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2019/5/25 17:30

山形盆地を快走! 最上川と縁が深い「左沢線」10の秘密

おもしろローカル線の旅40 〜〜JR左沢線(山形県)〜〜

 

左の沢と書いて「あてらざわ」と読む。すぐに読めた方はかなりの鉄道通と言って良いかも知れない。路線名そのものが難読地名というJR左沢線。山形駅(路線の正式な起点は北山形駅)と左沢駅を結ぶローカル線である。

 

この左沢線、車窓から見える景色が変化に富む。さらに調べてみるとなかなか興味深い見どころや史跡、不思議な事がらが浮かび上がってきた。沿線で注目した10の秘密を解く旅に出かけてみよう。

↑左沢線を走るキハ101系。同線専用の車両で、車体はホワイトとスカイブルーの色分け。車体側面に「フルーツライナー」のロゴ、先頭に左沢線のシンボルマークが付く

 

【左沢線の秘密①】なぜ左沢まで路線が敷かれたのだろう?

全線が単線、非電化の左沢線。地図をみていただくとわかるように、左沢線は山形県の県庁所在地、山形市の中心から西へ向かい、最上川をわたり、さらに最上川沿いにある左沢駅へ向かう。その先に路線はない。いわゆる“盲腸線”である。

 

左沢という町(町名でいえば大江町)も、現在は大きな産業を持つ町ではない。どうして左沢に向けて路線が造られたのだろう?

 

その理由を見ていく前に路線の概要に触れておこう。

 

路線と距離左沢線/北山形駅〜左沢駅24.3km
開業1921(大正10)年7月20日、山形駅〜羽前長崎駅間が開業、1922(大正11)年4月23日、左沢駅まで延伸
駅数11駅(起終点を含む)

 

左沢線は当初、左沢軽便線として誕生した。1910(明治43)年に法整備された軽便鉄道法という法律を元にして生まれた。この軽便鉄道法とは、幹線を作る時のように厳しい条件を設けずに地方路線の延長促進を図るという政府の願いから生まれた法律で、その後わずか9年で法律が廃止されている。

 

いわば緩い制約下の中で路線の敷設を進めようというものだった。

 

↑左沢駅の構内。ホームに折り返し列車が停まる。線路は行き止まりとなっているが、開業当初は、最上川沿いを荒砥駅(現・山形鉄道)まで線路を敷く計画が立てられた

 

歴史を振り返ると、山形は県内を流れる最上川の舟運が盛んに利用されていた。四季を通して水量が豊富な最上川はこの舟運に向いており、河口にあたる酒田、中流域の新庄、山形、さらに上流の米沢と米や産品などの輸送に最上川が使われた。舟運を通じて遠く上方、そして江戸へ物資の輸送を行った。左沢はその中流域にあった重要な拠点で、当時は舟運で栄えた町だった。

 

ところが1903(明治36)年に奥羽本線が新庄駅まで開通、さらに1914(大正3)年に陸羽西線が開通した。鉄道網の整備で舟運は急速に下火になっていく。とはいえ、当時はまだ繁栄の余韻を残していた左沢を目指す路線が計画されたのだった。

 

最上川沿いにはそうした町が複数あり、左沢駅まで線路が敷かれた後に、次は最上川沿いを荒砥(あらと)まで延ばす計画があった。しかし、この計画は実を結ぶことなかった。ちなみに米沢側の赤湯駅から荒砥駅までは現在、山形鉄道(旧国鉄長井線)が走っている。

 

 

【左沢線の秘密②】両運転台付き気動車が6両編成で走る“偉観”

左沢線の起点は北山形駅となっているが、列車はすべて山形駅から発車する。よって同原稿でも山形駅から旅を始めることにしよう。

 

山形駅7時3分発の“始発列車”に乗り込もうと6番線ホームで列車を待った。するとホームに寒河江駅発の上り列車が4両で滑り込んできた。6番線ホームは行き止まり式ホームで、線路止め近くに先頭車が到着する。

 

↑山形駅の西側に在来線の左沢線と仙山線のホームがある。気動車が使われる左沢線のホーム(左)が6番線、電化された仙山線のホームは外側の7番線ホームとなっている。駅の留置線には左沢線の車両が止まり、増結しやすい駅の構造になっている

 

ホームに到着した4両に加えて、さらに前に2両が増結された。なんと6両と、ローカル線の列車編成としては、長い編成になった。

 

左沢線の気動車キハ101系は、1両でも運転可能な前後両方に運転台あるスタイル。そうした車両が最大6両も連結され走る姿は、まさに“偉観”と言ってよいかも知れない。

 

こうした長い編成で走る姿は左沢線のいわば名物となっていて、沿線でカメラを構える姿が良く見かけられる。さて6両編成で発車した列車は、どこまでどのように走るのだろう?

