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2022/8/20 21:00

のどかな東京郊外を走る「JR五日市線」の10の秘密

おもしろローカル線の旅92〜〜JR東日本・五日市線(東京都)〜〜

 

東京の郊外を走るJR五日市線(いつかいちせん)。わずか11.1kmと短い路線ながら、路線の歴史、車窓の変化、廃線巡り、レジャーなど多彩な楽しみ方ができる路線だ。そんな路線に潜む10の秘密に迫ってみた。

 

*取材は2020(令和2)1月、12月、2022(令和4)年7月24日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【五日市線の秘密①】五日市鉄道という会社が開業させた路線

五日市線の概要をまずは見ておこう。

路線と距離JR東日本・五日市線:拝島駅(はいじまえき)〜武蔵五日市駅間11.1km
全線直流電化単線
開業1925(大正14)年4月21日、五日市鉄道が拝島仮停車場〜五日市駅(現・武蔵五日市駅)間10.62kmが開業、同年5月15日に青梅電気鉄道・拝島駅へ路線を延伸、6月1日に五日市駅を武蔵五日市駅と改称、9月20日、武蔵五日市駅〜武蔵岩井駅間が延伸開業
駅数7駅(起終点駅を含む)

 

今から97年前に五日市鉄道という鉄道会社により開業した五日市線は、終点の武蔵岩井駅の最寄りに石灰石の採掘場とセメント工場があり、貨物輸送を念頭に路線が敷かれた。開業してわずか1か月半で五日市駅を武蔵五日市駅と改称しているが、これは山陽本線にすでに五日市駅(広島県広島市)があり、同じ駅名の重複を避けたからである。

 

拝島駅〜武蔵五日市駅間の開業で始まった五日市鉄道の歴史だが、1930(昭和5)年7月13日には立川駅まで延伸開業している(詳細後述)。下記は昭和10年前後の五日市鉄道の路線図だが、当時は立川駅〜武蔵岩井駅間の路線だったことが分かる。

↑昭和10年前後に発行された五日市鉄道の路線図。秋川渓谷の景勝地を紹介するパンフとしてつくられたもの。筆者所蔵:禁無断転載

 

五日市鉄道が立川駅まで延伸した当時、東京郊外の鉄道は、私鉄の路線が多かった。立川駅を走る路線の中では、中央本線こそ官営だったが、青梅線は青梅電気鉄道、南武線は南武鉄道の路線だった。五日市鉄道を含めこれらの路線は旅客営業も行っていたが、採掘される石灰石やセメント、砂利などの貨物輸送が非常に多い路線でもあった。

 

日中戦争、太平洋戦争と戦禍が続く中、国は軍需産業の強化に乗り出す。セメント需要も高まっていき、輸送を行う路線の国営化が徐々に進められていった。五日市鉄道を巡る状況も慌ただしく変化していく。まず、1940(昭和15)年10月3日、南武鉄道と合併する。さらに1943(昭和18)年9月には南武鉄道、青梅電気鉄道、奥多摩電気鉄道との合併の仮調印が進められた。さらに1944(昭和19)年4月1日には、買収、国有化されて五日市線となった。

 

これらはほぼ国の指導で進められた。当時の国有化は半ば強制であり、支払いも戦時国債で行われた。戦時国債の現金化は難しく、戦後は超インフレで紙切れ同然となっている。戦時下とはいえ、無謀な形で〝買収〟されたが、戦後にこれらの路線が元の所有者に戻されることはなかった。鉄道会社の経営に関わっていたセメント会社が、大手財閥と関係が深い会社だったからだとされる。こちらはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示だったと今に伝わる。

 

【五日市線の秘密②】電化されたのは昭和30年代と遅かった

国有化された五日市線は、終戦前の1944(昭和19)年10月11日にまず立川駅〜拝島駅間の路線が〝不要不急路線〟に指定され、レールの供出などのため廃線となる。そして1949(昭和24)年6月1日に日本国有鉄道が発足し、国鉄五日市線となった。

↑戦前発行の五日市鉄道の絵葉書。旅客列車を牽き多摩川橋梁を渡るのはドイツ・コッペル社製1号蒸気機関車。筆者所蔵:禁無断転載

 

