乗り物
鉄道
2023/4/8 21:00

正式名より通称が有名な「宇野線」のちょっと切ない現実。かつての栄光に思いを馳せる列車旅

おもしろローカル線の旅112〜〜JR西日本・宇野線(岡山県)〜〜

 

瀬戸大橋線と聞けば、瀬戸内海を渡り岡山県と香川県を結ぶ路線と多くの方がご存知だろう。では、宇野線はどうだろう? 実は、瀬戸大橋線は路線の通称で、岡山県側の岡山駅と茶屋町駅(ちゃやまちえき)間の正式な路線名は宇野線なのだ。

 

ここまで通称が一般化してしまい、正式名称があまり知られていない路線も珍しい。今回はそんな宇野線の旅を楽しんだ。

*2014(平成26)年9月1日〜2023(令和5)年3月12日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。

 

【関連記事】
黄色い電車に揺られ「宇部線」を巡る。炭鉱の町に歴史と郷愁を感じる

 

【宇野線の旅①】宇野線の一部と本四備讃線を合わせた通称が「瀬戸大橋線」

宇野線の歴史は古い。今から113年前の1910(明治43)年に路線の歴史が始まった。まずはその概要を見ておこう。

路線と距離JR西日本・宇野線:岡山駅〜宇野駅間32.8km、全線電化単線および複線
開業鉄道省官設の宇野線として岡山駅〜宇野駅間が1910(明治43)6月12日に開業
駅数15駅(起終点駅を含む)

 

山陽本線を開業させた山陽鉄道が、鉄道国有法により1906(明治39)年に国有化。4年後の1910(明治43)6月12日に山陽本線の岡山駅〜宇野駅間に官設の路線が敷かれた。この開業日に合わせて宇野港と四国、高松港を結ぶ連絡船の運航も開始。宇高連絡船の始まりである。

 

78年後の1988(昭和63)年の瀬戸大橋開通にともない、茶屋町駅〜宇多津駅間を結ぶ本四備讃線(ほんしびさんせん)も開業、本州・四国間を列車が走るようになった。この本四備讃線と宇野線の一部を合わせて「瀬戸大橋線」と呼ぶようになる。一方、宇高連絡船は長年にわたる役目を追え、宇野線も連絡船へのアクセス線としての使命を終えた。

 

瀬戸大橋の開通以降、宇野線の茶屋町駅〜宇野駅間17.9kmは瀬戸大橋線の支線の扱いとなり、ローカル色の強い区間となっている。

 

【宇野線の旅②】国鉄形のほかバラエティに富む走行車両

次に宇野線を走る車両を見ていこう。岡山駅〜茶屋町駅間はJR四国の車両が乗入れていることもあり、車両はバラエティに富んでいる。一方、茶屋町駅〜宇野駅間は普通列車が大半で、走る車両の種類も少ない。まず岡山駅〜宇野駅間を通して走る車両から紹介したい。

 

◆113系・115系電車

↑早島駅付近を走る115系電車。113系とともに大半が濃黄色で塗られている。JR西日本の車両は側面窓などリメイクしているものが多い

 

113系、115系ともに国鉄時代に製造された近郊形電車で、115系は山岳路線を走れるように電動機などが強化されている。岡山地区を走る両形式は一部を除き濃黄色で、全車が下関総合車両所岡山電車支所に配置され、宇野線の全区間を走る。

 

今後、広島地区に先に導入された227系が色を変更して岡山地区に投入される予定だが、岡山地区の113系・115系は車両数が昨年春の段階で209両と多いこともあり、まだまだ走り続けそうだ。

 

◆213系電車

↑宇野駅のホームに停車する213系。写真は中間車を改造した先頭車で、車両の縁が角張った個性的な姿をしている

 

国鉄時代の末期に造られた211系近郊形電車の側面の乗降ドア3つを2つに改めた車両で、JR移行後にもJR東海、JR西日本で製造が進められた。JR西日本の車両は213系の基本番台で、本四備讃線用に先行して導入され、当初は「快速マリンライナー」としても運用された。宇野線では現在2両編成の車両が中心に使われていて、特に茶屋町駅〜宇野駅間を往復する列車に使われることが多い。

 

宇野線の観光列車として親しまれる「ラ・マル・ド・ボァ」も213系を改造した車両で、同線の各駅のデザインや塗装は、この観光列車のイメージに合わせて変更されている。

↑213系を改造した観光列車「ラ・マル・ド・ボア」。白をベースにマリンイメージ+黒文字入り電車2両が宇野線を走る

 

