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2020/5/10 18:50

西武王国を築いた「堤 康次郎」−−時代の変化を巧みに利用した男の生涯

〜〜鉄道痛快列伝その2 西武鉄道創始者・堤 康次郎〜〜

 

東京の北西部に12の路線を持つ西武鉄道。大手私鉄の中で5番目に長い路線距離を持つ。この西武鉄道は堤 康次郎という英傑なくしては生まれなかった。

 

堤 康次郎には「ピストル堤」、「雷帝」、「近江の知能犯」など、いくつかのあだ名が付けられた。強引な手法を揶揄する声があがる一方で、国立の町を造り、駅を造り寄付するなど、篤志家としての一面を見せる。堤 康次郎はどのような人物で、どのように西武鉄道を造り上げていったのか、その人生を追ってみよう。

*絵葉書・路線図、写真は筆者所蔵および撮影

 

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【堤 康次郎の生涯①】農耕に励みつつ育んだ近江商人魂

堤 康次郎は1889(明治22)年3月7日、滋賀県の八木荘村(現・愛荘町/あいしょうちょう)で生まれた。父は農業兼麻仲買人で、祖父、父ともに村の役職を務めていた。暮らしには事欠かない家庭で生まれた。だが、父は康次郎が生まれてわずか4年後に急死してしまう。母は実家に返されてしまったために、祖父、祖母の手で育てられた。

 

地元の尋常高等小学校では成績優秀で、彦根中の入学許可を得た。ところが、祖父が「繁華な彦根へやって、悪い人間になられたら大変だ」と反対したため、農家を継ぐことに。向学心の強い少年だったこともあり独学し、農業の今後のためには肥料が欠かせないと悟った。そしてリン酸肥料の存在を知る。わずか15歳にしてリン酸肥料を生産する会社の社長に面会して、滋賀県内での販売を申し出た。康次郎初の事業となる肥料商だったが、これは大失敗に終わる。

 

↑近江鉄道は堤 康次郎の生誕地、愛荘町を走る。近江鉄道は1943(昭和18)年に康次郎が率いる箱根土地傘下の鉄道会社となった

 

肥料の効果はまだ一般に知られていなかった。売れずに残ったリン酸肥料を自らの畑で利用した。するとそれが土壌の改善につながり、農閑期のレンゲ栽培が成功する。そして同じ土地での二毛作が可能となった。同地方では以降、康次郎の耕作方法を真似て二毛作が一般化していく。

 

さらに耕地を効率的に使えるように区画整理を進めた。10代という若さにもかかわらず村の役職を勤めた。肥料の販売では失敗したものの、農業の世界では早くも才能を見せ始めていたのである。

 

【堤 康次郎の生涯②】多くの失敗を次の商売の糧とした

その後も向学心はやむことなく、祖父の許しを受けて京都の海軍予備学校へ入学した。卒業後に地元の愛荘郡庁の職員となる。そんな時に康次郎をかわいがってくれていた祖父が亡くなった。「失望落胆」した康次郎だったが、意を決し、田畑を処分して上京。早稲田大学の政治経済学部政治学科に入学した。

 

学生時代は柔道部、雄弁会(弁論部)に所属した一方で、後藤毛織という会社の株に投資、得た利益で東京の蛎殻町(かきがらちょう)の三等郵便局局長の権利を購入する。また従業員100人ほどの鉄工所を経営した。こうした多忙の身だったから、学校の授業に出る余裕などない。授業には出なかったが、参考書とノートを使って勉強をした。かなり異才を放った学生だったわけである。

 

卒業後はその後、総理大臣となった大隈重信の後援会メンバーとして働きつつ、政治評論雑誌「新日本」を発行する出版社の社長となった。政治活動に奔走する一方で、鉄工所、海運業、人造真珠、鉱山採掘などの経営に乗り出すが、ほとんどの事業が失敗してしまう。

 

