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2019/6/15 17:00

招き猫電車が復活!都内を走る珍しい路面電車「東急世田谷線」10の謎

おもしろローカル線の旅43 〜〜東急世田谷線(東京都)〜〜

東京都内には2本の路面電車の路線が残っている。1本は都電荒川線で、もう1本が東急電鉄が運行する東急世田谷線(以下「世田谷線」と略)だ。

 

世田谷線は世田谷区内のみを走るわずか5kmの路線だが、訪れて楽しい名所が多く点在する。人気の招き猫電車も復活。さらに魅力が高まった。そんな世田谷線を乗って歩いて、浮かびあった謎解きの旅を楽しんでみよう。

 

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↑世田谷線を走る車両はすべてが300系。10編成が走り、みな車体カラーが異なる(詳細後述)。写真は305編成で色はチェリーレッド。このような華やかなカラーが世田谷の街を彩っているように感じる

 

【世田谷線の謎①】なぜ路面電車の路線がここに残ったのだろう?

まずは路線の概要を見ておこう。

路線と距離東急電鉄世田谷線/三軒茶屋駅〜下高井戸駅5.0km
開業1925(大正14)年1月18日、玉川電気鉄道が三軒茶屋駅〜世田谷駅間を開業、同年の5月1日に下高井戸駅まで延伸
駅数10駅(起終点を含む)

 

東急電鉄の世田谷線。その前歴を知る人も少なくなっているのではないだろうか。なぜ、5kmのみの路面電車の路線が残ったのだろう。まずは世田谷線の歴史をひも解いてみよう。

 

世田谷線を敷設した会社は玉川電気鉄道という会社だった。同社は1903(明治36)年の創設、1907(明治40)年に渋谷〜玉川間の路線を開業させている。

 

下記は往時の玉川電気鉄道(玉川電車)の路線図だ。都内は天現寺橋や中目黒まで、郊外は溝ノ口、砧、そして下高井戸まで路線が延びていた。

 

↑玉川電気鉄道の昭和10年ごろに発行の沿線案内。世田谷線を見ると当時の駅は12と今よりも多かったことが分かる。戦時色が徐々に強まっていった時代背景もあり、沿線には学校とともに軍関係の施設が多かった(筆者所蔵)

 

玉川電気鉄道は、図にもある玉川電車という名も名乗ったが、「玉電(たまでん)」という愛称の方がより親しまれていた。

 

玉電は多摩川の砂利採取のために造られた路線だった。その砂利採取が1934(昭和9)年に禁止となる。その後に、経営権が現在の東急グループを創始した五島慶太氏の手に移る。1938(昭和13)年に合併、1942(昭和17)年には東京急行電鉄と会社名が変更され、東京急行電鉄の玉川線となった。玉川線だったころには渋谷駅と下高井戸駅間に直通電車も走っていた。

 

玉電の路線は道路上に設けられた併設軌道の区間がほとんどだった。昭和30年台以降、日本は高度成長期を迎える。車が浸透していき、幹線道路はどこも大渋滞していくようになる。となると邪魔者扱いとなったのが路面電車。各地の路面電車が次々に消えていった。

 

↑廃止間近の東急玉川線の大橋電停で。現在の田園都市線の池尻大橋駅よりも渋谷側に電停が設けられていた。当時の車両は入口の階段が結構、急だったことが見て取れる。車体に書かれたT.K.K.(東京急行電鉄)の文字も今となっては懐かしい。写真:星川功一(下記も)

 

↑目黒区大橋にあった玉電大橋車庫には廃車予定の車両が集められていた。中央は流線型高性能電車として一世を風びしたデハ200形。「ペコちゃん」という愛称で親しまれた。現在は東急田園都市線の宮崎台駅にある「電車とバスの博物館」で1編成が保存されている

 

東京も例外ではなく、都電はその多くの路線が消えていった。玉電も主要区間である渋谷〜玉川(廃線当時は二子玉川園)区間は国道246号という、都心と神奈川県下を結ぶ幹線道路の上を走っていた。首都高速道路の建設計画もあり1969(昭和44)年5月11日に、現在の世田谷線の区間を除き廃止となった。

 

ちなみに玉電の渋谷駅〜二子玉川駅が廃止された後の1977(昭和52)年に地下化した新路線が誕生している。そして同区間は新玉川線と呼ばれている。

 

話は戻るが、なぜ世田谷線のみ元玉電が残ったのだろう。この路線は、ほぼ全線が道路上を走らない専用軌道で造られていた。車の通行の妨げないことが、世田谷線の延命という結果に結びついたわけである。

 

【世田谷線の謎②】路面電車と普通の電車はどこが違うのだろう?