その後、大きな変化はなかったが、1961(昭和36)年4月17日に直流1500Vでの全線電化を果たす。青梅線(開業時は青梅鉄道)が昭和初期に電化されたのに対して、五日市鉄道は長年、非電化で、蒸気機関車が客車および貨車を牽く形での運行が続いていた。東京都内の路線としては、電化されるのが遅かった。

 

五日市線は長い間、拝島駅〜武蔵岩井駅間の営業が行われていたが、1971(昭和46)年に大久野駅(おおぐのえき)〜武蔵岩井駅間が廃止され、武蔵五日市駅〜大久野駅間の旅客営業は終了、貨物列車のみの運行区間となった。この貨物列車の運行も1982(昭和57)年には終了となり、武蔵五日市駅〜大久野駅間が廃止された。

 

11.1kmと短い路線ながら、歴史の荒波に揉まれた逸話が残る路線なのである。

 

【五日市線の秘密③】意外? 市の名前が付いた駅名が一つもない

現在、五日市線は昭島市、福生市、あきる野市の3つの市をまたいで走る。大概の鉄道路線では一駅ぐらい、地元の市町村名が付いている駅があるものだが、五日市線にはそうした駅名がない。複数の駅がありながら、こうした路線も珍しい。

 

始発駅の拝島は昭島市と福生市の境界上にある駅で、多摩川までは福生市を、多摩川の先であきる野市へ入る。実は前は町名と同じ名の駅があった。それは秋川駅で、以前は秋川市内の駅だった。ところが、隣の五日市町と1995(平成7)年に合併、秋川市の名前が消え、あきる野市となった。

 

一方で、拝島駅で接続する青梅線には市の名前がそのまま付いた駅が多い。福生市にある福生駅、昭島市にある昭島駅、青梅市にある青梅駅といった具合である。

↑拝島駅(右下)北の分岐点。右から八高線、中央が青梅線、一番奥が五日市線となっている。五日市線はこの分岐の先ですぐ単線となる

 

ここからは五日市線11.1kmの旅を始めよう。

 

五日市線の電車は、朝夕は立川駅まで直通運転し、日中は拝島駅〜武蔵五日市駅間を往復する電車が多い。使われる電車は豊田車両センターに配置されるE233系0番台で、6両編成で運転される。ちなみに2022(令和4)年3月12日のダイヤ改正以前は、中央線へ乗り入れる電車があったが、今は消滅している。青梅線には中央線の快速電車が直通運転しているのに対して、五日市線は立川駅または拝島駅での乗り換えが必要となる。

 

拝島駅を発車した電車は、駅の北側で平行して走る青梅線、八高線と分かれ、左に分岐する。線路はすぐに単線となり、住宅街の中を次の熊川駅へ走る。

 

次の熊川駅は左カーブする線路上にあるホーム一つの小さな無人駅だ。ここまでが福生市内の駅となる。駅を過ぎると間もなく前面に多摩川が見えてくる。

 

【五日市線の秘密④】5階建てビルの高さがある多摩川の河岸段丘

多摩川はこのあたりでは河岸段丘の地形を造り流れている。特に熊川駅側は段丘の地形がより良く分かる。五日市線は熊川駅の先から多摩川橋梁まで、築堤を走る。熊川駅の標高は119.6m、河岸段丘の下部は104.5m(国土地理院標高地図により計測)と15mほどの標高差がある。ビルにして約5階分の高低差がある。段丘の上に立ってみると、もっと高いように感じるのだが。

↑多摩川の河岸段丘を築堤で越える五日市線。その高低差は約15mあり線路のすぐそばに階段も設けられている(左下)

 

この巨大な築堤が生まれた逸話がある。実は五日市鉄道は建設当初、熊川駅付近は鉄道と歩行者共用のトンネルを掘り、河岸段丘の下まで通す予定だった。ところが資金難となり、現在の築堤の構造となる。約束を反故にしたこともあり、五日市鉄道は当時の地元・熊川村へ補償金を支払ったそうである。

 

今は立派な築堤が目立つ五日市線。車窓から見る風景も素晴らしく奥多摩などの山々が一望できる。春先は多摩川の堤防の桜並木も美しい。

↑五日市線の多摩川橋梁459.78m。前掲した戦前の絵葉書に比べると河原は草木に覆われている

 

【五日市線の秘密⑤】武蔵引田駅の乗降客が多い理由は?