↑堤 康次郎は滋賀県大津市の基盤づくりに貢献したこともあり没後、大津市初の名誉市民の称号を得た。現在、大津市歴史博物館の前に銅像が立つ

 

いろいろな事業に手を出して失敗したことにより次のことを学んだ——競争が激しい事業というのは、多くの会社がすでに乗り出していて、後から事業を始めようとしても難しい。

 

康次郎は多くの失敗から、まだ他の会社が手をつけていない「土地開発」という事業に目を付けた。明治末期から大正にかけて、中産階級という新たな階級の人たちが生まれ始めていた。そうした中産階級を対象にした「土地開発」という新たな産業に、可能性を見いだしたのだった。

 

【堤 康次郎の生涯③】国立の町を造り、新しい駅を寄付した

中産階級向けに別荘地を販売する会社として1920(大正9)年に設立したのが、箱根土地株式会社(後の株式会社コクド)だった。

 

箱根土地は、まず箱根の強羅地区と、軽井沢の千ヶ滝地区の土地開発を始めた。今でこそ両地域は日本を代表する別荘地となっているものの、当時はひなびた土地で、安く広大な土地が入手できた。先を見る目は確かだったと言えよう。

 

箱根土地は東京郊外の開発にも乗り出している。「目白文化村」「大泉学園」「小平学園(後の一橋学園)」といった新しい町造りが行われた。

 

東京都下の「国立(くにたち)」も箱根土地が開発した土地である。中央本線の国分寺と立川の間にあることから国立と名付けられた。

↑1926(大正15)年に開業した国立駅。旧駅舎は2020年4月4日に外観だけでなく内装(右上)も忠実に復元された(現在は休館中)

 

箱根土地は中心となる駅を造った。さらに駅の南側に、3方向に向けて放射状に道路を設け、住宅地を造成した。新駅付近では中央本線の線路のかさ上げ工事を行い、駅舎から地下通路を通ってホームへ行き来できるようにした。当時としては斬新な造りの駅だった。さらに造った駅は当時の鉄道省(後の国鉄)へ寄付された。国立の街は今訪れても道が広く、すっきりと整った街並みに驚かされる。康次郎の先見性を見る思いだ。

 

当時の箱根土地の事業は上手くいったように見えるが、康次郎は自叙伝で土地事業の難しさを漏らしている。

 

一人で持っていると高くならないが、売ってしまうと大勢の人がきて、繁栄し始める。地価も高くなる。高くなった後に、売ろうとしても手持ちの土地がなくなっている。

 

【堤 康次郎の生涯④】鉄道は土地開発の補助事業と割り切っていた

堤康次郎が箱根土地を設立した当初から鉄道事業に興味を持っていたわけではない。どのように鉄道事業に関わっていったのだろうか。箱根土地が傘下に収めていった鉄道会社、設立した鉄道会社の事業を時系列で見ていきたい。

 

◆1923(大正12)年:駿豆鉄道(静岡県)を傘下に

最初に関わりを持ったのは駿豆鉄道(すんずてつどう)だった。現在の伊豆箱根鉄道駿豆線(すんずせん)である。路線は東海道本線の三島駅と修禅寺駅の間を結ぶ。

 

◆1928(昭和3)年:多摩湖鉄道が国分寺駅〜萩山駅間を開業

多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)とは箱根土地の子会社で、箱根土地が関わる初の新設路線だった。また東京の近郊で初めて設けた路線でもあった。

 

◆1933(昭和8)年:大雄山鉄道(神奈川県)を傘下に

大雄山鉄道とは、現在の伊豆箱根鉄道大雄山線のことで小田原駅〜大雄山駅間を走る。この年に箱根土地の経営となり、1941年、駿豆鉄道に吸収合併され伊豆箱根鉄道と改称された。

 