世田谷線は専用軌道、つまり電車専用の線路を走っている。なのに路面電車タイプの車両が走る軌道線となっている。普通の鉄道とどこが違うのだろう。その長所、短所はどこに?

 

路面電車は道路の上に敷かれた軌道を使って走る電車のことを指す。普通の鉄道とは法律も異なっている。路面電車は軌道法という法律に従っている。普通の鉄道は鉄道事業法という法律に従っている。

 

普通の鉄道用の線路を道路上に敷設することはできない。一方、路面電車ならば道路上に敷設した軌道を走ることができる。車とともに走る路面電車は、あくまで道路交通の補助的な役割と位置づけられている。

 

↑世田谷線を走る300系の全編成を並べてみた。301編成はかつての玉電カラーを復活させたもの。ほか編成もまるで色見本を見るかのように色分けされている。ちなみに308編成は現在、招き猫電車にラッピングされ活躍中だ

 

世田谷線は玉電の歴史を受け継いでいる。専用の線路を走るにもかかわらず、普通の鉄道路線とならずに路面電車の形態を今も保ち続けている。

 

だが、この路面電車のスタイルが今となっては、長所となっているように思える。例えば駅の形。世田谷線は全駅にスロープが付く。もともと、世田谷線のホームは路面電車用に造られたために、ホームの高さが普通の駅のホームに比べて低い。そのため緩やかな傾斜のスロープを設けやすい。さらに床が低い低床車が導入されている。ホームの高さイコール、電車の乗降口の高さとなっている。

 

実際に世田谷線に乗ってみても、高齢者や車椅子を利用される方々をよく見かける。健常者の人たちにしても、長い階段を上り下りする必要がない。もちろんエスカレーター、エレベーターの設置も必要がない。実に体に、そして環境に優しいシステムとなっているのだ。

↑宮の坂駅の上り線の入口。駅横の道路からすぐにスロープが延びていてホームへ入ることができる。下り線にも同じようにスロープが設けられている

 

一方で、軌道法という法律に従っているため、車との併存が可能なように、最高時速を抑えている。世田谷線の最高時速は40kmだ。普通の通勤電車が時速90〜100kmといったスピードで走ることを考えれば、かなり遅い。

 

とはいえ、駅間が短く、そして路線の長さが短い世田谷線にはちょうどよいスピードということも言うことができるだろう。

 

世界各地でも今、路面電車は安全安心、そして環境にやさしい乗り物「ライトレール」として見直されてきている。言い換えれば、世田谷線は人の暮らしにあった安全なスピードであり、スローライフという生き方にぴったりな乗り物なのかも知れない。

 

 

【世田谷線の謎③】人気! 招き猫電車のbefore & after

世田谷線の人気電車「招き猫電車」が5月に復活した。招き猫電車とは、招き猫のイラストが描かれたラッピングをまとった電車のこと。308編成はこうした招き猫ラッピングが施されている。

 

この招き猫電車、 “初代”は2017年9月に玉電開通110周年を記念してデビューした。そして2018年3月までラッピングされて走った。

 

さらに1年を経て、“二代目”招き猫ラッピング車両が走り始めた。世田谷線となり50周年を記念する企画でラッピングされたという。見た目、かわいらしい電車の再登場。世田谷線の人気盛り上げに一役買いそうだ。

 

さて招き猫電電車。初代と二代目ではどこが変わったのだろう。

 

下の写真を見ていただこう。招き猫電車のビフォーアフターを比べてみた。こうして見ると一目瞭然。正面の窓の上に耳が付けられた。東急電鉄によると「“猫感”を強くパワーアップ」しているとのこと。

 

猫感アップとはおもしろい! 確かに新しい招き猫電車は猫らしさがアップしているように見える。

 

↑左が2018年3月まで走った招き猫電車の初代。右が5月に登場した二代目の招き猫電車。正面の窓の上に「耳」が付けられたことがわかる。車内には招き猫をかたどったつり革、車内の床には猫の足あとシールが付く

 

運転終了の時期は未定。前代に引き続き人気電車となっているので、しばらくの間は世田谷線の看板電車として活躍しそうだ。ところで、なぜ世田谷線に招き猫電車が走るのだろうか。理由は、招き猫が世田谷線と縁が深いため。

