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2019/3/2 18:00

複雑な事情で謎多き山岳路線「身延線」。鉄道ライターが現地たっぷり取材

おもしろローカル線の旅32 〜〜JR身延線(静岡県・山梨県)〜〜

 

富士山麓を走るJR身延線。首都圏近くを走りながら、乗ったことがないという方も多いかと思われる。筆者も恥ずかしながらこれまでに乗車したことがなく、本企画で初めて足を延ばしたのだった。

 

未乗車の路線というのは見るもの聞くもの初めてのことばかり。どこか心浮き立つことが多い。身延線はまさにそんな路線。そして「あれ、どうして?」ということも多かった。そんな謎多き路線を旅した。

 

 

【身延線の謎①】複雑怪奇な身延線の開業当時の歴史をたどる

身延線はほぼ富士川沿いに走っている。富士川流域はかつて水運を利用して、甲斐(山梨県)と、駿河(静岡県)を結ぶ物流の大動脈として発達した。

 

明治時代となり、時の政府は東京と各地を結ぶ交通手段として鉄道網の整備を急いだ。山梨へは笹子峠経由の鉄道建設が急がれ、1903(明治36)年に中央本線が甲府まで延伸された。

 

かつて物流の大動脈だった富士川流域。こちらの鉄道建設は後回しとなった。

↑身延線を走る特急「(ワイドビュー)ふじかわ」。静岡駅〜甲府駅間を7往復(臨時便を除く)走る。122.4kmという営業距離にも関わらず2時間20分ほどかかる。2019年度中には平行する中部横断自動車道が開通予定で特急の行く末が案じられる(詳細後述)

 

まずは身延線の概要を見ていこう

路線と距離JR身延線・富士駅〜甲府駅間88.4km
開業1928(昭和3)年3月30日、富士身延鉄道により全線が開業
駅数39駅(起終点を含む)

 

全通してから昨年でちょうど90年を迎えた身延線。その成り立ちを見ていくと、複数の会社が路線の開業へ立ち上がり、夢やぶれて立ち去ったことが分かる。身延線の歴史はそれこそ複雑怪奇だ。

 

全てを追うと大変なことになるので、大筋を見ていこう。

 

1890(明治23)年富士馬車鉄道(後の富士鉄道)が東海道線鈴川(現・吉原駅)〜大宮(現・富士宮駅付近)間に馬車鉄道線を開業させる
1913(大正2)年前年に富士身延鉄道が富士鉄道から路線を譲り受け、同年に富士駅〜大宮町駅間の蒸気鉄道を開業させる
1920(大正9)年身延駅まで路線を延伸させる
1938(昭和13)年鉄道省に借り上げられる
1941(昭和16)年国有化、富士身延鉄道から国鉄身延線となる

1920(大正9)年の身延駅まで延伸、さらに1927(昭和2)年に電化したものの、当時、日本一高いと言われる運賃で不評を買った。富士身延鉄道は経営に行き詰まってしまった。以降、延伸工事には政府が乗り出し、徐々に北へ路線を延伸させていく。

 

路線の延伸に政府が関わり、さらに1938年の路線の借り上げ。鉄道会社の歴史であまり見聞きしたことのない例だ。路線の国有化を念頭においての延伸工事への介入、借り上げだったのだろう。

 

路線が計画される前の明治期には、富士川電気鉄道といった会社も造られ、富士〜甲府間の路線の免許を取得していた。同社は当時の不景気により会社が消滅、計画が頓挫している。地方路線を開業、そして運行していく難しさが、こうした路線の歴史をたどるだけでも浮かび上がってきた。

 

 

【身延線の謎②】なぜ全線を通して走る普通列車が少ないのか

身延線の時刻表を見ていると、列車本数が多い区間と、少ない区間がはっきり分かれている。

 

静岡県側では富士駅〜西富士宮駅間の普通列車が15〜30分間隔で運行。山梨県側では甲府駅〜鰍沢口駅(かじかざわぐちえき)間を走る普通列車が30〜40分間隔で運転されていて便利だ。