堤康次郎は自叙伝で「土地の開発と関連して重要なのは交通機関である」と述べている。土地の価値を高めるためにも交通機関の整備に気を配った。とはいえ、交通機関とは鉄道だけでなく、道路整備なども含む。例えば箱根の土地の価値を高めるために、箱根周辺の有料道路を整備したが、事業は傘下に収めた駿豆鉄道の名で進めている。

↑駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道駿豆線)は箱根土地が最初に傘下にした鉄道路線だ。左上は駿豆鉄道が整備した有料道路の通行券(昭和初期のもの)

 

鉄道事業への参入はあくまで土地開発の補助的な位置づけだったことが、この時代の康次郎の動きから感じられる。

 

しかし、昭和初期から太平洋戦争の前後に渡って鉄道事業への参入を強めていく。駿豆鉄道を傘下にしたことや、多摩湖鉄道の開業は序章に過ぎなかった。

 

1923(大正12)年9月1日に起った関東大震災の影響も大きかった。震災前までは東京の人たちの住まいといえば東京の中心部、もしくは下町がメインとなっていた。震災後はより安全だと思われる山手へ目が向くようになっていった。康次郎はそうした流れを読み、次々に手を打っていったのである。また郊外での暮らしがモダンといった風潮もそうした動きを後押しした。

 

一方で、関東大震災の後には不況が世の中を襲った。加えて世界恐慌と呼ばれる不況の波にさまざまな業種が巻き込まれていく。既存の鉄道路線も、こうした不況の波にのまれていった。

↑西武多摩湖線は箱根土地の子会社、多摩湖鉄道が開業させた路線。西武鉄道の車両の中では貴重になりつつある3ドアの新101系が走る

 

【堤 康次郎の生涯⑤】武蔵野鉄道を傘下に収めさらに……

昭和初期の東京の北西部には2社の鉄道路線があり、激しい争いを繰り広げていた。

 

池袋駅〜吾野(あがの)駅間に路線を持つ武蔵野鉄道(現・西武池袋線)。一方は国分寺駅〜本川越駅間を結ぶ川越線(現・国分寺線と西武新宿線)と、高田馬場駅〜東村山駅間を結ぶ村山線(現・西武新宿線)の路線を持つ西武鉄道(現在の西武鉄道とは会社組織が異なり、旧・西武鉄道という位置づけ)である。

 

筆者の手元に両社の昭和初期の路線絵葉書と路線図がある。武蔵野鉄道、旧・西武鉄道は所沢駅で、お互いの路線と接続しているのだが、他社の路線は、まるでないかのように線すら記されていない。ライバルとはいえ、ここまで他社線を無視する姿勢もすごい。

↑昭和初期の武蔵野鉄道の路線絵葉書。1929年から3年のみ名のった「村山公園」という駅名も見ることができる

 

↑旧・西武鉄道の昭和初期の路線図。川越と大宮を結ぶ西武大宮線や荻窪〜新宿を結んだ西武軌道線(後の都電杉並線)の路線も描かれる

 

互いをライバル視する動きは、当時の行楽地であった村山貯水池への路線造りにも現れている。武蔵野鉄道は、1929(昭和4)年5月1日に村山公園駅(現・西武球場前駅)を開業、さらに1933(昭和8)年3月1日に村山貯水池際駅と名を改めた。

 

箱根土地の子会社、多摩湖鉄道は1930(昭和5)年1月23日に貯水池近くの駅、村山貯水池駅(現・西武遊園地駅の近くに設けた旧駅)を開業させた。旧・西武鉄道は同年の4月5日に村山貯水池前駅(現・西武園駅)を開業した。

 

利用者にとって、村山貯水池周辺に似通った名前の駅が3つも生まれたわけで、さぞかし迷ったことだろう。

↑村山貯水池(通称・多摩湖)を巡り鉄道3社の熾烈な争いが繰り広げられた。貯水池は1927(昭和2)年の完成で行楽地として賑わった

【堤 康次郎の生涯⑥】吸収した社名をその後の会社名とした

武蔵野鉄道と旧・西武鉄道は不況の影響を受けて、次第に経営が危うくなっていく。現在のように沿線に住宅地も広がっておらず、レジャー客と貨物輸送に頼っていただけに、利益確保が非常に難しかったことが容易に想像できる。