 

宮の坂駅から徒歩2分ほどの豪徳寺(ごうとくじ)。この寺は徳川家康の家臣であり、江戸時代に彦根藩の藩主をつとめた井伊家の菩提寺でもある。

 

招き猫の逸話は次のようなもの。彦根藩の2代目藩主だった井伊直孝が、鷹狩りに出た時のこと。小さなお寺の前を通るとそこに手招きしている猫がいた。住職の愛猫「たま」だった。この猫の手招きで寺に入ったところ、激しい雷雨に。雨やどりしている最中に寺の和尚と昵懇になった。その後に寺は井伊家の菩提寺となり、その名も豪徳寺となった。猫の手招きが寺の隆盛にもつながったわけである。その後に「福を招き、縁起がいい」と境内に招福殿が建てられ、招猫観音がまつられた。こうした話が招き猫の起源になったという(諸説あり)。

 

猫の名が「たま」とは。玉電の名といい「たま」に縁が深い土地のようだ。それこそ“たまたま”のことなのだろうか。

 

↑豪徳寺境内にある招福殿の隣に招き猫が多く置かれる。願いがかなったら、ここに招き猫を戻すと、さらにご利益がある、ということで多くの招き猫が並ぶことに。福をもらった上に、さらに福を得たいとは、人間は欲が深いにゃ〜ぁと、猫たちに言われそうだ

【世田谷線の謎④】環七通りのみで見られる路面電車の面影

前置きがだいぶ長くなった。起点となる三軒茶屋駅から世田谷線の旅を始めよう。三軒茶屋の駅は、東急田園調布線の三軒茶屋駅から、地下通路を歩くこと3〜4分。アーケードふうの建物の中に世田谷線のホームがある。

 

↑世田谷線の三軒茶屋駅。ここで行き止まりとなる頭端式のホームで、写真左が降車用、右に乗車用ホームがある。かつてこの先、三軒茶屋交差点の手前に駅があったが、駅ビルとなるキャロットタワーの建設時に、現在の場所に移転、新築された

 

交通系ICカードを改札機にかざしてホームへ入る。料金は一律150円(ICカード利用時は144円)と安い。この手ごろさも世田谷線の魅力と言っていいだろう。それこそ下駄履き感覚で乗れる世田谷区内電車といっていい。

 

ちなみに途中駅のほとんどが、ホームに自動改札機を設けておらず、電車の乗車時に、車内備え付けの運賃箱に運賃を入れるか、ICカードを車内の簡易改札機にかざして乗車するシステムとなっている。

 

三軒茶屋駅を発車すると、電車は西に向けて走る。車両は2両編成。2両の連結器部分に台車をはく、連接車といわれる車両で、床が低いせいもあるのか、乗り心地はよく、ほとんど揺れを感じない。線路幅が1372mmと広いせいもあるのかも知れない。

 

車内は進行方向に向いた一人掛け用の座席が車内の左右一列に並ぶ。通路が非常に広く、立っていても余裕が感じられる。

 

↑同踏切の名は若林踏切。世田谷線の招き猫電車が環七通りをわたる。通りの信号と世田谷線の信号機が連動、通り側が赤信号となると世田谷線の電車がそれに合わせて発車、環七を通り抜ける

 

三軒茶屋駅を発車してわずか、次の西太子堂駅(にしたいしどうえき)に到着する。駅間はわずか300m。このように駅間は路面電車らしく短めだ。

 

次が600m離れた若林駅だ。この若林駅、すぐ目の前を環七通りが通っている。ここの若林踏切がある。環七通りは都内でも有数の幹線道路だ。世田谷線の電車は若林駅に到着する前、一時停車することがある。環七通り側の信号が青の場合、世田谷線の側が赤となって一時停車が必要になる。

 

普通の鉄道では見ることができない光景だ。世田谷線でも沿線にある踏切はすべて電車が優先となっている。若林踏切は世田谷線が路面電車であることを示す唯一の場所と言って良いだろう。

 

【世田谷線の謎⑤】幕末の宿敵が至近距離に集う歴史のおもしろさ

若林駅の次は松陰神社前駅となる。さて松陰神社、ご存知のように幕末に活躍した長州藩の吉田松陰が祀られる神社だ。

 