 

一方で全線を通して走る列車は少なく、普通列車の運行が2時間ごとに運行されているといった状況だ。西富士宮駅〜鰍沢口駅間が閑散路線となっている。列車の少なさを特急「(ワイドビュー)ふじかわ」が補完する形で走っているが、特急なのでもちろん各駅に停まるわけではなく、各駅停車しか停まらない駅に行こうとする場合は不便だ。

↑山梨県側では、甲府駅発、鰍沢口駅行き(写真)の普通列車が多い。身延線で使われる車両はほとんどがJR東海の313系電車で、ワンマンで運転されている列車も多い

 

途中区間を走る列車が少ないという理由は、多くの方が推測されているとおり、山間部にある各駅の利用者が少ないこと。

 

利用者の少ない山間部に比べて、静岡県側では富士市と、富士宮市内に、また山梨県側では、甲府盆地の平野部に住まいが多い。そうした都市部の通勤・通学需要に合わせた結果、このような運行体系になってしまったわけだ。

 

身延線の謎解きの旅。起点となる富士駅からさっそく旅に出てみよう。今回は鉄道以外に、沿線の観光や富士川流域の歴史に触れつつ話を進めていきたい。

 

↑東海道本線の富士駅が身延線の起点となる。同じ富士市内にある東海道新幹線の新富士駅とは別の駅で(徒歩で20分弱、1.5kmほど離れる)、新富士駅から富士駅へはバスで約7分かかる

 

【身延線の謎③】富士宮はなぜ「やきそば」が名物となったのか?

富士駅の1、2番線ホームを発車した身延線の電車は、しばらく東海道本線と並走、次の柚木駅のアナウンスがされるころ、右にカーブを大きくきり、高架線へ入っていく。2つ先の竪堀駅(たてぼりえき)までは高架線が続く。

 

この高架線や、竪堀駅のホームからは迫力ある富士山の姿が前面に望める。

 

竪堀駅の先で地上へ降り、東名高速道路をくぐり、民家が点在する中を走る。起点の富士駅から20分で富士宮市の玄関口、富士宮駅へ到着する。

 

この富士宮市。富士山信仰の町として栄えてきた。富士の名に「宮」が付くことから分かるように、市内にある富士山本宮浅間(あさま、またはせんげん)大社は富士山信仰ではシンボリックな存在。駅から大社まで門前町が連なる。ちなみに駅から浅間神社までの距離は850mで11分ほどだ。

↑富士山本宮浅間大社の二之鳥居。この先に三之鳥居、楼門がある。天気に恵まれれば同鳥居からも富士山が眺望できる。ちなみに大社の奥宮は富士山山頂にある

 

ところで、富士宮といえば名物は富士宮やきそば。代表的なB級グルメとして全国にその名が知られている。どうして富士宮ではやきそばが人気となったのだろう?

 

富士山麓に広がる富士宮市は、湧水が豊富だ。街中でもあちこちに湧水が湧き出す様子が見られる。この湧水を利用した食品加工業が長年、発展してきた。さらに市内には麺の製造業者が4軒あり、長年にわたりやきそば麺を生産してきた。ちょうど2006年から開かれている「B-1グランプリ」では1、2回目と連続でグランプリに輝いたこともあり、その名が全国に知れ渡った。

 

富士宮やきそばは調理の仕方が独特だ。麺を強制的に冷して、油(ラード)でコーティング。独特の“太さ”と“コシ”を生み出している。さらに仕上げにイワシの削り粉をかける。

 

市内の飲食店の多くがやきそばを提供、また「富士宮やきそば学会」なる団体も生まれている。

 

↑富士山本宮浅間大社の二之鳥居の向かいにある「お宮横丁」。やきそばの店だけでなく、甘味や郷土料理などの店が集う。やはり地元で食べる富士宮やきそば(円内)は、水が良いせいなのか、特段においしく感じられた

