乗り物
鉄道
2021/5/19 20:00

戦時下の「不要不急線」—— レールが外された後はどうなったのか?【東日本編】

【その後の路線①】休止後にそのまま廃線となった路線

ここからは、東日本(中部地方以西はまたの機会に取り上げたい)の不要不急線のその後を追ってみたい。休止された後の路線の動向はいくつかの道筋に分かれる。最初は、休止後に廃線に追いやられた路線から。最も悲しい結末を迎えた路線である。

 

○そのまま廃線となった路線(前述の地図「×」)

■鉄道省(その後の国鉄)の路線

◇北海道

・富内線(とみうちせん):沼ノ端〜豊城(とよしろ)24.1km間、1943(昭和18)年11月1日休止

沼ノ端から現在の日高本線の北側に敷かれた路線。路線が設けられたのは1922(大正11)年で、北海道鉱業鉄道として開業した。日高本線の鵡川(むかわ)から合流する路線が豊城駅まで敷かれていたが、戦時下には沼ノ端〜豊城間が休止となり、そのまま廃線となった。戦後も、鵡川〜豊城〜日高町の区間は存続されたが、1986(昭和61)年に廃止となった。

 

◇東北地方

・橋場線(岩手県):雫石〜橋場7.7km、1944(昭和19)年10月1日休止

橋場線は現在の田沢湖線の雫石と橋場間を結んでいた。開通は1922(大正11)年で、橋場軽便線として開業した。戦後は田沢湖線が雫石と、田沢湖、角館などを結んだが、路線は橋場を通らず、そのまま雫石〜橋場間が廃線となった。

 

・白棚線(はくほうせん/福島県):白河〜磐城棚倉23.3km、1944(昭和19)年12月11日休止

現在の東北本線白河駅と水郡線の磐城棚倉駅を結んだ路線。1916(大正5)年に白棚鉄道として開業した。水郡線の全通開業は1934(昭和9)年のことで、白棚線は水郡線よりも先に路線が開通していた。戦時下に休止となり、その後に復活はしなかった。一方で、元線路はバス専用道路に転用され、現在もジェイアールバスが白河〜磐城棚倉を結んでいる。

 

◇関東地方

・五日市線:立川〜拝島駅間8.1km、1944(昭和19)年10月11日休止

元は五日市鉄道として開業した線区で、現・青梅線よりも南側を走っていた。戦時下の1944(昭和19)年4月1日に、青梅鉄道(現・青梅線)、南武鉄道(現・南武線)とともに国有化され、半年後には不要不急線に指定、休止となった。戦後も復活することなく、廃止となっている。

↑旧五日市鉄道が走っていた大神駅跡には、線路と台車などを飾るモニュメント広場が設けられている

 

【関連記事】
“不要不急”の名のもと戦禍に消えた「旧五日市鉄道」廃線区間を歩く

 

■民営鉄道(私鉄)の廃線路線

不要不急線として休止になった鉄道省(後の国鉄)の路線は、戦後に復活したものが多い。一方、民営鉄道の場合は、休止後そのまま廃線となった路線が目立った。やはり資金力に余裕のない私鉄は復旧までたどり着かなかったのであろう。そんなつらい運命をたどった路線を見ていこう。

 

◇北海道

・江別町江別川線:江別〜江別川堤防0.3km、1945年3月1日廃止

函館本線の江別駅から千歳川沿いの江別橋までの短い路線で、貨車を人間が押すといった“人車軌道”だったという話も伝わる。路線開業は1905(明治38)年。不要不急線として終戦の年に廃止となり、戦後も復活はなかった。

 

・定山渓(じょうざんけい)鉄道:白石〜東札幌間2.7km、1945年3月1日休止

函館本線の白石駅〜定山渓間が1918(大正7)年に開業した。戦時下に千歳線との接続駅である東札幌と白石間の路線が休止となり、そのまま廃止となった。残った東札幌〜定山渓間も1969(昭和44)年11月1日に廃止となっている。定山渓温泉の最寄りまで行く私鉄路線で、今も残っていたら便利だろうにと、少し残念に思う。

 

・大沼電鉄:大沼公園〜鹿部17.2km、1945(昭和20)年1月31日廃止

道南、大沼公園と鹿部を結んでいた軌道路線で、1929(昭和4)年に開業した。1945(昭和20)年に廃線となり、同年の6月1日に平行して敷設された函館本線(砂原支線)が開通、路線としての役割を終えた。戦後には函館本線の新銚子口と鹿部駅間のみ、1948(昭和23)年に営業再開されたが、わずか4年のみの営業で路線廃止となった。

 

◇関東地方

・成田鉄道軌道線(千葉県):成田山門前〜宗吾間5.3km、省線駅前〜本社前0.1km、1944(昭和19)年12月11日廃止

成田山新勝寺と宗吾霊堂を結ぶ路面電車路線として1911(明治44)年に全通、成宗電車(せいそうでんしゃ)として地元の人たちに親しまれた。成田市内にトンネル跡などが残り、線路跡は今も車道として使われる。

↑成田鉄道軌道線のトンネル。戦前に不要不急線となり休止→廃線となったが、トンネルは一般道として使われ路線バスが走る

 

【関連記事】
「成宗電気軌道」の廃線跡を歩くと意外な発見の連続だった

 

・成田鉄道多古線(千葉県):成田〜八日市場間30.2km、1944(昭和19)1月11日休止

1911(明治44)年から徐々に路線が延び1926(大正15)年に全線が開業した。開業当時は千葉県営鉄道で、鉄道の空白区間を埋める役割があった。1927(昭和2)年に成田鉄道となった後に、1944(昭和19)年に不要不急線として休止に、そのまま戦後に廃線となった。

 

・東京急行電鉄御陵線(東京都):北野〜多摩御陵前6.3km、1945(昭和20)年1月21日休止

現在の京王電鉄京王線の北野駅と多摩御陵前を結んだ路線で、1931(昭和6)年に開業した。開業した当時は京王電気軌道で、戦時下に小田急、京浜急行とともに東京急行電鉄(現・東急電鉄)の傘下に組み込まれた。そのため休止時には京王でなく、東京急行電鉄の路線名となる。御陵線は山田〜多摩御陵前間がそのまま廃止されたが、北野〜山田間の路線跡は、現在の京王高尾線に活かされている。

 

◇甲信越地方

・善光寺白馬電鉄:南長野〜裾花口(すそばなぐち)間7.4km、1944(昭和19)年1月11日休止

路線名にあるように、善光寺がある長野市と白馬を結ぼうとした電鉄線で、1936(昭和11)年に南長野から途中まで、戦時中の1942(昭和17)年に裾花口まで開通した。しかし、わずか2年後に休止させられ、そのまま廃止となった。筆者は一度、路線跡を歩いたことがあるが、険しさにたじろいでしまった。

 

今回は、取り上げなかったものの、東京都電車(都電)でも9線区が戦時中に廃止となっている。ほかにも鋼索鉄道(ケーブルカー)でも休止させられ、戦後にそのまま廃止となった路線もあった。

 

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5