吉田松陰の人となりを念のため軽く触れておこう。長州藩に生まれた吉田松陰。松下村塾で、多くの若者たちの教育にたずさわる。日米修好通商条約が結ばれたことに異を唱えた。その後の活動や、他藩の志士たちとの交流などが問題となり、安政の大獄で罪に問われ、捕らわれの身に。江戸、伝馬町の牢屋敷で死刑となった。享年30の若さだった。

 

亡くなった後に、薩長両藩による倒幕運動が勢いづき、明治維新へ結びついていく。維新後の1882(明治15)年に元長州藩別邸があった地に創建されたのが松陰神社だった。

 

↑世田谷線の松陰神社前駅から徒歩2分ほどの距離にある松陰神社。吉田松陰が刑死したのちに、松陰の門人らにより墓がこの地に改葬され、その墓の側に松陰を祀る松陰神社が創建された

 

さて安政の大獄を指揮したのが時の江戸幕府の大老、井伊直弼だった。彦根藩第15代藩主である。日米修好通商条約の調印を、勅許を得ずに行ったと国内から多くの反発の声があがる。そうした声に対して強権を持って弾圧したのが安政の大獄だった。

 

その後に、井伊直弼は桜田門外の変により暗殺された。井伊直弼は彦根藩の菩提寺、豪徳寺に埋葬される。松陰が祀られる松陰神社と、井伊直弼が葬られる豪徳寺は非常に近い。何と直線距離で700mほどしか離れていない。

 

↑豪徳寺の境内にある彦根藩井伊家墓所には招き猫の逸話が残る2代目・井伊直孝から15代の井伊直弼に至るまでの藩主と正室らの墓がある。同墓所は国指定史跡にもなっている

 

吉田松陰は長州藩のその後の人づくり、そして維新につながるきっかけを作った思想家。一方は、開国に向けて通商条約と結んだ政治家。立場こそ違えども国の行く末を案じ、動いた偉人といって良いだろう。

 

後世の歴史では、井伊直弼が悪役として描かれやすいが、藩主としては名君だったとされ、問題視された勅許に関しても、勅許を得た上で、修好条約を結ぶべきだ、と最後まで言い続けたとされる。

 

いわば敵(かたき)の関係だったのだが、それこそ呉越同舟。こうして歴史を動かした2人に関係の深い寺社が、ごく近くにあることがおもしろい。

 

↑世田谷線の路線名にもなっている世田谷駅。駅の近くに世田谷区役所本庁舎がある。同駅では、上り下り列車がほぼ同じ時刻に着発を行う。こうした駅に並ぶ2列車が駅の外から気軽に撮影できるのもこの駅ならでは

【世田谷線の謎⑥】なぜ上町駅で路線が大きくカーブするのか?

起点の三軒茶屋駅から松陰神社前駅、そして世田谷駅とほぼ西に路線は延びている。線路は、三軒茶屋で国道246号から分岐した世田谷通りに沿って走る。

 

西へ走った世田谷線の線路が、上町駅(かみまちえき)を境にして北へ向けて線路がほぼ90度の角度に曲がっている。なぜ上町駅で路線は北へ大きくカーブをしているのだろう?

 

↑上町駅の下り線用のホーム。世田谷駅からほぼ直線路を走ってきた電車は、駅の手前から急なカーブを描きホームへ到着する

 

↑上町駅の上りホーム。下りホームとは場所が異なり世田谷3号踏切をはさんで逆側にホームが設けられる。こちらの上り線も急カーブの途中にホームがある。この上町駅には車両基地もあり、上りホームから基地内に停車する電車を見ることができる

 

このカーブは、世田谷線が出来た当時の環境が大きく関わっていた。大正末期、世田谷付近はまだ片田舎だった。1923(大正12)年に起こった関東大震災の後に、ようやく郊外に移り住む人たちが出てきた、そんな時代だった。

 

世田谷通り沿いには古くから住民が住んでいたものの、それも世田谷代官屋敷があった上町駅付近まで。その先は荒野が広がっていたと想像される。

 

そのため、玉川電気鉄道では上町駅からは北に3kmほどの距離にある下高井戸駅まで路線を延ばそうとしたのだった。下高井戸には五街道の一つ、甲州街道の宿場町、高井戸宿があった。1913(大正2)年4月には京王電気軌道(開業当時は軌道、すなわち路面電車だった)の下高井戸駅が開業していた。京王電気軌道とは線路幅が同じで、乗り入れも可能という思惑もあったのかもしれない。

 

いわば、未開発の世田谷の奥を目指すよりも、すでに繁華だった土地を終点にしようと、上町駅で大きくカーブする路線が造られたのだった。

 

 

【世田谷線の謎⑦】なぜ世田谷で「ボロ市」が開かれるのか?

