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2019/10/6 18:00

始まりは砂利鉄道だった!今や活況路線「南武線」10の意外すぎる歴史と謎に迫る

おもしろローカル線の旅53 〜〜JR南武線(神奈川県・東京都)〜〜

 

南武線がローカル線なの? と思う方もあろうかと思う。混雑率ワースト10にランクインする超混雑区間があり、利用者も年々、増えつつある。とはいえ数年前まではやや古めの国鉄形電車が走り、日中は1時間に1〜2本という支線の閑散区間が残る。車窓から多摩川が望め、郊外らしい風景も広がる。

 

南武線はさらに歴史がおもしろい。1930年代に出された路線案内が手元に残っていた。見ると郊外路線・観光路線だったころの魅力が手に取るようにわかる。今回は南武線の意外な歴史と謎に迫る旅を楽しみたい。

 

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↑南武線の主力車両はE233系8000番台。2015年に導入された。全列車が6両編成で走る。南武線のラインカラーは黄色。1号車と6号車には、帯に南武線沿線の街の風景や多摩川などのイラストが描かれている(左上写真)

 

 

【南武線の意外①】今でこそ“環状線”として欠かせない路線だが……

最初に南武線の概要を見ておきたい。

路線と距離JR東日本・南武線/川崎駅〜立川駅35.5km、浜川崎支線/尻手駅〜浜川崎駅4.1km、尻手短絡線(貨物線)/尻手駅〜新鶴見信号場〜鶴見駅5.4km
開業1927(昭和2)年3月9日、南武鐵道により川崎駅〜登戸駅間が開業、徐々に延伸。1929(昭和4)年12月11日、川崎駅〜立川駅間が全通
駅数30駅(起終点駅・支線を含む)

 

南武線は、川崎駅を起点にして終点の立川駅まで走る路線と、尻手駅〜浜川崎駅を結ぶ浜川崎支線(旅客案内では「南武支線」)、さらに貨物専用線の尻手駅〜新鶴見信号場〜鶴見駅間を結ぶ尻手短絡線の3本の路線で構成される。

 

↑南武線の府中本町駅〜立川駅間は旅客だけでなく貨物列車も走る。臨海部や、東京貨物ターミナル駅と八王子、そして松本、長野間を結ぶ路線として活かされている

 

 

中でも、川崎駅〜立川駅間を結ぶ南武線のいわば“本線区間”は、川崎の臨海地区と多摩地区を結ぶ唯一の路線として機能する。

 

首都圏の鉄道路線は都心から、放射状に延びる鉄道路線が多い。一方、南武線のように放射状に延びる路線とクロスする“環状線”は少なく貴重だ。南武線は他線との乗換駅も多く、今では首都圏の人と貨物の動きに欠かせない路線となっている。

 

ところが南武線が開業するまで、決して楽な道のりでは無かったと伝わる。当時、新線を予定した地域には寒村風景が広がっていた。さらに恐慌が続いた時代で、路線計画を立てたものの会社は深刻な資金難に陥った。沿って流れる多摩川は水運が盛んで、ほか四輪馬車という交通機関もあり、南武線という鉄道路線をあまり必要としていなかった。

 

 

【南武線の意外②】南武線の起源は「多摩川砂利鉄道」だった

南武線は、1920(大正9)年に多摩川砂利鉄道という会社が川崎町〜稲城間の鉄道敷設免許を取得したことに始まる。

 

社名どおり多摩川の砂利の採取および、輸送を目的として会社が設立された。この多摩川砂利鉄道を名乗った期間は短く、2か月後には会社の名称を南武鐵道と改めている。砂利鉄道という会社名は、さすがに一般受けはしなかったということなのだろう。

 

会社を設立したものの路線の開業まで7年もかかっている。当時の鉄道工事は免許を取得してから短期間で進めることが多く、この7年は異例の長さと言って良い。開業に乗り出した発起人の力が弱かったことも一因だったが、取り巻く経済状況が非常に厳しかったことも延びた理由の一つだった。

↑南武線の宿河原駅からは多摩川沿いにあった「砂利採取場」まで引込線が設けられていた。写真右上にきれいにカーブしつつ伸びる道がかつて多摩川まで線路の敷かれていた線路跡だ

 

まずは会社を創業した1920(大正9)年には第一次大戦後の戦後恐慌が発生した。さらに1922年に銀行恐慌、1923(大正12)年には関東大震災が起り、震災恐慌と呼ばれる状況に陥っていた。

 

さらに南武線沿いを流れる多摩川では水上交通による輸送も盛んだった。水上交通に携わる人たちにとって、鉄道が開業したらそれこそ強力な商売敵が生まれてしまう。少なからず反対の声もあったようだ。

 

↑多摩川は砂利の採集場が多かった。また水上交通も盛んに利用された。登戸駅近くには「登戸の渡し」があった。碑には1952(昭和27)年まで渡しが使われたと記述されていた
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