 

一方の箱根土地は多摩湖鉄道や駿豆鉄道などの短距離路線に加えて、土地開発という強みを持っていた。不況という風が大きな会社の体力を奪い、逆に箱根土地が力をつけていく。そして小が大を飲み込むということになっていく。

↑現在の西武鉄道の路線網。国分寺駅から北の路線網が複雑になっている。これは3社が争ったその名残でもある

 

その後の歴史を時系列で追ってみよう。

1932(昭和7)年堤康次郎が武蔵野鉄道の株の取得を始め、再建に乗り出す
1940(昭和15)年武蔵野鉄道が多摩湖鉄道を吸収合併、堤康次郎が10月に社長に就任
1943(昭和18)年旧・西武鉄道の経営権が箱根土地の手に渡る。社長に堤康次郎が就任
1945(昭和20)年9月11日武蔵野鉄道が旧・西武鉄道を吸収合併。そして西武農業鉄道となる
1946(昭和21)年11月15日西武鉄道に改称

 

武蔵野鉄道の株式を買い集め、次第に経営に乗り出していく。とはいうものの瀕死の状態に陥っていた鉄道会社の再建は生半可ではなかった。社債を引き受けていた保険会社の社員が主要駅の出札窓口まで出張ってくる。運賃収入がたまるとそれを取り上げていく。いわゆる差し押さえである。

 

しかも利用者の目の前で行われた。自叙伝で康次郎は、「まことに体裁の悪いことこのうえなく、私もこれには閉口してしまった」とある。さらに電気代が払えず、電気会社から送られる量が減らされた。電車をのろのろと走らさざるをえない。当時、武蔵野鉄道の電車は、たよりなく走る様子を“幽霊電車”と称された。

 

西武鉄道は、太平洋戦争の最中、そして戦後にかけて堤康次郎によって一つにまとめられた。ところが、戦時下から戦後にかけて日本経済はそれこそ泥沼状態。そんな状況のために、利益を上げるために、なりふり構っていられなかった。

 

当時はとにかく食料増産に励んだ時代だった。合併後に西武農業鉄道を1年間名乗り、旅客列車が走る一方で、都内で集められた“糞尿”を積んだ貨物列車が多く運行した。糞尿は食料増産のため肥料として使われた。消臭などの設備がもちろんない時代で、沿線に住む人たちはさぞや大変な思いをしたことだろう。

 

【堤 康次郎の生涯⑦】傑物そのものだったその生き方

◆経営理念は「感謝と奉仕」

堤 康次郎の経営理念は「感謝と奉仕」だとされる。

 

感謝と奉仕の経営理念は新たに始められた百貨店事業にも見受けられた。1940(昭和15)年に菊屋デパート池袋分店を買収して武蔵野デパート(現・西武百貨店)を開店させた。

 

この武蔵野デパートは空襲により焼失してしまうが、1945(昭和20)年12月に、早くもテント張りの店舗で営業を再開させた。食べるものに事欠くこの時代、庶民は郊外へ買い出しに走った。そんな最中、青果卸売市場運営会社を設立させ、仕入れルートを確保しようとした。商売なので、利益は上げなくてはいけないものの、やはり困っている人たちのために“奉仕”するという思いが、庶民にとって、ありがたかったに違いない。

↑池袋駅東口に立つ西武百貨店池袋店。武蔵野デパートとして創始。戦火で焼け落ちたが、終戦まもなくテント張りの店舗で営業を再開させた

 

◆西武鉄道という社名に関しての経緯

堤 康次郎には多くのエピソードが残る。西武鉄道は、武蔵野鉄道が旧・西武鉄道を吸収合併して生まれた会社だ。こうした時は合併した側の武蔵野鉄道を名乗るのが通例だろう。合併後に社名を西武鉄道とした(西武農業鉄道を名乗っていた時期があり)。これは、吸収された旧・西武鉄道の社員に「劣等感をあたえてはいけない」という思いからだったとされる。

