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人の姿がない身近な場所を撮ってみよう。きっと新しい発見がある【コバヤシモトユキのスニーカー日和②】

スニーカー日和〈第2回〉
普通の日々の連続、それが幸せってことなのかもしれない

コバヤシモトユキさんは今、あえて人の姿の見えない身近な風景写真「スニーカーフォト」を提唱している。過去の記憶や記録を色濃く反映させた、自分自身を振り返る優しい写真撮影に、あなたも出かけてみてはいかがだろうか?

コバヤシモトユキ「スニーカー日和」第2回
天気の良い日の公園などでは、スニーカーを脱いで裸足で撮影したりする。五感を研ぎ澄ます。木々の風に揺れる音に耳を傾ける。スニーカーも散歩写真の重要な機材なのだ。

人の姿の見えない風景写真を始めよう

この連載の第1回を見ていただけただろうか?
「えっ、普通の写真じゃないですか?」
見た人のほとんどがそんな顔をする散歩写真かもしれない。

僕にとっての「スナップ写真」と「風景写真」は、その違いを「人物が入っているか、いないか」で単純に分けられると考えている。50mmレンズで撮る。関係のない人は写さない。それだけがルール。

コバヤシモトユキ「スニーカー日和」第2回
遠景でも人が居なくなるまで待つ。画面にマスクをした人々が入らないことで、一枚の絵のような効果が得られる。

コロナ禍の中、誰もいない街中に、なぜか開放感を感じた僕がいた。人物が写らなければ肖像権も関係ないし、他人に嫌な顔もされずに済む。街中、とりわけ都内でも人物を入れないで撮影する写真は、現代を象徴する都市風景に見えた。

満天の星空や絶景ばかりが風景ではないのではないか?

生まれた土地を写真に撮り、見返してみよう。カメラを持ちながら、気持ちだけをタイムスリップさせるのだ。

思い出の場所は、今も残っているだろうか?

失われた風景は戻らないが、今の風景であれば残しておくことができる。何げない風景かもしれない。でも家族や幼なじみに見せたら、きっと話題に花が咲くだろう。

だから、僕はそんな個人的な風景写真を「スニーカーフォトグラフ」と名付けた。

コバヤシモトユキ「スニーカー日和」第2回
車窓の風景から光を感じ、季節が変わっていくのを感じる。さっと出せるスナップカメラが欲しいなと長年思っていたが、新しいカメラを買うまでもなくすでに持っていた。「ライカ M10-R」こそが、こんなスナップに最適なカメラなことに気が付いた。

写真から人を除くと、見えなかったものが見えてくる

身の回りにある風景だって、写真から人を省いてみると見えなかったものが見えてくる。だから、「カメラを買っても何を撮ったらいいかわからない」なんて思ったら、まず、身の回りの風景を撮って自分探しに出てみないか? それがカメラを持った人の、写真の大きな楽しみのひとつだと思うからね。

小さなころ、両親に連れてこられた場所。いつも通りすがりの何気ない風景。僕は、人がいなくなるのを待って静かにライカのシャッターを切る。

「ここで小学校のころ、転んで泣いたなぁ。見知らぬ犬と出会ってさ」なんて自慢ができる写真で十分だと思わないか?

自分の住んでる周りを撮ってみると、案外、いつもは気づかない幸せに気がついたりしてね。田舎の親が健在で、中学生の息子が自分の背を追い抜いた。そんな生活。”普通” ってことが一番幸せなんだよね。

コバヤシモトユキ「スニーカー日和」第2回
一輪車の置かれている風景はアメリカのニューカラーの写真家、ウイリアム・エグルストンの三輪車の写真集を思い出させた。そんな知識の集積も写真に写っていく。ひとりぼっちだった少年時代を思い起こしている自分がいた。
コバヤシモトユキ「スニーカー日和」第2回
カメラを持ち歩くと、何気ない写真を撮っている。事務所と家の中間地点にある公園で、コンビニのコーヒーを飲んで休むこともある。こんな小さな記録が、将来思い出と共に大切な写真になるかもしれない。もう、その時間は二度と戻らないものだから。