乗り物
2020/10/18 18:30

1960年竣工の「貨物船」から商船の興味深い歴史をひも解く

【貨物船再発見②】華やかな昭和初期までの外航船を振り返る

興隆期の模様は、現在も残る港や船の絵葉書を中心に見ていきたい。日本三大港と言えば、横浜港、神戸港、そして門司港である。

 

横浜港は東京、神戸港は大阪という互いに大都市の近くにあり、また門司港は筑豊炭田に近い港ということで栄えた。当時は、貨物だけでなく、旅客も船以外の海外への交通手段がなかったこともあり、国際港イコール日本の玄関口だった。現在で言えば、羽田空港や、成田空港、中部国際空港、関西空港と同じだったわけだ。下記は、そんな華やかだった大正初期の横浜桟橋の絵葉書だ。

 

横浜には鉄桟橋と呼ばれた大さん橋が1894(明治27)年に竣工、さらに1917(大正6)年には現在のみなとみらい地区に新港埠頭も誕生している。また1911(明治44)年には赤レンガ倉庫も完成した。

↑大正初期と思われる横浜桟橋の手彩色絵葉書。引込線が見えるように、当時は、列車が桟橋内に入り込んでいた

 

もう一枚の絵葉書は日本三大港の一つ、神戸港の様子。神戸は開港後、次第に整備されていき、東洋最大の港とされた。特に世界四大海運市場として、ロンドン、ニューヨーク、ハンブルクと並び、世界的にも知られる港となった。

 

絵葉書は昭和初期と思われるもので、多くの客船、貨客船が接岸し、港は活況に満ちている。貨物の積み下ろし、および旅客利用者でさぞや神戸港は、賑わったことが想像される。

↑昭和初期の神戸港の様子、形や大きさもさまざまな船が接岸する。大きな倉庫裏には引込線があり停まる貨車の姿も見受けられる

 

さて一般の人たちが客船、もしくは貨客船に乗る機会は、今の海外へジェット機で行くよりも数10倍も難しいことだったと想像される。非常に時間もかかった。たとえば1935(昭和10)年発行の時刻表により、日本郵船の横浜〜バンクーバー・シアトル間を氷川丸で渡った場合を調べてみると。

 

3月26日に横浜港をたち、バンクーバーには4月6日、シアトルには4月7日に着いている。太平洋を渡るのに11日を要していたのだ。それも頻繁に便が出港するわけでなく、1か月にせいぜい1〜2本で、他社の船便も似たり寄ったりの本数だった。

 

運賃は、氷川丸の3等船室で60ドル。円換算では171円43銭。当時の大学出の初任給が月給73円とされているので、73円=20万円とすると、今の47万円ぐらいにあたるだろうか。1等船室ともなると250ドルで、現在のお金に換算すると196万円以上になる。

 

ちなみに現在の正規の航空運賃は成田空港〜バンクーバー間がエコノミークラスで15万円〜53万円、ビジネスクラスで39万円〜86万円と、それほど差がないと感じる(正規料金が旅する人は少ないだろうが)。とはいえ、当時の国民所得は現在の6分の1以下と貧しかった。大卒はエリートだったわけで、庶民はそれほどの所得がなかったわけである。船便の場合に運賃に加えて、食事代なども必要になるわけで、庶民にはかなり縁遠い旅行だった。

 

そうした貴重な旅、しかも船内に滞在する時間も長かったこともあり、船で配られる絵葉書はお土産として持ち帰る人が、国内、海外ともに目立った。そんな船の絵葉書が多く残っている。

↑海外の人たちに人気があった船の絵葉書。浮世絵を背景に船という構図が多く刷られた。同絵葉書は日本郵船の熊野丸のもの

 

日本の浮世絵が海外からの旅行者から喜ばれる一方、船内で過ごす様子が絵葉書として残っている。スーツを着込み、デッキでゲームに興ずる姿。その光景を見ると海外旅行は、まだごく一部のセレブの旅という印象が強く感じられる。何しろ、この時代、日本では和装というのが一般的だったのだから。

↑日本郵船の戦前の絵葉書。スタンプに1940年5月とあり、この1年後には太平洋戦争が始まる、その直前に旅した人が残したもののよう

 

【貨物船再発見③】戦時中、壊滅的な被害を受けた日本の商船

昭和初期、高額だったにかかわらず、国際航路を利用する人が増え、日本郵船では1936(昭和11)年に世界一周線といった航路も創設している。遠洋航路網がピークを迎えた年代だった。ところが。

 

1939(昭和14)年に欧州で第二次世界大戦が勃発したことから、遠洋航路網は急速にしぼんでしまう。定期航路は休止に追い込まれ、さらに戦禍に巻き込まれる船も出るようになった。さらに日本は1941(昭和16)年、太平洋戦争への道を歩む。日本郵船の船も多くが陸海軍に徴用され、輸送船、一部は軍艦に改造された。

 

太平洋戦争中は多くの商船が軍事物資や兵員の輸送に使われた。しかし、無防備の商船ゆえ、敵から狙われたら防ぎようがない。そして多く船が犠牲となった。日本郵船では計185隻113万トンを失った。沈没を免れたのはわずかに37隻といったことに。特に1万トン以上の大型船の損害は甚大で、無事に残ったのは特設病院船となった氷川丸のみという惨状だった。日本郵船の海上社員も5157人が犠牲となっている。

↑客船、照国丸の絵葉書。欧州航路向けの客船だったが、日本の商船の中では第二次世界大戦初の沈没船となってしまった

 

上の絵葉書は1930(昭和5)年に竣工した照国丸のもの。欧州航路向けの客船で、日本とロンドンを結んだほか、ロンドンからアントワープ、ロッテルダム、ハンブルクを巡るクルーズ航海も行い、好評を得た。1939(昭和14)年11月、第二次世界大戦が始まって2か月あまり、英国テムズ河口を航行中に機雷に触れて沈没。日本の商船として第二次世界大戦初の犠牲となった。さらに日本が参戦する前に犠牲となった唯一の船だった。

 

【貨物船再発見④】占領下は船を作るのにも規制がかかった

太平洋戦争後、船自体を失った痛手が大きかった。さらに新造船を造るにしても、占領軍当局から規制がかかった。5000総トン以上、15ノット以上の船舶建造禁止、保有船舶量も鋼船150万総トンまでとされた。

 

日本郵船が終戦後の1948(昭和23)年に造った最初の船は「舞子丸」で、総トン数1035トンだった。創業時ですら2000トン以上の船を用意しているのだから、想像しにくい。同船は小さく、外洋航海には向かなかったせいか1954(昭和29)年に、早くも売却されている。

 

四方を海に囲まれた日本にとっては、船を持てないというのは死活問題だった。占領軍もさすがに現状を見かねたのか、1950(昭和25)年に占領軍の統制がとかれる。1951(昭和26)年には総トン数6724トンという平安丸が竣工、ニューヨーク航路に就航、1953(昭和28)年7月には氷川丸も貨客船としてシアトルへの定期航路に復帰した。さらに日本の造船業が復興されていく。その後には世界を代表する造船王国となっていったが、耐えていたものが一気に花を咲かせていったのだった。

 

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