年代は不明ながら、古いレールを柱として使った、そんな建物が今は自転車置き場として使われていた。

【武豊線の謎⑤】半田駅に残る跨線橋は本当に日本最古なのか?

亀崎駅の次の駅が乙川駅(おっかわえき)。この駅を発車し、まもなく古い橋脚(きょうきゃく)が残る英比川(えびがわ)橋りょうを渡る。

 

この橋も時間があったら訪ねておきたい。2本の川が流れるこの英比川(阿久比川とも呼ばれる)。中洲を橋近くまで入ることができ、その橋脚が良く観察できる。

 

明治の初め、鉄道建設はイギリスの協力を得て始められた。橋りょうは当時、政府に雇われた英国人の技師、C・A・W・ポーナルが設計したものが多い。鉄橋部分は近年になってかけ替え、また橋脚そのものは補修されているようだが、明治期の基本設計がここに生きつづけていること自体おもしろい。

 

↑乙川駅〜半田駅間で英比川(阿久比川)橋りょうを渡る。この橋を支える橋脚は明治時代に造られた鉄道橋では良く見られる形のもの。川の中洲部分の散策路があり、写真のように鉄橋に近づいて撮影することも可能だ

 

英比川橋りょうを越えると列車は大きく左にカーブして半田市街へ入っていく。次の半田駅も近い。

 

半田駅も古い駅の建物が残る。中でもホームと駅舎を結ぶ跨線橋は、いかにも古そうだ。この跨線橋は1910(明治43)年11月に完成したもので、国内に残る最古の現役跨線橋だとされている。

 

とはいえ、こうした駅の構造物に関しての史料は、修復履歴を含めて明確に整理されたものが残っていない。そのため、最古という説は亀崎駅と同じく、絶対的なものではないようだ。

 

古い跨線橋をじっくり見つつ渡り、半田駅に降り立った。この駅が半田市の中心であるはずなのに、なぜか閑散としている。その原因はあとで説明するとして、他県から訪れた人間としてはちょっとびっくりさせられた。

↑英比川橋りょうを過ぎると大きくカーブ、半田駅へ向かう。線路端に咲く菜の花がきれいだった。同地点から半田駅の南側まで高架化計画が進行中で、数年後には前述した英比川橋りょうを含め、大きく変更される可能性が出てきている

 

↑半田駅に残る日本最古だとされる跨線橋。支える鉄柱、そして張りなど、時代を感じさせる造りだ。手前のレンガ建ての倉庫も同時期に造られたものだ。同駅の高架化が計画されているので、建設が進すめば、この建物も見納めとなりそうだ

 

この半田駅だが、数年後には大きく姿を変える可能性がある。愛知県と半田市が、半田駅を中心とした連続立体交差事業を進めているためだ。

 

武豊線の2.6km区間を高架化。この工事により12か所の踏切をなくなるという。2020年度からは準備工事、また用地確保を行い、2023年度には本工事に入る予定。完成予定は2027年度を見込んでいる。

 

明治時代に造られた跨線橋が、これまで良く残っていたものだと感心させられる。そんな武豊線にも都市計画の波が押し寄せてきたわけだ。先々、どのような形になるかは明確ではないが、何らかの形でその足跡が残ることを祈りたい。

↑半田駅の北側には「C11形蒸気機関車265号機」が保存されている。隣接して「半田市鉄道資料館」があり武豊線の古い資料などが見学できる。同資料館の開館は毎月第1・第3日曜日の10時〜15時のみで入館料は無料

 

半田駅の近くにはC11形蒸気機関車が保存され、隣接して「半田市鉄道資料館」もある。開館日が月に2回と限られるため、筆者は立ち寄れなかったが、興味をお持ちの方はぜひ立ち寄ってみてはいかがだろう。

 

ちなみに保存されているC11形の265号機は1960年代に地元、名古屋区に配置されていた機関車で、1970(昭和45)年6月30日に、「武豊線SLさよなら列車」(貨物563列車)を牽いた記念碑的な蒸気機関車だ。

 

 

【武豊線の謎⑥】終点の武豊駅の駅前に立つ銅像はどなた?