多摩川を渡りあきる野市へ入る。沿線は工場や民家が次の東秋留駅(ひがしあきるえき)まで続く。この東秋留駅を過ぎると急に郊外の趣が強まり、進行方向右手には、畑地が広がるようになる。この付近は秋留台地と呼ばれる地域で、古くから畑作が盛んだった。

 

名産品としては初夏に収穫されるとうもろこしが良く知られている。あきる野市のとうもろこしは「秋川とうもろこし」と呼ばれ、甘味が強く一つ一つの粒が大きいのが特長だそうだ。東秋留駅から徒歩8分にはこうした地場産品を扱う「秋川ファーマーズセンター」もある。

 

東秋留駅から畑の風景を見ながら進むと、再び民家が多くなり秋川駅へ到着する。この駅は五日市線の中で最も賑やかな駅で、シティホテルなども駅前に建つ。この秋川駅を発車して間もなく、進行方向左右ともに畑地が広がる風景が続く。

 

ホームの前に畑が広がるのが次の武蔵引田駅(むさしひきだえき)だ。駅から農作業を行う様子が見えるのどかな駅だが、乗降客の多さが目立つ。多くが駅の北、徒歩10分ほどにある「イオンモール日の出」の利用者で、近くには大学のキャンパスもある。

↑畑の中にある武蔵引田駅。やや離れるものの南側を秋川が流れ、バーベキュー場もある(左上)

 

南には秋川が流れ、河畔にはバーベキュー場「リバーサイドパーク 一の谷」(徒歩18分)もある。秋川の対岸には「東京サマーランド」もあり、東京郊外を走る路線らしく、沿線にレジャー施設が多い。

 

武蔵引田駅の近くは畑地と五日市線の電車を絡めて撮影するのに最適なところだ。東京都内の鉄道路線で、これほど障害物がなく畑と電車が撮影できる場所は希少といって良いだろう。

↑ネギ畑の先を五日市線が走る。武蔵引田駅付近では、そば、のらぼう菜など多彩な作物が育てられている

 

農業体験が楽しめる畑地など一般の人たちにも畑が開放されているところもある。ちなみに、この武蔵引田駅から武蔵五日市駅にかけては、前述したとうもろこし以外に、「のらぼう菜」というこの地で江戸時代から栽培されてきた野菜も育てられている。胡麻和えやおひたしとして食べられるほか、そばやうどんに混ぜた商品も販売されている。

 

【五日市線の秘密⑥】武蔵五日市駅の手前にある信号場跡は何?

武蔵引田駅から先に進むと、正面に見えていた山が次第に近くに迫ってくる。風景が変わるなか、武蔵増戸駅(むさしますこえき)に到着する。平地が続くのはこの駅までで、ここまでほぼ直線で伸びてきた路線も、武蔵増戸駅から先は、近づく山の形に合わせて、右へ左へカーブしつつ走る。山景色が迫ってくるといつしか、電車は台地の縁部分を走り、眼下に五日市の町と秋川の流れが見えるようになる。

 

終点の武蔵五日市駅が近づき、到着の車内アナウンスが聞こえるころに、左に側線が分岐する地点にさしかかる。この場所が三内(さんない)信号扱所と呼ばれるポイントで、ここから武蔵五日市駅への路線と、武蔵岩井駅へ向かう路線(通称・岩井支線)が分かれていた。

↑かつて三内信号扱所と呼ばれたポイント。今は側線が1本あり、保線用の車両などが止められている。右は現在の武蔵五日市駅行き電車の路線

 

現在、三内信号扱所には側線が残り、保線用の車両が停められている。岩井支線が通っていた時代は、旅客列車は複雑な運転が行われていた。拝島駅を発車した列車は信号場を通過して武蔵五日市駅へ向かい、駅から三内信号扱所へスイッチバックで戻り、ここから大久野駅や武蔵岩井駅へ走った。貨物列車は武蔵五日市駅には立ち寄らず、直接、この信号扱所から大久野駅、武蔵岩井駅へ走っていた。

↑旧三内信号扱所から勾配をあがり、秋川街道の上空を高架橋で渡る電車。終点の武蔵五日市駅はこの橋を渡った先にある

 

武蔵岩井駅方面への分岐があった当時は、地上部を走り、武蔵五日市駅へ入っていた電車だが、1996(平成8)年7月6日に高架化され、同区間にある都道31号線・通称「秋川街道」をまたいで終点の武蔵五日市駅へ到着する。