 

太平洋戦争後、鉄道各社では乗車を拒否して列車を止めるストライキ闘争が多く起きたが、西武鉄道はまったくストライキが起きない会社だった。戦後まもなく起こった賃上げ闘争で、社員の給料を一気に5倍に引き上げたり、雪が降った夜に寝ずにポイントなどが凍るのを防いでいた社員を自宅に招き、お手製のカレーを振る舞ったり。食料難の時代には社員の食料確保に尽力した。社員を思う人間味あふれる人物だっただけに、社員も意気に感じて会社のために働いたのだろう。

 

◆赤字経営を続けて税金負担を免れる

経営手法は独特のものだった。土地開発から鉄道事業まで手広く事業を展開させたが、そのための投資はほとんどが借入金。借金と利子負担により赤字経営を続け、税金の負担を免れた。株式は公開しなかった。自ら武蔵野鉄道の株を購入し、徐々に経営権を手に入れた経験を踏まえてのことだったのだろう。組織による経営を嫌い、ワンマン経営に徹した。

 

◆36歳からの政治家として活躍

早稲田大学の政治経済学部政治学科出身ということもあり、政治家を志す気持ちが強かった。自叙伝でも「人生で最高の仕事は政治だと思っている」と記している。事業は国全体の一部のことでしかなく「国民全部を幸福にするのは政治」と言いきっている。36歳(1924年)の時に衆議院議員に初当選、1953年には衆議院議長まで上りつめている。大会社を経営する一方で、政治家も務めるとはなんともすごいバイタリティにあふれた人だと思う。

 

◆家庭では頑固おやじ、そして女性関係は

一方で、家庭内では頑固おやじそのもの。朝4時起き、夜の9時に寝ることを常としており、これを乱す人はたとえ政治家でも許さなかった。出かける時は、家族と使用人が全員、正座して見送った。帰ったら三つ指をついて迎え入れた。返事が悪いと鉄拳が飛んだとされる。今の時代、DVで訴えられそうな父親だったわけである。

 

さらに女性関係には驚かされる。関係があったとされ、名前が知られている女性だけでも5人、うち正妻として入籍した女性は3人。ほか何人の女性と関係をもったかは、それこそ分からないと伝わる。男性が強かった時代とはいえ、今だったらとても許されなかった乱脈ぶりである。

 

【堤 康次郎の生涯⑧】戦後から高度成長期までの西武電車の実情

堤 康次郎の鉄道事業は長短はっきりしていた。筆者は西武沿線で生まれ、育ったこともあり、少年期に当時の西武鉄道の車両を数多く撮影していた。

 

康次郎が生きていた時代に新造された車両を中心に、その様子を振り返ってみよう。当時の西武鉄道には康次郎の哲学が生きていた。車両造りは明確に節約思考が感じられた。その一例が、国鉄の戦災車両や、事故車両、木造車両を利用したこと。これらの“訳あり車両”を大量に購入して、自社の所沢車両工場(現在は廃止)で再生、鋼体化して走らせた。

↑西武園線を走る国鉄の払下げ車両。昭和40年代までは、旧国鉄車両が大量に走っていた

 

太平洋戦争後の西武鉄道の車両といえば、多くが旧武蔵野鉄道、旧西武鉄道が戦前に造った車両と、国鉄の払下げ車両でまかなわれていた。戦後に初めて1954(昭和29)年に新造したのが351系(当初は501系)で、この車両にしても当時、すでに古くなりつつある吊り掛け駆動を採用し、乗り心地は二の次という台車が使われていた。

 

