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2021/8/14 17:45

吉田初三郎の熱意に引き込まれる!大正&昭和初期の「鉄道鳥瞰図」の世界

【鳥瞰図の世界⑤】初三郎の世界100%全開のパノラマワールド

◆1928(昭和3)年発行・富士身延鉄道「沿線名所圖繪」

↑富士身延鉄道全通した年に造られた鳥瞰図。非常に分かりやすくつくられている。遠くサンフランシスコまで描いていることに驚かされる

 

4枚目は富士身延鉄道の「沿線名所圖繪」を紹介したい。富士身延鉄道は現在のJR身延線を開業させた前身となる鉄道会社で、会社創設は1912(明治45)年のことだった。大正初期に東海道本線と接続する富士駅側から路線の延伸を始め、1920(大正9)年に身延駅が開業。1928(昭和3)年に甲府駅までの延伸を果たしている。鳥瞰図は全線開業時に造られたものである。

 

この鳥瞰図は伊予鉄道のものとは異なり、駅名や観光名所の紹介文字が大きめで、また大小の文字を使っていて分かりやすい。何よりも、構図が大胆で巧みである。右に富士山、左側に沿線の観光ポイントである身延山が対となるように描かれている。間に富士川が流れ、富士川沿いを突っ切るように、直線で、富士駅〜甲府駅間を走る富士身延鉄道の路線が描かれる。駅間には、無数のトンネルが描かれ、この路線の険しさが印象づけられている。もちろん、身延線は、この図のように直線ということはなく、カーブ路線が続く。それを直線で描いてしまうこと自体にも豪胆さが感じられる。

↑富士身延鉄道時代の下部駅(現・下部温泉駅)の絵葉書。当時の茶色の電車が停まる様子が見える。同駅は1927(昭和2)年の開業

 

初三郎は大正名所図絵社(後の観光社)という会社を作り、多くのスタッフが手伝い鳥瞰図を作っていた。そのために、素人目に見ても出来不出来が散見される。ただし、手作りだからこその良さも見えてくる。

 

この鳥瞰図でおもしろいのは、起点となる富士駅の東海道本線とその延長上に続く地名や地形の描き方だ。

 

雲状のデザインを配置し、そのデザインで近いところと、遠いところを区切っている。この図では東海道線に沿って見ていくと、西は大阪、神戸、さらに山陽本線が直線状に描かれ、下関まで記載されている。さらに遠くには釜山、朝鮮、金剛山、さらに台湾まで記述されている。逆には富士山越しに東京近辺を描き、遠くに筑波山と房総半島が見える。

 

愉快なのは伊豆半島の下田の先に、何とハワイ、サンフランシスコの名称が記述されているところ。今でこそ、国際宇宙ステーションにでも乗っていれば同一画面上に見えるかもしれないが、これこそ初三郎が持っていた “遊び心”の一面をよく表している。

↑身延線はアップダウンに加えてカーブの多い路線だ。初三郎はこの路線全線を直線に描き、分かりやすい鳥瞰図に仕立てた

 

吉田初三郎は、鳥瞰図を描く絵師ながら、地方を歩き、情報を仕入れ、それを絵として残す、いわば現代のジャーナリズムにも通じる視点を持っている。もちろん社員がその一部を分担したとしてもだ。そして大胆なデフォルメを施しつつも、それは見る人が分かりやすいように、意図的に変更し、デフォルメしたのである。決して間違った情報は入れ込んではいない。この鳥瞰図を見て、果たして目的地に間違いなく行けるかは疑問であるが、駅と目的地の位置関係などはすぐに分かる。非常に高度に作り出されたものである。

 

しかし、初三郎の鳥瞰図はその分かりやすさゆえにマイナス要素も生みだした。

 

昭和10年代前半まで初三郎の活躍が続いたが、太平洋戦争の前後、ぱったりと初三郎の作品が世に出なくなってしまう。その理由は港湾などの施設が緻密に描かれすぎているからだ。地図などの情報は、当時、軍事機密とされた。たしかに初三郎の鳥瞰図を敵方が見たら、良い情報源になったであろう。飛行機を操縦していたとしたら、コクピットから実際に見えたであろう情景がそこに描かれていたのだから。鳥瞰図は平和時だからできたものだったのである。

 

そのため太平洋戦争下では不遇の時代を送っている。戦時下にどのような暮らしをしていたのかは伝わっていないが、仕事がなくなったのだからつらかったことだろう。その思いが戦後の仕事に向かっている。1946(昭和21)年に広島へ足を運び、5か月にわたり、被爆地・広島の“取材”を続けた。数百名に証言を得て描いたとされる「廣島原爆八連図」を残した。なかでも原爆が爆発した時のものされる鳥瞰図は鬼気迫る凄みが感じられる。

 

初三郎はその後、原因不明の病に冒され1955(昭和30)年8月16日死去、享年71歳だった。その業績は近年になって見直され、再評価されるようになってきている。しかし、「廣島原爆八連図」にしても元となる肉筆画が見つかっておらず、未知の部分が多い絵師でもある。亡くなって60年以上の年月がたつものの、作品づくりに向かう真摯な姿勢には学ぶべきところが多い。

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