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2022/7/23 21:00

栄華の跡が色濃く残る「へいちく伊田線」非電化複線の旅を楽しむ

おもしろローカル線の旅89〜〜平成筑豊鉄道・伊田線(福岡県)〜〜

 

1950年代から1960年代にかけて起こった「エネルギー革命」。国内のエネルギー源が石炭から石油へ短期間で変わった。日本一の出炭量を誇り、栄華を極めた福岡県の筑豊地方はその大きな影響を受けたのだった。

 

筑豊を走る平成筑豊鉄道の伊田線(いたせん)。現在も華やかだった時代の残り香が味わえる沿線である。過去の栄光を感じつつ鉄道旅を楽しんだ。

 

*取材は2013(平成25)年7月、2017(平成29)年5月、2022(令和4)年4月3日と7月2日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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↑直方駅近くを走る伊田線の列車。伊田線の複線と、筑豊本線の複線が並んで走る区間だ。右上に直方市石炭記念館が見える

 

【伊田線の旅①】129年前に設けられた石炭運搬路線

30年以上前に筆者は筑豊の直方市(のおがたし)を訪れ、複々線の線路が連なる様子と、華やかで大きなアーチが出迎える商店街に驚かされた。その記憶が今も頭の片隅に残っている。訪れた当時はとうに炭田は閉鎖されていたはずだが、賑わった時代の余韻のような華やかさが感じられたのである。

 

あの華やかな町の面影は今も残っているのだろうか、そんな疑問から今回の旅は始まった。地元の人たちから〝へいちく〟の名で親しまれる平成筑豊鉄道。その伊田線の概略をまず見ておこう。

路線と距離平成筑豊鉄道・伊田線:直方駅〜田川伊田駅(たがわいたえき)間16.1km 全線非電化複線
開業1893(明治26)年2月11日、筑豊興業鉄道により直方駅〜金田駅(かなだえき)間が開業。
1899(明治32)年3月25日、金田駅〜伊田駅(1982年に田川伊田に駅名改称)間が延伸開業
駅数15駅(起終点駅を含む)

 

今から129年前に部分開業した伊田線は、1897(明治30)年に鹿児島本線などを運行する九州鉄道と合併。さらに1907(明治40)年には国が九州鉄道を買収し、官設鉄道の路線となる。終戦前の1943(昭和18)年に印刷された地図が下記だ。この地図を見ると筑豊地方の鉄道網は実に多くの路線があり、支線も多く伸びていたことが分かる。

↑「鐵道路線地図」1943(昭和18)年5月改正版。当時、鉄道職員に配られた地図で伊田線は2本線=複線として描かれている

 

伊田線は直方駅で筑豊本線に接続する。筑豊本線の終点は北九州の若松駅だ。この若松駅の目の前には若松港があり、この港から筑豊炭田で産出された石炭が各地へ輸送された。さらに富国強兵策を進める明治政府が官営八幡製鐵所を北九州・八幡に造り1901(明治34)年に操業を始めた。

 

この製鐵所では大量の石炭が必要となった。伊田線の輸送力を確保したい思惑もあり1911(明治44)年には全線が複線化されている。

 

筑豊炭田は福岡県の北九州市、中間市(なかまし)、直方市、田川市、など6市4郡にまたがって広がっていた。日本一の石炭産出量を誇った筑豊炭田。その採炭量が全国の産出量の半分を占めた時期もあったとされる。そのピーク時は太平洋戦争前後で、筑豊には最盛期、265鉱(1951年度)があった。

 

【伊田線の旅②】全線が非電化複線という路線が今も残る

ところがエネルギー革命が急速に進む。1960年代になると大手企業が採炭から撤退していき、筑豊炭田は1976(昭和51)年の宮田町にある貝島炭礦の閉山により姿を消した。

伊田線の沿線の中で直方市と、田川市が大きな街だが、その人口にもそうした影響が明確に現れている。直方市の人口は1955(昭和30)年には6万3319人で、6万4479人(1985年)まで膨らんだが、2022(令和4年)年6月には5万5735人に減っている。田川市の人口の推移は顕著で、1955(昭和30)年には10万71人を記録したが、2022(令和4年)年7月1日現在で4万5881人と半分以下になっている。

 

炭坑が閉山されたことで、伊田線も大きな影響を受けた。まずは沿線の途中駅から炭田に向けて多くの貨物支線が分岐していたが、1960年から1970年代にかけて貨物支線が次々に廃止され、支線の先にあった貨物駅も閉鎖された。

 

