スニーカー日和〈第2回〉
普通の日々の連続、それが幸せってことなのかもしれない
コバヤシモトユキさんは今、あえて人の姿の見えない身近な風景写真「スニーカーフォト」を提唱している。過去の記憶や記録を色濃く反映させた、自分自身を振り返る優しい写真撮影に、あなたも出かけてみてはいかがだろうか?
人の姿の見えない風景写真を始めよう
この連載の第1回を見ていただけただろうか?
「えっ、普通の写真じゃないですか?」
見た人のほとんどがそんな顔をする散歩写真かもしれない。
僕にとっての「スナップ写真」と「風景写真」は、その違いを「人物が入っているか、いないか」で単純に分けられると考えている。50mmレンズで撮る。関係のない人は写さない。それだけがルール。
コロナ禍の中、誰もいない街中に、なぜか開放感を感じた僕がいた。人物が写らなければ肖像権も関係ないし、他人に嫌な顔もされずに済む。街中、とりわけ都内でも人物を入れないで撮影する写真は、現代を象徴する都市風景に見えた。
満天の星空や絶景ばかりが風景ではないのではないか?
生まれた土地を写真に撮り、見返してみよう。カメラを持ちながら、気持ちだけをタイムスリップさせるのだ。
思い出の場所は、今も残っているだろうか?
失われた風景は戻らないが、今の風景であれば残しておくことができる。何げない風景かもしれない。でも家族や幼なじみに見せたら、きっと話題に花が咲くだろう。
だから、僕はそんな個人的な風景写真を「スニーカーフォトグラフ」と名付けた。
写真から人を除くと、見えなかったものが見えてくる
身の回りにある風景だって、写真から人を省いてみると見えなかったものが見えてくる。だから、「カメラを買っても何を撮ったらいいかわからない」なんて思ったら、まず、身の回りの風景を撮って自分探しに出てみないか? それがカメラを持った人の、写真の大きな楽しみのひとつだと思うからね。
小さなころ、両親に連れてこられた場所。いつも通りすがりの何気ない風景。僕は、人がいなくなるのを待って静かにライカのシャッターを切る。
「ここで小学校のころ、転んで泣いたなぁ。見知らぬ犬と出会ってさ」なんて自慢ができる写真で十分だと思わないか?
自分の住んでる周りを撮ってみると、案外、いつもは気づかない幸せに気がついたりしてね。田舎の親が健在で、中学生の息子が自分の背を追い抜いた。そんな生活。”普通” ってことが一番幸せなんだよね。