半田駅の先、列車に乗っている乗客が少なくなる。

 

東成岩駅(ひがしならわえき)での乗降客も少なめ、終点の武豊駅まで乗っていた人はほんのわずかだった。

↑終点の武豊駅はホーム1つの小さな無人駅。線路もこの先、行き止まりとなっている。駅前には商店もなく寂しい印象。駅前広場には「高橋熙君之像」(写真左下)が立つ。像の下には花々が手向けられていた

 

終点の武豊駅に降り立つ。あまりに閑散としていて、この駅が果たして終点なのだろうか、と不思議に感じるほどだった。駅前に小さなロータリーの中央には「高橋 熙(ひろし)君之像」が立てられている。

 

像のモデルになっているこの方はどなた? 実は多くの人たちの命を救った勇気ある鉄道マンの像だった。

 

1953(昭和28)年9月25日。この地を台風13号が襲った。東成岩駅と武豊駅間の線路と線路下の道床が高潮によって流されてしまった。知らずに、東成岩駅を発車した列車。当時、武豊駅に勤めていた高橋 熙氏は、列車を止めようと東成岩駅へ向かって駆け出した。カンテラと発煙筒を持って、近づく運転士に知らせ、無事に列車を止め、さらに列車は東成岩駅に引き返した。勇気ある行動により乗車していた多くの人たちの命が救われたのである。

 

無事に列車を止めることができた一方で、高橋熙氏は武豊駅に戻らなかった。翌日には遺体となって発見された。像は全国の国鉄職員や全国の子供たちから集められた募金によって、台風に襲われたちょうど1年後に立てられた。

 

今でこそ安全設備や通信機器が発達して、このような事故が起こり難くなっている。かつて、こうした我が身の危険も省みず、鉄道を安全を守ることに精根を傾けた人々がいたことに感動を覚える。

【武豊線の謎⑦】どのように使った?十字に線路が交わる転車台

閑散とした印象が強い武豊駅だが、開業当初の駅は、もっと港側にあった。開業した1886(明治19)年から6年後の、1892(明治25)年には、現在の場所に移されている。

 

元の武豊駅は武豊港駅(たけとよみなとえき)という貨物駅にその後なった。そして1965(昭和40)年までこの武豊港駅は使われていた。現在の駅からこの駅までの1kmは貨物支線だった。武豊駅の先に延びる車道に沿って明らかに線路跡とわかる痕跡が残る。線路跡沿いに武豊港駅まで歩いてみた。

↑武豊駅から約360m、線路跡の一部が散策路として整備されている。後田ポケットパークと名付けられた線路跡。桜の季節のちょっと前だったが、タンポポの花が春の訪れを告げていた

 

線路跡は一部が散策路となっている。散策路以外は車道を歩かなければいけないが、クルマの通行量も少なく散策には快適だった。駅から約1kmで旧武豊港駅の跡地に着く。ここでは不思議な設備を発見した。「転車台ポケットパーク」と名付けられた公園内の中心に転車台が残っていたのだ。

 

この転車台、通常お目にかかる転車台と形が違う。線路が十字に敷かれているのだ。さて、その理由は?

↑武豊駅から約1km先にある「転車台ポケットパーク」。転車台が残り屋根が付けられ大事に保存されていた。この転車台、その後に造られた転車台とは異なり、ちょっと異なる目的にも使われていた(本文参照)

 

↑「転車台ポケットパーク」にはSLの姿をした遊具も設置されていた。レトロな腕木式の信号機も立つ。路線開業時はすぐ近くに港があったようだが、現在、かつての港は埋め立て地となり発電所が設けられる。そのため同公園からは港を見ることはできない

 

同公園にある案内板には次のような説明が付けられていた。下記はその要旨。

 

路線開業当時には木製の転車台がこの駅にあり、その後に転車台が2基もうけられた。今残っている転車台はそのうちの1基で、貨車を方向転向するために設けられたもの。大きな用地が準備できなかったことから、小さいスペースで方向転向が可能なような転車台が設けられた。十字に線路を組んだ理由は、より効率的に作業ができるように考えられたのだろう、と案内にあった。

 

こうした転車台は、国内ではここだけのものだという。機関車用ではなく貨車用という、その用途がまたおもしろい。

 

 

【武豊線の謎⑧】なぜ武豊には味噌蔵が集うのだろう?

「転車台ポケットパーク」向かう途中、複数の味噌蔵が点在していることに気がついた。蔵に近づくと、味噌の香りがほのかに伝わってくる。武豊は古くから「醸造の町」とも呼ばれてきた。

↑武豊町には味噌蔵が5軒ほど集う。そのうち1軒の「丸又商店」。焼き板と呼ばれる板で造られた建物が並ぶ。板の表面を焼くことにより、耐久性、また太陽光などにも強い素材になると言われる。蔵からは味噌がほのかに香ってきた。ちなみに見学は不可

 

元々、武豊町を含む知多半島では醸造業(酒造り)が盛んだった。その後に酒造りは下火になっていく。江戸末期は小資本でも可能な味噌、たまり(たまり醤油)造りを行う家々が増えていった。

 

この地は気候も温暖で、良質な硬水が得られることも味噌、たまり造りの後押ししたとされる。武豊町の味噌作りには大豆が使われる。原材料を取り寄せるにあたって、近くに武豊港(衣浦港)があったことも幸いした。

 

武豊の味噌は大豆を原料にした「豆味噌」。東海地方では岡崎の八丁味噌が知られているが、八丁味噌に比べて、武豊の味噌は水分含有量が多いとされる。今回は駆け足気味の旅だったので、味わえなかったが、このあたりの違いを次回はぜひ探ってみたいと思った。

 

 

【武豊線の謎⑨】なぜ武豊線の列車は空き気味なのだろう?