その後に501系という同社としては高性能な車両が導入されたが、増える乗客に対応するために、2M4T(Mは駆動車、Tは付随車)という異色の編成を組んで対応した。そして1963(昭和38)年には私鉄初の10両編成という列車も走らせている。時代は高度成長期で、質より量で増える乗客に対応したのである。乗り心地よりも輸送力を重視した車両造りにも、康次郎の考えが見えてくる。

↑国分寺線を走る351系。西武鉄道が戦後、始めて新造した車両だが、鉄道ファンからは「見せかけ新車」と呼ばれた

 

↑351系の後に生まれた501系。写真の編成は4両だが、左上の写真のようにドアの形が異なる2M4Tの6両編成の車両も走っていた

 

↑近代的なスタイルをした701系。堤康次郎の晩年1963(昭和38)年に誕生した。先頭のクハ車は国鉄の払下げした台車を改造して使用

 

 

【堤 康次郎の生涯⑨】亡き後の西武鉄道は時代の変革に乗りきれず

堤 康次郎は経営者として西武鉄道をまとめるとともに、総選挙に13回出馬し、当選を果たした。そして長年、政治家としても活躍した。1964(昭和39)年4月24日、東京駅の構内で倒れ緊急入院、26日に心筋梗塞で死去した。享年75。

 

二男の清二氏が西武百貨店などの流通部門を引き継いだ。また箱根土地を改称したコクドはすでに三男の義明氏に引き継がれていた。コクドは西武鉄道グループの不動産会社で、西武鉄道の親会社にもあたる。

 

↑西武鉄道初の高性能車とされる101系。1969(昭和44)年に西武秩父線の開業に合わせて新造された。今も改良型の新101系が走り続ける

 

西武の主要な会社は子息に引き継がれたものの、康次郎の遺訓もあり、しばらくは新たな動きを始めようとしなかった。

 

清二氏、義明氏とも一定の期間をおいたその後、活発に動き始める。まず西武百貨店は池袋店と隣接する東京丸物の撤退に合わせて資本参加し、ファッションビル・パルコ1号店が開店させる。その後、堤清二氏はセゾングループを築いていった。

 

一方、コクドを引き継いだ堤義明氏はプリンスホテルを全国に展開、スキー場を中心としたリゾート造りに専念した。

↑コクドは各地でスキー場を中心にしたリゾート地開発を行っていった。写真は苗場スキー場

 

両グループとも長年にわたり繁栄を続けてきた。ところが、時代は変化していった。その変化に足並みを揃えていくことが次第に困難になっていく。

 

まず堤 清二氏が率いるセゾングループがバブル崩壊の影響を受けた。金融機関からの借入金で運営するスタイルが破綻を招き、清二氏は1991年にグループ代表を辞任した。

 

一方、堤 義明氏が率いるコクドも時代の波に呑まれていく。スキー場を核としたリゾート造りが2000年を境に曲がり角を迎えた。借入金により造ったリゾートホテル、施設などの経営が成り立たなくなっていき、鉄道事業もその大きな影響を受けた。

 

そうした最中の2004年には総会屋に利益供与、さらに有価証券報告書の虚偽記載が問題視され、義明氏はコクド、西武鉄道などの役職から去る。さらに翌年には証券取引法違反の疑いで逮捕されてしまう。執行猶予付の実刑判決を受けた後、西武と義明氏との資本関係は消滅し、西武グループと堤一族との縁が切れる。

 

父の康次郎が残した借入金により事業を広げる会社経営の手法、そしてカリスマ経営者によるワンマン経営は、2人の子どもたちにそのまま引き継がれた。会社が上手く動いているうちは、非常に上手く機能する手法といえよう。だが、時代は常に動いている。その動きを客観的に見極め、修正していく能力が結果のみを見れば欠けていた。助言できる部下もいなかったし、2人とも求めようとしなかった。

 

企業経営は1人の経営者のみに長年、委ねていると、時に失敗に直面すると乗り越えられないことがある。堤康次郎と2人の子息の生涯を見ると「盛者必衰」。そうした世の習いを如実に示しているようである。

 

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