 

↑6両編成のうち、前の2両は左沢駅行きとなって走る。後ろの4両は寒河江駅行きと側面に表示されている

【左沢線の秘密③】城の東大手門のすぐ前を列車が走り抜ける謎

山形駅を発車してまもなく左手に城跡が見えてくる。旧山形城趾で、現在は霞城公園として整備される一角だ。

 

山形城の歴史は古い。築城は14世紀半ばのこと。足利氏の支流だった最上氏によって造られ、江戸時代の初期までは最上氏が治めた。その後、鳥居氏、保科氏と藩主は短期間で代わっていき幕末を迎えている。

 

↑1991年に復元された二の丸東大手門の目の前を線路が通り抜けている。これほどまで城の間近を走る鉄道路線というのも非常に珍しい

 

それにしても城の目の前を線路が通っている。ここまで近くを線路が走るという風景は珍しい。敷設時に史跡を壊すという怖れがなかったのだろうか。

 

最盛期の山形城は東西に1.6km、南北に2kmという広大な三の丸を持ち、外堀に囲まれていた。城の規模は国内で5番目、東北では最大を誇ったとされる。

 

規模を誇った山形城だったが、幕末当時の藩主・水野氏が新政府軍に抵抗したこともあり、城は荒れ果てた状態になった。その後、明治期には陸軍の駐屯地として使われていた。

 

山形駅は1901(明治34)年の開業で、山形城の三の丸の中に造られた。その年に、奥羽本線(左沢線)の線路が現在の位置に敷かれた。1986(昭和61)年にようやく国の史跡に指定され、さらに1991(平成3)年に二の丸東大手門が復元されるなど整備が進められた。

 

要は史跡を守る意識が高まる前に、すでに駅ができ鉄道が通されていたのである。当時は史跡を守るという意識は薄かったのだろう。ましてや山形藩は、新政府にタテをついた“賊軍”でもあったのだから。そうした歴史的な背景が、これほどまで城に近いところを列車が走るという、奇異な光景を造り出した要因なのかも知れない。

 

 

【左沢線の秘密④】ちょっと不思議な北山形駅までの複線区間

山形駅と北山形駅の区間、ちょっとおもしろい線路の使われ方に接することができる。この区間は複線なのに列車は左側通行をしていない。具体的には城側の線路が仙山線と左沢線の上り下り列車用、市街側の線路は山形線の新幹線つばさと在来線列車の上り下りが走る。

 

なぜだろう? この区間は複線でもそれぞれ線路幅が異なる。城側の線路は1067mm幅、市街側の線路は1435mmの標準軌幅となっている。よってその線路幅を走れる列車しか行き来できない。

 

ちなみに秋田新幹線の線路では、三線軌条といって、3本のレールを敷き、新幹線と在来線(狭軌用)が共用できる区間を造ったが、山形駅〜北山形駅間では、このような3本レールは敷かれる区間を設けなかった。そのために複線区間なのにこのような運用方法となったのだ。

 

↑霞城公園の二の丸大手門前を走る山形新幹線つばさ。市街側の線路は標準軌幅で新幹線の車両と奥羽本線(山形線)の標準軌用普通列車が走る

 

↑城側の線路は在来線用。左沢線の列車と、山形と仙台を結ぶ仙山線の列車が走る。こうした標準軌と狭軌の線路が並ぶ複線区間は珍しい。奥羽本線をさらに北へ行くと、秋田新幹線が走る区間でもこうした複線区間を見ることができる(一部、三線軌条となる)

 