伊田線を走る貨物列車は減少どころか運転すらなくなり、さらに急激な人口減少で利用者も減っていった。1987(昭和62)年4月1日に国鉄分割民営化により路線は九州旅客鉄道(JR九州)に引き継がれ、2年後の1989(平成元)年10月1日には第三セクター経営の平成筑豊鉄道に転換されて現在に至る。

↑伊田線は全線が複線のまま残されている。そこをほとんどの列車が1両で走っている

 

平成筑豊鉄道には今回紹介の伊田線と、田川線(行橋駅・ゆくはしえき〜田川伊田駅間)と糸田線(いとだせん/金田駅〜田川後藤寺駅間)の3路線が移管された。

 

平成筑豊鉄道の田川線、糸田線は全線単線だが、伊田線のみ全線が複線のままで引き継がれ、今も残されている。60年以上も前に多くの炭坑は消えてしまったが、栄華の跡を沿線各地で確認することができ、筑豊炭田が生み出した〝財力〟を偲ぶことができて興味深い。

 

【伊田線の旅③】走る気動車は400形と500形の2タイプ

ここで平成筑豊鉄道を走る車両を見ておこう。平成筑豊鉄道を走る車両は2タイプある。

 

◆400形

↑平成筑豊鉄道の400形。写真は標準タイプで多くがこの塗装が施されている。ベース色の黄色は菜の花をイメージしている

 

平成筑豊鉄道が2007(平成19)年から導入した気動車で、製造は新潟トランシスが担当した。車両は地方鉄道向けの軽快気動車NDCと呼ばれる。全国の多くの路線で見ることができるタイプだ。平成筑豊鉄道の400形は大半が菜の花を意味する黄色ベースに青色、緑色、空色の斜めのストライプが入る。

 

400形には黄色ベースの車両以外に企業の広告ラッピング車両、マスコットキャラクター「ちくまる」をテーマにしたラッピング車などのほかに、「ことこと列車」という名前の観光列車2両が走っている(詳細後述)。

 

◆500形

↑1両のみの500形。外装はレトロ調で、車内も通常の400形とは異なる転換クロスシートが導入された

 

1両のみ2008(平成20)年に製造された車両で、基本構造は400形と同じだが、内外装をレトロ調にした。愛称は「へいちく浪漫号」で、通常の列車に利用されるほか、貸し切り列車として走ることもある。

 

【伊田線の旅④】休日には人気のレストラン列車が走る

400形の401号車と402号車は「ことこと列車」という名前の観光列車に改造されている。同社では「レストラン列車 ゆっくり・おいしい・楽しい列車」としてPRしている。デザインはJR九州などの多くの車両を手がけた水戸岡鋭治氏で、木を多用した内装に変更、外観もお洒落な深紅のメタリック塗装となっている。

 

「ことこと列車」の運転は土日・祝日で、今年は11月27日までの運転の予定だ。1日1便の運行で、直方駅を11時32分に発車、田川伊田駅で折返し、直方駅へ12時35分に戻る。これで終了ではなく、再び直方駅12時57分発、田川線へ乗り入れ、行橋駅14時52分で運転終了となる。

↑今年は4月2日から運転が開始された「ことこと列車」。写真は今年の4月3日に撮影したもので、車内から花見が楽しめた

 

車内では筑豊、京築(けいちく)地方の素材を贅沢に使ったフレンチコース料理6品が提供される。福岡市の「La Maison de la Nature Goh」を展開する料理人・福山剛氏が料理を監修した。旅行代金は1万7800円とちょっと贅沢な観光列車に仕上がっている。

↑水戸岡鋭治氏デザインの「ことこと列車」。内装は木を多用した造り(左上)で、2019(平成31)年3月から運行が始まった

 

【伊田線の旅⑤】直方駅近く複々線の上にかかる跨線橋だがさて?

ここからは伊田線の旅をはじめたい。その前に、30年以上前の脳裏に刻まれた風景をまず確認しておきたい。筑豊本線と伊田線の2本の路線が並び、複々線で走る区間だ。

 

筑豊本線と伊田線の2線が並んで走るのだから複々線でも不思議ではないのだが、30年以上前に訪れたときは線路がなぜ複々線なのか良くわからず、その規模に圧倒されたのだった。当時は4線すべてが非電化で、それも驚かされる要因の1つだったのだろう。筑豊本線(折尾〜桂川間)の電化は2001年(平成13)年のことだった。

 

