カメラの進化と共に時代を駆け抜けた山岳カメラザックメーカーの「ラムダ」がこの夏で幕を閉じるというので、8月下旬に急遽、川越の事務所兼工場を長年ラムダのザックを愛用する山岳写真家の菊池哲男氏と訪れた。
1階には縫製工場があり、急な階段を登った先に佐久間博社長の社長室 (作業場) がある。そこには山の写真や思い出深い山の道具が大切に飾られていた。
有限会社カメラザック・ラムダは1982年創業、今年で41年になる。「ラムダ」という社名の名付け親は昭和初期から活躍した山岳写真家の内田耕作氏。息子の内田亮氏 (元シグマ常務取締役) と同級生だったこともあり交流が深かったそうで、多くの山行を共にしたといい、思い出話が尽きない。
ラムダ・佐久間社長と山岳写真の出会い
戦後間もない頃、兄が小西六写真工業 (現在のコニカミノルタホールディングス株式会社) に勤めていたこともあり、当時としては珍しくカメラは身近な存在であった。中学の時、兄が会社で借りてきた「セミパール」を手にし、カメラの面白さを知る。佐久間社長自身が初めて購入したカメラは「フォクトレンダー ビトー II」。
登山は高校時代に始め、当時は登山ブームでクラスの仲間と奥多摩、丹沢、八ヶ岳などに登ったとのこと。卒業後、当時住んでいた高円寺の自宅に同級生が遊びに来た際、偶然近くで山の会の集まりがあると知り見学。その日に入会したのが「緑山岳会」だった。岩登り、冬山などバリエーションルート中心のクラブで、87歳になる今も八ヶ岳を登るという体力は、その中で培われたのだろう。
登山ブームの中、ラムダを立ち上げ
若かりし頃の佐久間社長は姉の婦人服メーカーで縫製を手伝うようになり、ここで縫製技術やミシンの修理までを覚えた。
その後、かつて四谷にあった山道具とスキーの専門店であるチョゴリザに10年程勤め、昭和57年に独立。登山ブームで様々な登山用品メーカーが誕生する中、登山用カメラザックの需要に目をつけ、山岳カメラザックのメーカーを立ち上げるに至ったとのことだが、創業当時は佐久間社長自身もここまで続くとは思っていなかったという。
レインカバーに至るまで自社生産にこだわる
ラムダのザックは、レインカバーもインナーバッグも全て内製である。作業工程を見学させてもらうと、慣れた手つきで大きい布をさっと広げ、そこへ型紙を当て線を引く。直線はハサミで一気に、曲線はカッターでゆっくりと切っていく。布の裁断は全て佐久間社長が一人で行なっている。些細なところではあるが、ファスナーを覆う部分は動きが良くなるように、布の伸縮率を考えて生地目を変えているそうだ。
縫製は、勤続35年の方もいるというベテラン従業員の出番。その手先は、薄い布であろうと、厚手の布であろうと、曲線であろうと、流れるように縫い合わせていく。その様はまさしく職人技だ。
アップデートを重ね、登山と写真をつないできた
なぜ山用のカメラザックを作り続けたのか尋ねると、「こだわりすぎた結果」とのこと。山岳カメラザックを作り続ける中、背負って歩いて検証して、改良して、その繰り返し。確かにラムダ製品の遍歴を見れば、同じように見えても細かい改良が積み重なっていることがよくわかる。現在、菊池氏が愛用している大型カメラザックの「4型」はなんと35年前から販売しているというが、雨蓋のサイズが初期より大きめに変更されている。
既存製品の改良だけでなく、製品ラインナップについても41年という月日の中、アップデートを続けてきた。当初は4×5判のフィルムフォルダーが入るスペースなどを考えた設計のザックから、デジタル一眼レフ、ミラーレス用の小型バッグ、インナーバッグを取り外せるタイプなど、カメラが進化していくのに合わせ常に変化し続けてきた。また、ユーザーが愛用しているザックの修理や要望への丁寧な対応も欠かさない。だからこそ多くの支持を受け続けてきたのだと納得させられる。
年齢から引退、閉業を決意したことを周囲に伝えると、引き留めの言葉と共に追加注文が殺到し、辞めるに辞められないと苦笑する佐久間社長。創業当時から登山と写真をつなぎ、その信念を貫かれてきた佐久間社長に敬意を表し、感謝の言葉で見送りたい。
※ラムダは2023年8月31日をもって閉業、製品の修理は今後1年ほど対応する。
〈文・写真〉武井 眸