世田谷線沿線が一年で最も賑わうのがボロ市の時だろう。臨時列車まで運行されるほどだ。

 

上町駅の南側、世田谷通りの一本裏手の通り、通称、ボロ市通りを会場にして例年12月15・16日と、翌年の1月15・16日に開かれる。世田谷代官屋敷が面している通りだ。約500mの通りに骨董、古本などのほか、古着、玩具、生活雑貨、そして神棚まで商う露天がずらりと並ぶ。

 

訪れる人は1日に20万人ほどだとされる。平日にもかかわらずだ。ボロ市の歴史は古い。450年近い歴史を持つ。語源は古着を多く商われたことから「ボロ市」になったとされる。だが、なぜ世田谷だったのだろう。

 

↑世田谷代官屋敷(写真右手)を中心に東西500nの通りを会場に開かれる世田谷ボロ市。開催日には世田谷線も臨時列車が運行され、非常な賑わいをみせる

 

世田谷ボロ市の始まりには、小田原を拠点とした北条家(後北条家)が大きく関わっていた。16世紀後期、北条家3代目の氏政が支配下地域での経済活動を盛んにするために楽市(市場)を開かせた。

 

さらに現在地にした理由は、小田原と江戸を結ぶ街道筋にあった世田谷宿を賑やかにしたいという思いがあったとされる。

 

見て回るだけでなかなか興味深い古物に巡りあうことも多いボロ市。現在は東京都の無形民俗文化財にも指定されている。庶民の歴史が世田谷で脈々と息づいている。

 

 

【世田谷線の謎⑧】宮の坂駅前に停まる緑色の電車は?

大きくカーブする上町駅の次は宮の坂駅。前述した豪徳寺の最寄り駅となる。豪徳寺に隣接して世田谷城趾も公園として整備されている。歴史好きにとっては魅力的なところだ。

 

さて宮の坂駅に深緑色の車両が停められている。さてこの保存車両は何だろう。

 

↑宮の坂駅前に保存される元玉電の車両。表示には江ノ電601号とある。江ノ電に譲渡される前、1970年までは玉川線で活躍していた。ふるさと納税により補修整備費用が集められ、その寄付金を元にして車内外が補修された。2018年8月に再公開されている

 

この車両こそ、かつての玉電、そして世田谷線を知る人にとっては懐しい車両だろう。製造は1939(大正14)年のこと。ちょうど世田谷線が開業する同時期に造られた電車だ。当時は玉川電気鉄道45号という車両だった。

 

当初は木製車だったが、1953(昭和28)年に鋼製化、デハ104号となった。その後の1970(昭和45)年に江ノ島電鉄に譲渡、引退後の1990(平成2)年にこの宮の坂駅前に戻り、現在のカラーとなった。

 

往年の玉電、そして世田谷線の血を引き継ぐのが宮の坂駅前に保存された車両なのである。

 

↑世田谷線の終点、下高井戸駅。両側にホームがあり、左が乗降用、右が降車用となる。京王線のホームと隣りあっているが、乗り換えは階上にある改札口を通らなければならずやや不便。甲州街道は写真の右奥、150mほど北側を通っている

 

上町駅から宮の坂駅、そして小田急小田原線の接続駅、山下駅の順に停まっていく。次の松原駅と、四季それぞれの花木が美しく咲く区間だ。6月の梅雨の時期はあじさいが美しい。こうした花と絡めて世田谷線を撮るのも楽しい。

 

とはいえ、世田谷線を撮影する上で注意しておきたいポイントがある。次には撮影する上でのコツを見ておこう。

 

【世田谷線の謎⑨】速いシャッター速度では表示器が撮れない

下の写真はカメラのシャッター速度を500分の1で撮影した写真だ。あれれ、表示器の文字がきれいに写っていない!