 

【五日市線の秘密⑦】終点・武蔵五日市駅の高架構造も気になる

背後は山、前面には秋川が流れる武蔵五日市駅へ電車が到着した。拝島駅から所要17〜20分ほどと乗車時間は短い。山と川がすぐ近くにあるものの、高架上にホームがある近代的な造りとなっている。

 

階段を降りると駅の玄関があり、駅前には大きなロータリーが設けられ、秋川渓谷上流の檜原村(ひのはらむら)や、北隣の日の出町方面へ行くバスなどのターミナルとして利用されている。

↑五日市線の終点、武蔵五日市駅の駅舎。駅構内にはコンビニエンスストアや観光案内所などのほか、テラス席付きカフェもある

 

この武蔵五日市駅だが、ちょっと気になる構造をしている。終点の駅なのだが、ホーム端から線路がやや先に延びている。ホーム内に行き止まりの車止めがある構造を専門的には「頭端駅構造」と呼ぶ。この駅は先に路線を延ばすことができる「中間駅構造」として造られている。

 

秋川上流部にある檜原村から線路を延ばして欲しいという要望がかつてあったとされる。その後、延伸計画は具体化していないが、一応、延伸にも対応できる構造にしたようだ。

↑武蔵五日市駅の高架は電車ぎりぎりの駅の長さではなく、先に線路が延びた中間駅構造で造られている

 

【五日市線の秘密⑧】不思議なトレーラーバスと出会う!

五日市線の終点、武蔵五日市駅で興味深い乗物に出会った。SLの形をしたバスが駅のロータリーを発着、秋川街道方面へ走っていったのである。

 

小改造したバスは国内観光地で良く目にするが、ここまで姿を変えたバスも珍しい。このバス、日本で唯一の貨物用のトレーラーを改造して造られた「トレーラーバス」と呼ばれる車両で、武蔵五日市駅と日の出町にある日帰り温泉施設「つるつる温泉」を結ぶ。武蔵五日市駅が高架化された1996(平成8)年に導入されたバスで、愛称は「青春号」。日の出町が西東京バスに運行を委託している路線バスだ。

↑武蔵五日市駅を発車したトレーラーバス青春号。日の出町大久野にある「生涯青春の湯 つるつる温泉」へ約20分かけて走る

 

車内はレトロな造りで凝っている。トレーラー部分の客車には乗務員が乗り、マイクで行先案内が行われる。このバス乗りたさに、日の出町の観光施設をわざわざ訪れる人もいるそうだ。

 

【五日市線の秘密⑨】旧大久野駅へ向かう廃線跡で意外な発見!

トレーラーバス青春号が走る日の出町の秋川街道。ここにはかつて、武蔵五日市駅からも電車が走っていた。せっかく武蔵五日市駅までやってきたこともあり、廃線跡を少し歩いてみようと思った。

 

実は筆者は学生時代にロードレース用の自転車を乗っていたことがあり、トレーニングがてらに、アップダウンが続く秋川街道を好んで走った。当時、坂道の横をこげ茶色の電気機関車と黒い貨車が行き来していた様子を覚えている。そんな路線跡は今、どうなっているのだろう。

 

武蔵五日市駅から秋川街道沿いに歩くことわずかに500m、早くも廃線跡を示す遺構を見つけた。

↑秋川街道沿いに残る五日市線岩井支線の「鉄道柵」と頭が赤く塗られた「境界杭」、右上遠くに五日市線の路線が見える

 

道路と鉄道線路を仕切る古いコンクリート製の「鉄道柵」が200mほど連なっていた。その柵の下には、小さなコンクリート製の「境界杭」と呼ばれる杭が打たれていた。鉄道用地と、道路用地の境界を示す杭だ。頭の部分にわずかに赤い塗装が残っている。今は雑草が生え、新たにフェンスも建ち、柵の内側を見ることができないが、ここを岩井支線の列車が走っていたことが分かる。

↑遊具などが備えられた「語らいとふれあい公園」が旧大久野駅の跡地だ

 

秋川街道をさらに北上していく。老人介護施設や太平洋マテリアルの工場が街道筋にあり、途中、あきる野市から日の出町へ入る。日の出町の最初の集落が「大久野(おおぐの)」だ。この西側に岩井支線の大久野駅があったはずで、地図を見つつ進むと「語らいとふれあい公園」という名前の公園があり、幼児向けの遊具とともに、屋根付きのゲートボール場があった。