直方駅から線路に沿って500mほど、石の鳥居が立つ跨線橋の入り口へ到着する。線路を挟んだ高台に多賀神社があり、その参道として設けられた跨線橋が2本ある。この跨線橋は参道跨線橋の2本めにあたり(正式名は「多賀第3跨線人道橋」)、ここで新たな発見をしたのだった。

↑直方駅の東口には力士の銅像が立つ。これは地元出身の魁皇の銅像だ。伊田線の乗り場はこの駅舎の南側に設けられる(左下)

 

跨線橋からは眼下に伊田線の複線と、並んで筑豊本線の複線が見える。複々線だから、列車が頻繁に走ると思うのだが、本数はそれほど多くない。現状の列車本数を考えれば過分にも感じる線路の数である。

 

この跨線橋を越えると「直方市石炭記念館」がある。外には石炭列車の牽引で活躍した複数のSLと、炭坑で使われた小さな電気機関車、さらに「救助訓練坑道」が残されていた。

 

「救助訓練坑道」は救護隊員の養成訓練用に設けられたものだとされる。幼いころに炭坑事故の痛ましいニュースをたびたび見た記憶があるが、こうした事故が起きた時のために救護隊員がいて、さらに養成訓練用の坑道まで設けられたとは、当時の炭鉱の資金力を改めて知ることになった。

↑多賀神社の南側の跨線橋の入り口。跨線橋からは筑豊本線と伊田線を行き来する列車が見える(左上)。架かる橋は不思議な形をしている

 

「直方市石炭記念館」の開館時間は9〜17時(月休)で、掘削、採炭、運搬などの炭鉱に関する貴重な資料が納められている(入館料は100円)。筆者の世代でも知らないことが多い石炭採掘の歴史に触れることができて勉強になる。

 

帰りは複々線を眼下に見て、跨線橋を越えて階段を降りた。振り返ると跨線橋が風変わりな形をしている。下から見上げると跨線橋自体が山形をしていて、中央部が盛り上がっているのが分かった。

 

実はこの跨線橋、転車台の台部分を転用したものだそうだ。上下逆にしてこの跨線橋として使ったそうである。どこの駅の転車台を転用したかは資料がなく定かでないが、中央部がどうりで山形をしていたわけである。ちなみにかつて直方駅構内にも転車台があったそうだ。

↑直方市石炭記念館の正面には貝島大之浦炭坑で半世紀にわたり働き続けたコペル32号が飾られる。右下は救護訓練坑道と使われた機関車

 

複々線区間と石炭記念館、アーケードを通り直方駅に戻る。そして2番線に停車していた田川伊田駅行き下り列車に乗車したのだった。

 

【伊田線の旅⑥】構内が非常に広い途中駅が目立つ

直方駅を発車する列車は1時間に2本が基本で、朝の7時台は3本出ている。列車の半分は伊田線の終点・田川伊田駅まで走り、田川線に乗り入れて行橋駅まで走る。また一部列車は金田駅から糸田線へ乗り入れる。第三セクター経営の路線としては本数が多いといって良いだろう。複線であることが活かされているわけである。ただし、大概の列車は1両編成なのだが。

 

列車はみなワンマン運転で、交通系ICカードは使えない。乗車する駅で整理券を受け取り、下車駅で現金での支払いとなる。1日全線が乗り放題の「ちくまるキップ」は大人1000円、沿線の日帰り湯の入湯料が無料になるなどの特典が付く。車内で販売されているが、有効日を運転士が書き込む手間がかかるために、下車時よりも直方駅(平成筑豊鉄道の改札は無人)などの始発駅で、乗車時にあらかじめ購入しておくことをお勧めしたい。

 

沿線の様子を見ていこう。

 

直方駅を出発した列車は次の南直方御殿口駅(みなみのおがたごてんぐちえき)までは筑豊本線と並行して走る。直方駅から南直方御殿口駅の先まで筑豊本線との並走区間が約1.7kmあり、つまり複々線区間がそれだけ続いていることになる。そして筑豊本線と離れて、左にカーブする。カーブするとすぐに遠賀川(おんががわ)を渡る。

↑直方駅から4つ目の駅、中泉駅は上下線の間が非常に開いていることが分かる。遠賀川を渡る伊田線の橋梁(右上)。

 

遠賀川とボタ山は、筑豊地方のシンボルとして五木寛之氏の小説「青春の門」やリリー・フランキー氏の小説「東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜」で描かれている。そんな遠賀川だが、明治20年代までは嘉麻川(かまがわ)と地図に記されていた。伊田線は1893(明治26)年2月11日開業ということもあり、遠賀川に架かる鉄橋の名前は「嘉麻川橋梁」と名付けられ今に至る。架けられた後に遠賀川という名前が定着していき、一般にもその名で呼ばれたそうである。