在来線の線路と新幹線が走る標準軌幅の線路が並んで敷かれる複線区間は、山形駅のお隣、北山形駅まで続く。北山形駅手前で、左沢線は左へカーブ。まっすぐ延びる線路上には奥羽本線(山形線)と仙山線のホームがある。左沢線のホームはカーブの途中に位置する。

 

北山形駅は乗換駅となっていて、利用客も多い。

 

【左沢線の秘密⑤】田んぼの中におしゃれな駅を発見。さて屋根が

左沢駅の起点となる北山形駅を発車した列車はしばらく山形の市街を左右に見て進む。次の東金井駅(ひがしかないえき)付近から、田畑が多くなってくる。

 

山形市西部を流れる須川(すかわ)を渡ると、路線は北へ向きを変える。そして羽前山辺駅へ到着する。地元は山辺町(やまのべまち)なのだが、駅は不思議に「やまべ」と読ませる。

 

羽前山辺駅を発車すると列車の左右の視界が開け、周囲に田園風景が広がる。

 

↑羽前山辺駅〜羽前金沢駅間を走る列車。夕方に走る列車は写真のように4両編成で行き来する。視界がひらけるこのあたりでは盆地らしく四方に山々がのぞみながら列車は走る

 

次の駅は羽前金沢駅(うぜんかねざわえき)。この駅は四方すべてが田んぼで、駅近くに民家はない。駅に降り立つとわかるが、西側に少し離れて集落がある。その集落の名が金沢。この集落の名が駅名の元となっている。

 

さてこの駅。無人駅で小さいもののおしゃれだ。駅舎の天井に丸い赤い屋根が2枚付けられている。この形は何を意味するのだろう。

 

↑2003年に建て替えられたという羽前金沢駅。駅舎には2枚の屋根が付く。鳥の翼をイメージしたものだとされる。「四季ごとに変化する周囲の風景にアクセントを添えるものになっています」と地元・中山町の広報誌にはあった。駅の後ろに月山が見える

 

↑ホーム一つの羽前金沢駅に山形駅行きの上り列車が到着した。隣の両駅までの間は左右にほぼ田園風景が続く。のどかな風景に心が洗われるようだった

 

地元・中山町の町内誌「広報なかやま」を見せていただいた。

 

広報誌によると、2003年に建て替えられた駅舎で、ホームに入る入口にはスロープ、手すりが設けられバリアフリー設計となっている。駅舎のデザインは「大空に羽ばたけ」がテーマなのだそう。屋根は鳥の翼をイメージして付けられていた。まるで田園風景のなかから、鳥が飛翔するかのように。

 

設計者は、若い人たちにこの駅から広い空へ向けて鳥のように羽ばたいて欲しいという思いがあったのだろう。田園の真ん中の駅が、素晴らしい思いとともに造られていた。このような駅に巡りあえてすがすがしい気持ちになった。

 

ちなみに中山町は山形名物、芋煮会発祥の地だそうだ。次にはぜひ芋煮会が楽しめる秋に訪れたいものだ。

 

↑羽前金沢駅〜羽前長崎駅間は、左沢線の中でも人気の撮影スポットが点在する。特に柳沢道踏切付近は、朝夕の長い編成の列車を撮ろうと鉄道ファンがよく訪れる

 

 

【左沢線の秘密⑥】春の沿線に多く見かける白い花木は何だろう?

羽前長崎駅を過ぎると大きな川を渡る。この川が最上川だ。地図を見るとわかるように最上川は、山形盆地を“にょろにょろ”とカーブを描きつつ流れている。

 

奥の細道紀行で俳人の松尾芭蕉は、「五月雨を集めて早し最上川」とうたった。この句どおりに、最上川は特徴のある川の流れを見せる。一般的に平野部を流れる川の多くは、広大な河原が自然とできあがるケースが多い。ところが、最上川は四季を通じて水量が豊富で、河原がほとんど形成されずに県内を流れていく。

 

↑芭蕉の句のように五月雨を集めて流れる最上川。左沢線が渡るあたりでは、河原がほぼなく、水量豊富な川の流れだけ続く様子が眺められる

 

そんな迫力ある最上川を渡ると列車はいよいよ寒河江市へ入る。

 

寒河江市の中心駅でもある寒河江駅(さがええき)付近では、5月上旬、白い花をつけた花木が多く見かける。ほとんどの木が周囲を覆うことができるように柱で取り囲まれ、とても大切に扱われていることがわかる。