ほかにも宇野線の岡山駅〜茶屋町駅間では多くの車両が走っているので、書き出してみよう。

 

◆JR西日本の車両

・285系 特急「サンライズ瀬戸」:JR東海との共同運行により東京駅〜高松駅間を走る。日本で唯一の定期運行される寝台特急でもある。

・223系:快速「マリンライナー」として岡山駅〜高松駅間を走行、JR四国の5000系と編成を組んで走る。

 

◆JR四国の車両

・8000系 特急「しおかぜ」:岡山駅〜松山駅間を走る電車特急。四国内では高松発着の特急「いしづち」と連結して走る。

・8600系 特急「しおかぜ」:一部列車はより新しい8600系で運行されている。

・2700系 特急「南風(なんぷう)」:岡山駅〜高知駅を走るディーゼル特急。一部はアンパンマン列車として運行される。同じ2700系を利用した徳島駅行、特急「うずしお」も一部列車が岡山駅へ乗入れている。

・5000系 快速「マリンライナー」:「マリンライナー」は岡山駅〜高松駅間を走る快速列車で、高松駅側に連結される2階建て車両が5000系となる。JR西日本の223系と編成を組んで走る。

 

ほかにJR四国の観光列車「瀬戸大橋アンパンマントロッコ」なども運行している。

↑宇野線を走る代表的な4車両。JR西日本の車両に加えてJR四国の車両が多く乗入れている

 

◆JR貨物の車両

EF210形式・EF65形式電気機関車+コンテナ貨車:宇野線(瀬戸大橋線)は貨物列車にとっても重要な路線で、岡山と高松を結ぶ貨物列車が1日に5往復(臨時列車を含む)走っている。貨車には目一杯にコンテナが積まれていることも多く、本州と四国を結ぶ大動脈として、活かされていることが分かる。

↑早島駅付近を通過する高松貨物ターミナル駅行き貨物列車。牽引するのはEF210-300番台エコパワー桃太郎だ

 

【宇野線の旅③】岡山駅から出発後、単線で山陽本線を越える

それでは岡山駅から宇野線の旅をスタートさせよう。岡山駅は中国地方最大のターミナル駅で、在来線のホームだけで1〜10番線まである。宇野線(瀬戸大橋線)方面への列車は5〜8番線から発車する。ホームの表示は「瀬戸大橋線」「宇野みなと線」といった具合で、宇野線の表示はほぼない。

 

5番線から発着の列車は少なく、6番線・8番線が特急列車や快速「マリンライナー」の発着で賑わう。両ホームの西側に行き止まり式ホームの7番線があり、ここから普通列車が発着する。宇野駅まで走る直通普通列車は、昼の運行列車(観光列車を除く)がほぼないものの、本数は1日に12本と多く幹線の趣なのだが、乗車すると様子が一変する。

 

本州と四国を結ぶ大動脈・瀬戸大橋線なのだから、岡山駅からのルートは全線が複線だろうと思いがちだが、岡山駅からは単線区間で始まる。

↑桃太郎の銅像が駅前に立つ岡山駅(左下)。山陽本線をまたぐ宇野線の単線ルートを快速「マリンライナー」が走る

 

【宇野線の旅④】宇野まで大きく迂回して走った理由は?

宇野線の単線区間は、まず山陽本線を高架橋で立体交差し、その後山陽新幹線の路線をくぐり高架線を走る。岡山市街を走る途中からようやく複線となり最初の駅の大元駅へ到着。この先も複線が続くのかなと思っていると再び単線区間へ入る。こうした複線区間と単線区間の繰り返しが茶屋町駅まで続く。走る列車が途中で信号待ちして、すれ違う列車を待つということも同線では珍しくない。

 

ここでちょっと寄り道。宇野線は連絡船が出港する宇野を目指して明治期に路線が計画された。地図を見ると疑問に感じるのだが、岡山駅から宇野を直接目指した路線にしては、西へ大きく迂回して走っていることが分かる。今でこそ瀬戸大橋へのアクセス線としては相応しいルートなのだが、宇野を目指したルートとしては遠回りになる。

 

これには理由があった。計画時、岡山市街の南に広がる児島湾は現在よりもずっと西へ入り込んでいたのである。そのため宇野線の線路敷設も西へ回り込むしかなかった。この児島湾は古くは奈良時代から干拓の歴史が始まる(後述)が、明治期に干拓事業が本格化、太平洋戦争をはさみ1956(昭和31)年に干拓事業が終了している。本稿でも最初に掲載した地図で、明治期の海岸線を記したが、明治時代の海岸線は宇野線の路線ぎりぎりまで入り込んでいたことが分かる。