朝夕の通勤・通学時間を除き、武豊線の列車は空いている。特に半田駅〜武豊駅間にその傾向が強く見られる。旅する人間にとって混んだ電車よりも空いた電車のほうが気軽なのだが、半田市などの都市があるのに関わらず、この空き具合は気になるところだ。

 

この謎の回答を得ようと、武豊線を訪れた翌日、武豊線に平行して走る名古屋鉄道(以降「名鉄」と略)の河和線(こうわせん)に乗車してみた。

↑名鉄の河和線には展望席付きの特急パノラマカーも走っている。特急は30分おきに走っている。JR武豊駅に至近の知多武豊駅(右上写真)からは快速急行、普通を含めれば、10分おきに列車が出ていて非常に便利だ

 

名鉄の河和線は太田川駅(おおたがわえき)で常滑線(とこなめせん)と分岐して、知多半島の東岸にある河和駅まで走る。武豊線と河和線は半田駅と武豊駅の間、ほぼ沿って南北に走っている。両路線の距離は約500m〜600m離れた程度で近い。

 

河和線は便利だ。特急もほぼ30分おきに走っている。この特急を利用すれば、名古屋市内のターミナル駅、金山駅へは31分で着く(34.3kmで運賃660円)。

 

一方の武豊線を使った場合、JR東海道本線からの直通列車を使ったとしても50分以上の時間がかかる。朝夕こそ直通列車が走るからいいが、日中は大府駅での乗継ぎが必要になる(35.5kmで運賃670円)。朝のみ武豊駅発の列車は15分〜20分おきだが、日中、および夜は、ほとんどが30分間隔での運行となる。

 

路線の距離数こそ大きな差がないものの所要時間が20分ほど違う。そして何より運行本数に差がある。

 

この状況は武豊駅だけでなく、半田駅も同じだ。JR半田駅よりも名鉄の知多半田駅のほうが賑わっている。さらに銀行、ホテルなど諸施設が集まる。半田駅〜武豊駅を利用する人たちにとっては、つい名鉄を利用しがちになるのも、この状況を見ると理解がついた。

【武豊線の謎⑩】武豊線を走る貨物列車はどこへ行く?

最後に武豊線を走る貨物列車の話題に触れておこう。大府駅から武豊線へ入る線路には、貨物専用線があることを前述した。ここを走る貨物列車はどこへ向かうのだろう。

 

まずは特殊な形をした貨車を使った貨物列車から。こちらは東浦駅まで走る。東浦駅からは碧南線と呼ばれる衣浦臨海鉄道の路線へ入る。そして衣浦港を鉄橋でわたり対岸の碧南市まで貨物列車が走る。

 

こちらの貨物列車では碧南市へ向かう列車が炭酸カルシウム(炭カル)。そして、帰りにはフライアッシュ(石炭灰)を載せて走る。同列車は大府駅の先はJR関西本線、JR東海道本線を通って三岐鉄道の東藤原駅へ運ばれる。

 

詳しくは前回の三岐鉄道三岐線を紹介したおもしろローカル線の旅で詳しく取り上げたので、参考にしていただきたい。

 

鈴鹿山脈を眺めて走る三重のローカル私鉄−−10の新たな発見に胸ときめく

 

↑衣浦臨海鉄道の碧南線で運行されるフライアッシュ輸送。同列車のダイヤは大府駅8時28分発→東浦8時49分発→碧南市9時4分着。上りが2列車あり碧南市11時15分発・14時23分発→東浦が11時30分発・14時40分発→大府が11時44分着・14時50分着

 

衣浦臨海鉄道にはもう1本の路線があり、こちらはコンテナによる輸送が行われている。輸送している荷は主に沿岸にある工場向けに原材料輸送、そして製品輸送を行っている。

 

こちらのコンテナ列車は東成岩駅から衣浦臨海鉄道半田線へ列車が乗り入れる。

 

前述したように武豊線を走る貨物列車は衣浦臨海鉄道の機関車が貨車を牽引するユニークな輸送風景を接することができる。旅する時にはこうした武豊線内の貨物輸送にも注目したい。

↑武豊線の尾張森岡駅〜緒川駅間を走るコンテナ列車。列車を牽くのは衣浦臨海鉄道のKE65形ディーゼル機関車で、性能はJR貨物のDE10形とほぼ同じ。下りが大府駅12時12分発→東成岩13時3分発→半田埠頭13時13分着。上りが半田埠頭16時12分発→東成岩16時45分発→大府17時16分着というダイヤで運行される

 

【ギャラリー】