 

賢明な読者の方はもうおわかりだろう。白い花を咲かせていたのは「さくらんぼ」だ。さくらんぼが実るのは品種により異なるが、6月上旬から7月上旬まで。寒河江市には300か所もの観光さくらんぼ園があり、早い所では5月下旬からさくらんぼ狩りが可能となる。

 

実るシーズンともなれば、きっと見事な風景になるのだろう。ちなみに寒河江駅の駅名標はさくらんぼの形をしていた。さくらんぼにかける思いが伝わってくるようだった。

 

↑枝をおおうように白い花が咲くさくらんぼの木。寒河江市では全国的なブランドとなっている佐藤錦、また地元で生まれた紅秀峰(べにしゅうほう)といった品種の栽培が盛んだ。実る時期は微妙に異なるが、さくらんぼ狩りが楽しめるのは7月上旬まで

 

ところで、6両で走ってきた朝7時3分山形駅発の列車。寒河江駅2番線に到着すると前の2両がそのまま左沢駅行きに。後ろ4両が山形駅として折り返した。

 

駅ホームでは大掛かりな切り離し作業はなく、そのままの位置で、前の2両と後ろの4両が分かれて走り出した。利用者も慣れている様子で、乗り間違いもほぼない様子だった。寒河江周辺からは山形市内への通勤・通学客が多く、山形行きへの朝の列車は、どの列車もかなりの混雑度となっていた。

【左沢線の秘密⑦】大きくカーブを描く羽前高松駅の不思議

寒河江駅を発車、北へ向かう左沢線の列車。西寒河江駅を過ぎ、羽前高松駅が近づくと大きく左にカーブする。羽前高松駅は大きくカーブしたところに設けられている。

 

地図を見ると分かるのだが、なぜ左沢線は寒河江駅から直接に左沢駅へ向かうルートを通らず、羽前高松駅付近をわざわざ迂回するようなルートになっているのだろう。

 

寒河江市の北側、旧高松村地区は街道筋としては重要なポイントとなっている。国道112号と国道287号が駅の近くで交差している。中でも国道112号は県内の村山地方と庄内地方を結ぶ重要なルート。古くは六十里越街道(ろくじゅうりごえかいどう)と呼ばれ、月山への入り口となっていた。

 

羽前高松駅からは左沢線が開業した4年後には1926(大正15)年には、羽前高松駅から三山(さんざん)電気鉄道という私鉄が敷かれた。その後に山形交通三山線となり、おもに月山への登山客が利用した。1974(昭和49年)に廃止となっているが、半世紀にわたり月山への乗換駅として賑わったのである。

 

羽前高松駅に残る大きなカーブは、月山方面へ縁が深かった証しでもある。

 

 

【左沢線の秘密⑧】非常に複雑な飛び地が連なる柴橋駅付近

↑左沢の下流に最上川の中洲(中河原)がある(写真中央)。この中洲の大半が大江町。最上川の右岸の大半は寒河江市。さらに左岸は寒河江市の中の一部が大江町の飛び地と複雑な区分けになっている

 

まずは上の地図を見ていただこう。羽前高松駅の次の駅、柴橋駅(しばはしえき)付近を地図にしたものだ。

 

駅は寒河江市内にあるのだが、駅前の道を渡ると一部が大江町になる。さらに国道287号付近は寒河江市となる。最上川の左岸はこのように寒河江市と大江町が複雑に入り組んでいる。筆者は地図を見る、そして作るのが好きで、同シリーズの地図はみな自分で作っている。そんな地図作りの最中に気付いたのだが、柴橋駅付近には大江町の飛び地が多い。なぜなのだろう?