 

このルートでは当然、時間も余計にかかるわけで、太平洋戦争後には短絡線の計画も持ち上がった。現在、国道30号が児島湾を突っ切って走るように、宇野線も児島湾を横切って走らせようとしたのである。具体的には岡山臨港鉄道の路線を活用し、児島湾締切堤防に沿って走る計画まで具体化された。実際に鉄道線用のスペースが現在も残っているそうだ。

 

ところが、この短絡線計画は頓挫してしまう。その理由は伝えられていないが、予算面での問題が浮上したのであろう。瀬戸大橋の計画は具体化する前だったが、結局、短絡線に切り替わらず児島湾を遠回りするルートのままとなったことが、後の瀬戸大橋線の開通に役立ったわけだ。

↑岡山から南へ敷かれていた岡山臨港鉄道(廃線)を活用して短絡線を造る案があった。写真は旧岡南新保(こうなんしんほ)駅跡

 

【宇野線の旅⑤】複線&単線区間、高架区間と複雑な路線が続く

予算面での問題は、実は複線と単線区間が入り交じる岡山駅〜茶屋町駅間でも起こっている。前述した大元駅付近では複線だったが、再び単線区間となり備前西市駅付近で複線となる。備前西市駅を通り過ぎると単線に戻り、妹尾駅(せのおえき)付近でまた複線になる。このように代わる代わる単線、複線区間が続いている。

↑備中箕島駅付近は単線区間が続く。この南側、早島駅〜久々原駅間でようやく複線区間が続くようになる

 

実は過去に岡山駅〜茶屋町駅間の複線化事業が具体化した時があった。2003(平成15)年には複線化を進めるために「瀬戸大橋高速鉄道保有株式会社」という第三セクター方式の会社まで設立された。複線化を推し進め、曲線改良工事の実施が計画された。会社設立には国と岡山県、香川県、愛媛県とJR西日本が関わったが、関係する自治体の温度差があったとされる。

 

香川県、愛媛県は列車の運行をスムーズにし、本数も増やしたい思惑が強かった。ところが岡山県側は、沿線住民の通勤・通学の足がより快適になれば良いわけで、最終的に事業費が削減され、早島駅付近の複線化を進めたのみで事業は終了してしまった。その結果、早島駅等での列車待ちは減少したものの、瀬戸大橋線を通過する特急や快速列車の所要時間が1〜2分短縮されたのみだったそうである。

↑早島駅付近の複線区間を走る8600系。早島駅付近は複線区間が続くものの曲線区間が連なる

 

こうした結果を見ると、各自治体の思惑が入り交じる公共事業は難しいことがよく分かる。また資金を投じても結果が現れにくいようだ。つい最近も西九州新幹線開業で佐賀県と長崎県の温度差が感じられるように、どの時代どの場所でも起こる問題なのだろう。

 

宇野線を南下すると岡山市街の街並みが途切れ、周囲に水田風景が広がり始める。早島駅、久々原駅(くぐはらえき)といった駅を過ぎると間もなく、本四備讃線と宇野線の分岐駅、茶屋町駅に到着する。

 

【宇野線の旅⑥】本四備讃線と離れローカル色が強まる

さまざまな車両が走り賑やかだった茶屋町駅までの区間だが、茶屋町駅の先は一転してローカル色が強まる。

 

前述したように岡山駅から宇野駅への直通列車は日中にほぼなく、茶屋町駅での乗換えが必要となる。岡山駅からの列車は4番線、また児島・四国方面からの列車は1番線に到着する。ドアが開いた向かいに宇野駅行き列車が停っていて、2番・3番線の両側のドアから乗車が可能な駅の造りになっている。

↑高架駅の茶屋町駅で宇野駅行への乗換えが必要。ホームには英語で宇野への乗換えはこちらと分かりやすく表示されている(左下)

 

訪れた日に乗車したのは115系の3両編成だった。乗車率はそれほど高くはなかったものの、訪日外国人の姿がちらほら見られた。宇野駅から上り列車にも乗車したが、地元の高校生たちの乗車が目立ち、ローカル線としては利用する人が多い路線のように見うけられた。

 

高松行、岡山行の両列車からの乗り換え客が乗車し、宇野行列車が発車。しばらくは本四備讃線の高架線を走ったのち、倉敷川を渡った先で分岐して高架を下りていく。高架をくぐり東へ向かうと、進行方向の左手には旧児島湾の干拓地が広がり、右手には小高い山が連なる。この山の麓を縁取るように列車は走っていく。前述したように、この沿線左側にはかつて海岸線がつらなっていたが、今は児島湾の湾岸ははるか先で、長い年月をかけて築かれた干拓平野が目の前に広がっている。