 

南直方御殿口駅、あかぢ駅、藤棚駅、市場駅、ふれいあい正力駅、人見駅と、みな平成筑豊鉄道になって設けられた駅である。直方駅〜金田駅間で、古くからある駅は中泉駅と赤池駅のみだ。国鉄もしくはJRから第三セクター鉄道へ移行した後にできた駅は各地に多いが、なぜ国鉄時代に、利用者を考えた駅を設けなかったのか、いつも疑問である。

 

伊田線の古くからある駅は、構内の大きさが目立つ駅が多い。例えば中泉駅。上り下り線用のホームがそれぞれあり、上り下り線の線路の間がとてもあいている。明らかにこの間に線路が昔あり、使われていたと推測できる。調べると中泉駅の近辺には大城(だいじょう)第一駅・第二駅という貨物駅があり、そちらへ向けての支線も設けられていた。中泉駅が集約駅だったようだ。ひと昔前にはこの駅構内は貨車がいっぱい停まっていたのだろう。

 

【伊田線の旅⑦】早春ならば桜がきれいな人見駅がおすすめ

中泉駅と共に古い赤池駅は、かつて近くに赤池炭坑駅があり、赤池駅のすぐ近くには信号場が設けられ、貨物支線がのびていた。このように伊田線には複数の信号場があり、貨物支線が設けられていたが、今はそれらの貨物支線は廃線となり、一方で多くの新駅が設けられていたのである。

 

金田駅の1つ手前の人見駅は開業が1990(平成2)年と、平成筑豊鉄道になって間もなく設けられたが、筆者が好む駅である。春先に訪れたがホームの裏手に桜並木があり、列車と駅と桜の組み合わせが美しかった。

 

美しい桜を目当てに撮影者が複数人訪れていたが、平成筑豊鉄道は、こうした絵になる駅が複数あることも魅力の1つといって良いだろう。

↑4月初旬に桜が満開となった人見駅。番線名は付いていないが、下りホームの裏手に桜が連なっていた

 

【伊田線の旅⑧】車庫がある金田駅で驚いたこと

伊田線の金田駅は平成筑豊鉄道の中心駅と言って良い。同駅構内に本社や車庫がある。運行している列車がみな気動車ということもあり、給油のためこの駅止まりとなる列車もある。平成筑豊鉄道を訪れるたびに途中下車する駅だが、この春に訪れて驚いた。

 

窓口は平日のみの営業となっていて、休日は無人駅となっていた。同社の「鉄印」は、この金田駅のみでの販売となっているのだが、無人の窓口の前になんと、鉄印の販売機が設置されていたのである。鉄印は全国の第三セクター鉄道を中心に40社が、御朱印を集めるように乗りまわろうと始めた企画だ。大半が有人駅で窓口販売となっているが、平成筑豊鉄道の場合、有人駅は平日を除きない。そこで苦肉の策として販売機での配布を始めたわけである。こうした鉄印の配り方ははじめてだった。ここまで省力化が徹底しているとむしろ気持ちが良いぐらいである。

↑平成筑豊鉄道の本社と車庫がある金田駅。休日には窓口に人が不在となるため「鉄印」も販売機での扱いとなる(右上)

 

無事に鉄印を手に入れ、駅の周辺を回ってみる。車庫に停車している車両が良く見えるが、そこに気になる車両が停車している。

 

キハ2004形という形式名の車両だ。この車両は、茨城県のひたちなか海浜鉄道を走っていた車両で、クリーム地に赤帯に塗装されている。これは、かつて九州で走っていたキハ55系の「準急色」であり、形式は違えど、準急「ひかり」のイメージに近かった。ということで有志が平成筑豊鉄道の路線を走らせようとクラウドファンディングで資金を募り、金田駅へ運ばれた車両なのである。

 

2016(平成28)年10月に運ばれた後に、有志の団体「キハ2004号を守る会」が中心となり、きれいに塗装し直して、動態保存されている。守る会により年に数回、運転体験が実施されている。

↑金田駅の車庫で保存されるキハ2004形(今年4月の状態)。左上は搬入され塗装し直した頃の2017(平成29)年5月27日の姿

 

今年の4月に訪れた際には薄い色のせいもあったのか、塗装状態が悪化していて心配したのだが、7月初旬には塗装の一部補修が進められたことが確認できた。

 

車両の保存活動というのは何かと困難がつきまとうと思われるが、なんとか成就していただきたいと願うばかりである。

 