 

公園の看板を確認したが、ここが旧大久野駅であることを示す案内はなかった。40年前に廃駅となり、旅客駅だったのはすでに半世紀以上前のことであり、住む人の多くが駅があった当時を知らない世代にかわっていると思われる。廃駅のすぐ裏手には「たばこ」の古めかしい看板が残る廃屋や、レトロな建物の美容院もあり、このあたりが駅前であったことが確認できた。

 

旧駅跡の北側にはかつて線路が敷かれていた細い未舗装の道が、平井川という小さな川沿いに伸びていた。この先は私有地で無断立入禁止の立て札があり、先に進むのを諦めた。平井川の上流には太平洋セメントの日の出工場があり、武蔵岩井駅跡は現在、工場の駐車場として利用されている。

 

廃線跡を歩くと寂寥感におそわれる。特にこの岩井支線は山間部の路線のせいか、徐々にその跡が森に包まれて消えていくように感じられた。

↑旧大久野駅の北側から太平洋セメント工場内の武蔵岩井駅へと線路が延びていた。入口には「無断立入禁止」の立て札が建つ(左上)

 

【五日市線の秘密⑩】五日市鉄道が走った拝島〜立川間の路線跡

五日市線には岩井支線と同じように廃線となった区間がある。それは拝島駅〜立川駅間の路線である。

 

こちらは岩井支線よりも前、今から78年前の戦時中に姿を消している。下記の地図を見ていただくと分かるように、拝島駅〜立川駅間は青梅線の路線がすでにあり、南を迂回するようにして走っていた。戦時下の当時は、とにかく鉄資源が不足していて、不用と判断された鉄道路線は〝不要不急線〟とされ次々に廃止されていった。五日市線のこの区間は青梅線もあり、不用と判断されたのだった。直ちに線路は剥がされ軍事物資の生産へ転用されていった。

↑拝島駅〜立川駅間の廃線地図。途中駅から多摩川の砂利採取用の貨物支線も延びていた

 

↑拝島駅近くの旧五日市線が走っていた線路跡は「五鉄通り」として整備されている。五日市鉄道がここを走っていた案内板も立つ

 

この旧五日市線の廃線跡をたどると、そこに鉄道が走っていたことがあちこちで確認できる。例えば、拝島駅から徒歩3分ほど。「江戸街道」を渡った先から「五鉄通り」と呼ぶ遊歩道が延びている。五鉄とは、五日市鉄道の略称で、廃線跡にこうした通り名がつけられていた。さらに「五日市鉄道の線路跡」という案内板も道路の入り口に立てられている。

 

この地に鉄道の路線があったことを伝える車止めや転てつ機、さらに旧大神駅には鉄道関係の機器を使ったモニュメントが設けられている。また、この路線を造った五日市鉄道のDNAを受け継ぐ会社が実は今も存在している。この地に多くのバス路線を持つ立川バスこそ、五日市鉄道の歴史を受け継ぐバス会社なのである。今は小田急グループの一員となっているものの、五日市鉄道が走った当時よりも、そのバス路線は拡大され、地元の大切な足となっている。

↑旧大神駅には貨車の台車や信号機などのモニュメントが設けられている。近くを立川バスも走る(左上)

 

40年前に消えた岩井支線は廃線をたどってみても、駅や廃線跡に鉄道が走ったことを示す証がほぼなかった。一方で、拝島駅〜立川駅間の廃線跡は、通り名やモニュメントに、かつて鉄道が走っていたことを示す証が多く残されていた。この差は何なのだろう。戦時中、日常的に使っていた鉄道が半ば強制的に廃止された。しかし当時は国の政策に文句を言うことができなかった。だが、沿線には廃線を惜しむ人がそれだけ多くいたということを示しているのかも知れない。実際に旧沿線には住宅が建ち並び、もしこの路線が残っていたら今も利用する人が多かったことが予測できる。

 

とはいえ、元五日市鉄道の伝統を受け継ぐ、立川バスの路線網がこのエリアに広がっている。路線が残っていれば良かったのか、また廃止されて良かったのかは判断がつかないが、なかなか興味深い歴史の移り変わりである。

 

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