↑本四備讃線(瀬戸大橋線)の高架下を走る宇野駅〜茶屋町駅間を走る普通列車。この左側で線路は本四備讃線に合流する

 

ローカル色の強い宇野線区間に入って気がついたのは、多くの駅のホームが長いということだ。現在は2〜3両の列車ばかりで、持て余し気味の長さだ。つまり、宇高連絡船が使われた時代に造られたホームがそのまま使われているわけで、その長さがかつての栄光の時代を偲ばせる。

 

【宇野線の旅⑦】かつて島だった山を越えて終点の宇野駅へ

茶屋町駅の南側には小高い山々が連なり、また宇野線自体もこの山の麓を宇野へ向けて走っていく。今は児島半島と呼ばれる半島部になっているが、歴史をふり返ると、かつて児島半島は吉備児島(きびこじま)と呼ばれた島だったそうだ。

 

この吉備児島と本州の間は浅い海で隔てられていて、奈良時代から少しずつ干拓が進められた。さらに室町後期になると大規模な干拓が行われるようになり、江戸時代には本州側と陸地がつながった。

 

宇野線が走る多くの区間はかつて海だった。茶屋町駅の南側には小高い山が連なって見えていたが、ここは吉備児島という島の中心部だったわけだ。平野が広がるエリアのすぐ南側に山が連なり不思議に感じたが、かつての島がこの変化に富む地形を生み出していたのだ。

↑宇野駅のある地区は昔、吉備児島と呼ばれる島だったとされる。駅の北は小高い山々に取り囲まれている

 

児島湾側の最後の駅、八浜駅(はちはまえき)を過ぎると宇野線は右カーブを描いて山中へ。そして峠をトンネルで抜けると宇野の市街が進行方向左手に広がり始める。茶屋町駅からは約30分で終点の宇野駅に到着した。

↑カーブした路線に長いホームが残る宇野駅。駅舎は観光列車「ラ・マル・ド・ボァ」のデザインに合わせた白地に黒ライン入り(右下)

 

宇野駅は現在、海岸からやや内陸側に設けられているが、この駅は1994(平成6)年に移転した新しい駅だ。宇高連絡船が運航されていたころには100mほど港側に駅があり、東京・大阪方面からの直通列車が頻繁に発着していた。

 

引込線も多く、連絡船へのアクセス駅だったころは発着する列車に加えて貨物列車の入換えも行われていたとされる。しかし、いまではそんな華やかさはすっかり消え去り、駅前には大手家電店などの建物が立つ他の都市の駅前と同じ趣となっている。ホームは1本のみで1・2番線から茶屋町駅行、岡山駅行が折り返していく。

 

【宇野線の旅⑧】僅かに残る連絡船の遺構が寂寥感を誘う

宇野駅がやや北側に移動したこともあり、宇野港のフェリー乗り場、旅客船乗り場へは約400mの距離がある。散策にはちょうどよい距離なので、波止場まで歩いてみた。列車の発着にあわせてちょうど直島行、高松行フェリーが出港するところだった。

 

宇野線の列車に訪日外国人の姿がちらほら見られたのは、宇野港から直島へフェリーを利用して渡るためだったのだろう。直島は現代アートが楽しめる島として人気があり、島内に複数の美術館がある。宇野港から直島までは片道約20分と近く、運賃も片道300円と手ごろだ。

↑宇野港を出港する四国汽船新造船の「あさひ」。乗り場を離岸すると意外に早く沖合に出ていった。直島までは約20分と近い

 

直島行のフェリーを見送ったあと、港内をぶらぶら巡る。宇高連絡船の歴史につながる遺構を探していると、駐車場内にコンクリート製の大きな固まりがぽつんと残されていた。連絡船の発着に使われた埠頭の一部、連絡船の係留箇所だったところだ。

 

案内板には当時の写真付きで「宇高連絡船の遺構」という解説が記されていた。しかし、案内板は立てられてだいぶ経つせいなのかすっかり色あせていた。ここから宇高連絡船が出ていた歴史を知る人も徐々に減り、関心を寄せる人もあまりいないのかもしれない。

 

宇高連絡船が消えて早くも35年、宇野線は残されたものの、旅の終わりにこうした現実を知って、やや寂しい気持ちになったのだった。

↑宇野港を望む駐車場内に宇高連絡船の係留箇所が残る。案内板(左上)が立つが、掲載した写真や文字が色あせて読みづらくなっていた