この金田駅からもかつて貨物支線が設けられていた。車庫の西南側、今は立体交差する道路がある付近から三井鉱山セメント(現・麻生セメント)の専用線があった。2004(平成16)年3月25日に同線は廃止されている。ほかの貨物支線よりも長く保たれたが、この廃線により、平成筑豊鉄道での貨物列車の運行が終了している。

↑金田駅の車庫の奥にある検修庫と洗車機。その奥には2010(平成22)年に引退した300形304も保存されている(右下)

 

【伊田線の旅⑨】田川伊田駅の裏手に残る名物二本煙突

金田駅から先の旅を続けよう。金田駅からは1kmほど3本の線路が並行して走る。

 

進行方向左手の2本は伊田線の線路、右の1本は糸田線の線路で、田川後藤寺駅まで向かう。この糸田線の線路が金田駅の南にある東金田踏切の先で、進行方向右手に分岐していく。

↑左2本が伊田線の線路、右にカーブするのが糸田線の線路となる。ちょうど「スーパーハッピー号」403号車が通過した

 

こうした造りを見ると、かつて整備された線路網がそのまま活かされていることが良く分かる。ここまで過分な線路配置は必要ないようにも思えるのだが、大都市に比べて土地に余裕があることも大きいのだろう。

 

金田駅と田川伊田駅の間に、上金田駅、糒駅(ほしいえき)、田川市立病院駅、下伊田駅がある。糒駅を除き平成筑豊鉄道が生まれた後に造られた新しい駅だ。糒駅は前に紹介した中泉駅のように、上り下りの線路の間が離れている。かつてこの駅でも石炭貨物列車の運行が盛んで、引き込み線もあり、貨車の入れ換え作業が頻繁に行われた。

 

糒駅を過ぎると進行方向左手に彦山川が見えてくる。彦山川は前述した遠賀川の支流だ。筑豊本線、伊田線が開業する前は、これらの河川で石炭が運ばれていたそうだ。こうした船運に代わって、鉄道路線が設けられ、徐々に広げられていったわけである。

 

この彦山川が見えてきたら左カーブして終点の田川伊田駅へ入っていく。田川伊田駅止まりの列車は朝夕のみで、大半の列車は平成筑豊鉄道の田川線へ乗り入れて、行橋駅まで走る。

↑お洒落に改装された田川伊田駅。駅内にはホテルなどが設けられる。JRの通路などに一部、古い造りが残される(右上)

 

直方駅から田川伊田駅まで乗車時間が40分弱と短いが、全線複線非電化の旅は終わる。田川伊田駅ではJR九州の日田彦山線と接続し、田川伊田駅の先でなかなか興味深い運転体系が見られるが、今週はここまで。最後に田川伊田駅の話を締めくくろう。

 

田川伊田駅が近づくと「MrMax田川伊田駅」と車内アナウンスが流される。駅名標にもこの名前が記されている。これはネーミングライツの一環によるもので、MrMaxというディスカウントストアが田川伊田駅の権利を購入したことにより、この駅名が案内されている。平成筑豊鉄道では、ほとんどの駅に冠となる施設名がつけられている。その駅名は大企業のみならず、中小企業も名を連ねる。ネーミングライツにより、少しでも営業収益が上げられればという、それこそ涙ぐましい努力がうかがえる。

↑田川伊田駅ではJR九州の日田彦山線と接続する。入線する列車の後ろには2本の煙突が見えているが、この施設は?

 

田川伊田駅の駅舎はここ数年で装いを新たにしていた。3階建ての駅ビルが1990(平成2)年に建てられ、2016(平成28)年に田川市がJR九州から駅舎を購入し、きれいに改装され2019(令和元)年に駅舎ホテルなどがグランドオープンしていた。駅の1階には手作りのパン屋や、うどん屋があり、それぞれ賑わっていた。

 

1950年から1960年代、日本のエネルギーの劇的な変化があった。その変化の大きな影響を受けたのが筑豊だった。炭鉱は消滅したものの、鉄道路線は残され、多くの人々が今も暮らしている。かつての栄華の跡は、そこかしこに残され確認できるものの寂れた印象が感じられた。一方で田川伊田駅の駅名や駅舎などで見られるように、町の玄関口を少しでも活気を持たせようという取り組みも垣間見えてきて、頼もしくも感じたのだった。

↑田川伊田駅の裏手には三井田川鉱業の炭鉱があった。現在は「田川市石炭・歴史博物館」となっている。二本煙突が名物に