↑世田谷線の電車は行先表示器の文字が結構、目立つ。この写真はシャッター速度を500分の1にして撮影したもの。表示機内の文字に切れた部分ができている。さてきれいに写すコツはあるのだろうか

 

↑125分の1というシャッター速度で撮影したもの。LED表示器の特徴として、シャッター速度を遅めに設定しないと、きれいに写らない。とはいえ走っている車両なので、撮影する時にはちょっとしたコツと慣れが必要になる

 

世田谷線の行先表示器にはLED表示器が使われている。LED表示器全般に共通するのが速いシャッター速度では、きれいに写せないこと。難しいのはこのシャッター速度ならば大丈夫という目安がない。表示器のメーカーや導入時期により、表示する速度がさまざまに違ってくるからだ。

 

平均すると250分の1以下で撮影できるLED表示器が多い。一方で世田谷線のLED表示器は125分の1以下といった、かなり遅めのシャッター速度が必要になる。そのために走っている電車のLED表示器をきれいに撮影することが、かなり難しい。

 

LED表示器まで含めてきれいに撮影したいという場合は、世田谷駅などに停まっている電車が撮影しやすい場所を選んで撮ることをお勧めしたい。

 

もしくはズームレンズを利用した「ズーム流し」を利用すればきれいに撮れる。本サイトでも一度、紹介しているのでぜひともチャレンジしていただきたい。

 

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さて楽しんできた世田谷線の旅。わずか5kmの路線なので、片道ならば18分で終点まで着いてしまう。観光スポットに立寄りしても半日あれば十分だろう。余った時間をどう使おうか、と迷われる方もおられるかと。

 

そんな方にお勧めなのが玉川線の廃線めぐりだ。二子玉川駅を起点にして、玉電の砧線の跡を歩くことができる。

 

 

【世田谷線の謎⑩】二子玉川から砧へ向けて走る線路の跡は?

砧(きぬた)線は二子玉川駅(当初は玉川駅)と砧駅(後の砧本村駅)を走った路線。世田谷線が開業する1年前の1924(大正13)年、多摩川の砂利採取のために路線が設けられた。砂利採取が禁止された後は、旅客専用線となり、1969(昭和44)年、玉電の渋谷〜二子玉川間とともに廃止されている。

 

この砧線の廃線跡のほとんどが車道および遊歩道として整備され、歩くことができる。

 

↑二子玉川駅から1kmほど歩くと写真のような遊歩道になる。名前も「砧線跡地歩行者自転車道」とずばりのネーミングだ。ここまで来る間にも中耕地駅跡の碑(右上)や、電車のイラストと線路を利用したガードレールの組み合わせ(右下)などがあり楽しめる

 

二子玉川駅のやや北側、国道246号と交差する中吉通り(なかよしどおり)が東西に延びる。そのすぐ北側の裏手に細い道が延びている。この細い道こそ砧線が走っていた廃線跡だ。通りの案内標には花みず木通り(砧線跡)とあった。

 

この通りをそのままたどっていくと砧線の痕跡がいくつも見つけることができる。まずは旧中耕地駅。ここには石碑が残っている(上記写真)。その先も廃線あとらしく整備されていておもしろい。

↑砧線が渡った野川にかかる吉澤橋の上には、砧線の元鉄橋だったことを伝える写真付きの解説書と電車のレリーフが橋の途中に付けられている

 

花みず木通り(砧線跡)は途中から自転車道と遊歩道の併用する道となり、左へゆるやかにカーブしていく。都道を渡るとすぐに野川が流れている。そこに吉澤橋が架かる。この橋の上を砧線が走っていた。廃止後には道路橋となり、世田谷区に移管された、と橋の上の案内板にはあった。

 

さらに歩いていくと、住宅街の道で微妙にY字形に分岐した交差点があった。かつて電車が走っていた線路跡だろうか。推測するだけでも楽しい。

 

砧線の終点だったのが砧本村駅(きぬたほんむらえき)。ここには旧駅舎らしき木造の建物が残る。路線が存在したころには、この先、狛江市まで延ばす計画もあったのだとか。二子玉川駅からゆっくり歩いて30分。のんびり散策にはちょうどよい距離だった。

 

帰りは砧本村から出発するバスに乗車する。帰りはバスでラクだなと思ったものの、付近の道路は渋滞しがち。徒歩で30分だった道のりが、バスに乗ったにもかかわらず意外にも20分以上の時間がかかった(通常の所要時間は16分/距離2.5km)。もし今も玉電が走っていたら、10分もかからない道のりだったろうに、「一度、乗ってみたかったな」。そんな思いがふと頭をよぎった。

↑砧線の終点、砧本村駅は現在、二子玉川駅を結ぶバス便の起点となっている。待合所として利用される建物は旧駅舎だとされる。中に掲げられる広告などのレトロ感が際立っていた(左上写真)

 

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