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2021/6/3 20:00

東急の礎を築いた「五島慶太」−−“なあに”の精神を貫いた男の生涯【前編】

【五島慶太の生涯⑥】吸収合併を繰り返して“強盗慶太”と揶揄された

五島慶太はこの機を活かして拡大政策にうって出る。まずは1934(昭和9)年に東京高速鉄道の常務に就任。地下鉄路線の経営に勝機ありと見てのことだった。

 

さらに10月1日に池上電気鉄道(五反田駅〜蒲田駅間)の吸収合併を行う。現在の池上線は池上電気鉄道という会社が、1922(大正11)年に蒲田駅〜池上駅間1.8kmを開業させたことに始まる。徐々に延伸させていき、1928(昭和3)年に五反田駅まで全通させた。

 

慶太が率いた目黒蒲田電鉄と、ほぼ同じ時期に路線づくりを始めた会社だった。その会社を吸収合併という形で飲み込んだのである。

 

1934(昭和9)年は五島慶太が最初の勝負に乗り出した年だった。だが、好事魔多し。10月18日になんと贈賄容疑で逮捕されてしまったのである。東京市長選の立候補者に対して多額な選挙資金を提供したという疑いがかけられた。約半年後の182日目に釈放されたものの、市ヶ谷刑務所に半年にわたり収容されている。裁判の結果は第一審が有罪、第二審が無罪、大審院では上告棄却され、無罪となっている。

↑1938(昭和13)年、玉川電気鉄道合併後の路線図。同線は渋谷以東にも路線を持っていたが、合併後すぐに東京市電気局の路線となった

 

収監中は読書ざんまいの生活をおくったとされる。「人間として最低の生活」と後に振り返るものの、事業ばかりの自分の半生を冷静に省みることもできた。無罪となった五島慶太はさらに事業の拡大を推し進めていく。

 

1936(昭和11)年 東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄取締役社長に就任

1938(昭和13)年4月1日、玉川電気鉄道を合併する(後の東急玉川線)

 

同年に江ノ島電気鉄道を買収、取締役社長に就任。ほかタクシー会社、運送会社など複数の企業を立ち上げて社長に就任した。

 

1939(昭和14)年10月1日 目黒蒲田電鉄が東京横浜電鉄を吸収合併、名称を東京横浜電鉄に。

1942(昭和17)年5月1日 京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併、東京急行電鉄株式会社に商号を変更

 

↑小田原急行鉄道と呼ばれた当時の小田原駅。親会社は鬼怒川水力電気という電力会社だった。1942(昭和17)年に東京急行電鉄に統合された

 

太平洋戦争に突入した1942(昭和17)年に五島慶太は京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併し、さらに1944(昭和19)年には京王電気軌道を合併している。この時代は東急最大最長の路線網を誇ったころで、後にこの時代の東急を「大東急」と呼んだ。当時は資金力にものを言わせて、他社の鉄道を飲み込んだと世間的には見られており、五島慶太は“強盗慶太”と揶揄された。

 

ただ、大同団結した時代の背景も見ておかなければいけないだろう。まずは当時の鉄道会社の多くが、電力会社の副業という側面があった。ところが、1938(昭和13)年4月に国が電力管理法を施行したことにより局面が変わる。この法律によって、電力の国家統制が始まった。それまで中小電力会社が乱立していたが、様々な圧力もあり日本発送電にまとめられてしまう。

 

鉄道業務が副業だった電力会社は追いつめられた。小田急電鉄がその一例にあたる。小田急電鉄は鬼怒川水力電気という電力会社の子会社で、その電力業務を国に取り上げられたことで窮地に追い込まれた。そんな時に救いの手を差し伸べたのが五島慶太だ。

 

また1938(昭和13)年に4月2日に陸上交通業調整法が公布、8月1日に施行されたことも大きい。こちらも国家統制で、乱立気味だった交通事業者の整理統合を正当化する法律でもあった。こうした時代背景が生み出した“大東急”だったのである。

 

【五島慶太の生涯⑦】渋谷を大きく繁栄させた東横百貨店の誕生

東急を生み出した五島慶太だったが、鉄道事業以外も精力的に推し進めた。そうした多角化が、その後の東急の文化的な側面のイメージアップにつながったことは間違いない。もちろん電鉄の利用者を増やす目的もあったのだが。

 

最初の動きとしては1929(昭和4)年の7月に慶応義塾大学の日吉台への誘致が挙げられるだろう。大学に無料で7万2000坪の土地を提供している。当時、世界恐慌による不況の影響を受けていたのにも関わらずである。名のある大学を誘致すれば、路線のイメージアップにつながり、もちろん学生に電車に乗ってもらえる。とはいっても会社ができて間もない時期であり、ライバル会社との綱引きもあり、広大な土地の無償提供はかなり思い切った策だった。その後には、

 

1934(昭和9)年11月1日 渋谷駅東口に東横百貨店(東館)が開業

1938(昭和13)年6月に東映映画株式会社を設立、7月に株式会社日吉ゴルフクラブを設立、12月に玉電ビルが完成、東横百貨店西館が開業する

1939(昭和14)年 東横商業女学校を私費で設立

 

デパート、映画興行、さらにゴルフ施設、そして学校の設立も行っている。東横商業女学校は、贈収賄事件で収監された五島慶太へ当時の株主総会で感謝金として出された5万円に、私財をプラスして設立させた。「この金をもらうわけにはいかず」と話したとされるように、お金に執着するわけでなく、将来のための人づくりのために活かしたわけだ。東横商業女学校は、その後に東横学園中学校・高等学校となり、また建学された武蔵工業大学と、東横学園女子短期大学が統合され、現在は東京都市大学と改称している。これらの学校は学校法人五島育英会が運営を行う。五島慶太の思いがこうして花開いていくわけである。

 

五島慶太が生前は“強盗慶太”と称されたものの、没後にその生涯が認められたのは、鉄道事業以外に、多くの社会貢献にあたる事業を進めたことも大きいだろう。

↑東横百貨店の開業は渋谷の町の発展に大きく貢献した。写真の東急百貨店東横店は2020年3月31日で閉店している

 

太平洋戦争中には事業ばかりでなく、政治の世界にも乗り出した。

 

1943(昭和18)年 内閣顧問に就任

1944(昭和19)年2月19日、東條英機内閣の運輸通信大臣に就任

 

大臣に就任したことから東京急行電鉄社長を辞任。この時、61歳。電鉄の誕生に関わり、順調に成長させ、多くの路線網を傘下におさめた。まさに絶頂期だったのかもしれない。

 

ところが、大臣に就任してわずか5か月後の7月18日、東條英機内閣は解散してしまう。五島慶太は運輸通信大臣を辞任後、12月28日に東京急行電鉄会長に就任した。

 

さて五島慶太の今回の紹介はここまで。次回は太平洋戦争後の話を中心に進めたい。戦後は、箱根と伊豆でライバルとなる人物が現れ、壮絶な戦いを繰り広げることになる。

 

東急を率いるにあたって追い込まれることも多くなっていくが、常に〝なあに〟の思いを強め、乗り切っていったのである。

 

*参考資料:「東急・五島慶太の生涯」北原遼三郎著/現代書館、「ビッグボーイの生涯」城山三郎著/講談社、「私の履歴書‐昭和の経営者群像〈1〉」日経新聞社、「東京横浜電鉄沿革史」東京急行電鉄株式会社

 

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