 

飛地の起源は鎌倉時代にさかのぼるのだそうだ。大江町、寒河江市は当時、寒河江荘という荘園が広がっていた。そうした荘園一帯を大江氏が支配するようになる。一族が柴橋やその周辺を開発。後にそこにあった寺院や住民が左沢など他の土地に移った。移った元の土地が飛び地として残ったとされる。

 

また14世紀後半に高松堰(寒河江川から取水)の開削が始まった。堰を開削するにあたり、左沢の住民が資金面で協力したので、左沢の住民所有の土地ができた。それが飛び地となったという説もある。

 

つまり柴橋駅近くの飛び地には600年以上にわたる長い歴史が隠されていたのである。

 

平成期に入った以降も同地では、飛び地解消の話し合いは持たれているとも伝わる。とはいえ地方税の収入の増減に結びつく問題だけに、なかなか飛び地解消とはいかないようだ。

 

 

【左沢線の秘密⑨】景色が楽しめるバルコニー付きの最上橋

柴橋駅を過ぎると、路線ではじめてのトンネルを2本抜ける。トンネルを抜けると、左手に最上川が流れる風景が楽しめる。山形駅から約50分、列車は終点の左沢駅に到着した。

 

↑最上川を眼下に眺めつつ終点、左沢駅に近づく下り列車。列車の後ろには楯山公園がそびえる。同楯山公園にはかつて、この地を治めた大江氏が築城した山城があった。地元、大江町はこの大江氏の名が元になっている

 

駅前にはドラッグストアがあるものの、やや寂しい印象。舟運で栄えた町ではあるものの、やはり交通機関が大きく変ったそんな時代の変化を感じさせる。駅から最上川へは400mほどなので、足を向けてみる。すると昭和初期のモダンな趣を残した「最上橋」が架かっていた。この橋、デザインがちょっとおもしろい。

 

↑左沢線の終点、左沢駅。駅入口に隣接して大江町交流ステーションが設けられている。駅名標の横には「ようこそ大江」というイラスト案内が。左沢という名の印象が強いせいか、地元が大江町ということを知らせているようだった(右上写真)

 

↑最上川に架かる「最上橋」。1940(昭和15)年にかけられた橋だが、橋上から景色が楽しめるようにバルコニーを数箇所設けるなど凝った造りになっている。土木学会の「選奨土木遺産」に指定され、橋にその記念プレートが付けられている(写真右下)

 

駅から徒歩5分で到着する最上橋。橋の上から景色が楽しめるようにとバルコニーが設けられている。昭和の初期に造られたモダンな橋だ。この橋は大江町の景観重要建造物として指定を受け、さらに土木学会からは貴重な建造物であるとして「選奨土木遺産」に選ばれている。

 

今でこそ静かな左沢の街だが、舟運が盛んだったころはそれこそ、富みが集まり、また財力がこうした建造物にも、活かされたのだろう。

【左沢線の秘密⑩】最後に左沢の地名の由来をひも解く

たどってきた左沢線の旅。最後に、どうして左の沢と書いて「あてらざわ」と読ませるのか。このあたりの謎をひも解いてみよう。

 

↑最上川は大江町の左沢付近で大きく右にカーブ、寒河江方面へ流れていく。中央に写るのが左沢地区。このあたりには江戸時代まで米沢舟屋敷跡があり、米沢藩から出荷された品物は、最上川沿いに設けられたこの屋敷を介して酒田へ、そして上方へ運ばれた

 

↑米沢舟屋敷跡の前に残る「桜町渡船場」と案内用の石碑(右下写真)。米沢藩は36艘の船を所有、最上川の舟運が盛んなころは、この船着き場に舟が絶えず出入りした。他領の舟も行き来したと予測され、往時の最上川はきっと壮観だったに違いない

 

諸説あるが、代表的なのが「あちらの沢」が「あてらざわ」となった説。なぜ「こちらの沢」が右側で、「あちらの沢」が左側になったのかは疑問が残るが、あちらは左だったので「左沢」としたという。

 

さらに大江町を治めた領主・大江氏が山に登った時に、左に見えた山谷を「あちの沢」と称し、それが「左沢」の語源になったという説も残る。また、東北地方の地名の語源として多いアイヌ語を元にするという説も残る。

 

要は古くから地名と使われてきただけに、「絶対にこれ」という説はないようだった。

 

地名の由来についてはさらに謎が深まってしまったが、次回は、もっとゆっくりと巡ってみたいと感じさせる左沢線の旅だった。

 

↑左沢線では6月15日・16日、22日・23日の4日間、「さくらんぼ風っこ号」が山形駅〜寒河江駅間を走る予定だ。人気のトロッコ形観光列車「びゅうコースター風っこ」(写真)が使われる予定だ

 

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