 

 

【身延線の謎④】西富士宮駅の先、急カーブとトンネルが連なる謎

西富士宮駅から先は、普通列車の本数が減るとともに、急に線路が険しくなる。

 

特に西富士宮駅と身延駅との間は急カーブが続く。なかには半径200mという、現在の在来線で最小半径の基準とされる300mを切ったカーブも存在する。さらに25‰(1000m走る間に25mを上り下りする)という勾配もある。

 

身延線を走る普通列車313系電車も、特急用の373系電車も、同区間に入るとスピードを抑え「キーッ、キーッ」といった独特のきしみ音をたてて走り続ける。こうした路線ということもあり、運行計画を立てる上で重要な指標となる表定速度もあがらず、身延線の表定速度は50km/hという、かなり遅めのスピードとなっている。そのため特急でも富士駅〜甲府駅間88.4kmを1時間45分、普通列車は2時間30分以上の時間がかかってしまう。

 

↑普通列車は西富士宮駅から先は大きくカーブを描きつつ、次の沼久保駅へ向かう。かつては大カーブを走る列車の様子が展望できた西山踏切。付近は民家や工場が建ち並び、大カーブを見通すことが出来なくなっているのが残念だ

 

さらにこの区間のトンネルが狭小なサイズで造られている。電車が走るのにはぎりぎりサイズと言っていい。かつては狭小なトンネルがある路線を走る電車はパンタグラフが付く天井部分だけを低く下げていた。身延線を走った旧型電車もそうした天井部分を低くした構造の車両が走っていた。

 

JR東海の313系は、この身延線のサイズを基準にして造られている。現在のパンタグラフは、シングルパンタが一般化。柔軟性に富む構造のため、かつての車両のように屋根を低くする必要がなくなっているものの、313系などのJR東海の電車は身延線を走ることを考慮して製造されていることに代わりはない。

 

↑急カーブに加えて狭小なサイズで造られたトンネルが連なる身延線。西富士宮駅から先はこのような険しい路線が身延駅の近くまで続く

 

急カーブに狭小なトンネル。富士身延鉄道当時に造られた区間にはこのような特徴がある。もちろん、路線に沿って流れる富士川が日本三大急流でもあり、川の流れが複雑に蛇行しているため、その流れに合わせたということもある。

 

しかしスピードアップを目指すのであれば、橋梁やトンネルを利用して直線路で線路を通してしまう方法があったはずである。ちなみに、身延線は富士川沿いに走りつつも、一度も富士川の本流を鉄橋で渡っていない。全区間が富士川の左岸(東側)を通しているのだ。

 

これこそ資金難のため、ゆとりを持った線路建設ができなかった証しなのであろう。今も身延線には、そうした歴史が引き継がれている。

 

鉄道を通すのには厄介だった土地ながら、鉄道好きにとっては興味をそそる対象となる。乗っていて楽しい路線となる。カーブと狭小なトンネルも旅情を高めてくれる要素になっていることも確かである。

【身延線の謎⑤】なぜ山梨県はこの流域のみ南に突き出ているのか?

身延線を旅するにあたり地図を見ていて疑問に感じたこと。それはほぼ丸い形をした山梨県が南西部のみ、静岡県側に“不自然”な形に突き出していることだった。それも身延線が走る富士川流域のみだ。なぜなのだろうか。

 

山梨県の南端、富士川流域にある町が南部町(なんぶちょう)だ。南部という地名の起こりは興味深い。平安時代の末期にこの地を領地とした南部氏の名が起源になっている。南部氏はその後に子孫が岩手に移り住み、盛岡藩を長年にわたり領有している。12世紀に名を挙げ、子孫が他国へ移り住み、近代まで治めた。南部氏は稀にみる長い時代を生き抜いた武家であったことが分かる。

 

そんな南部氏が生まれた土地であるが、山梨県の起源、甲斐の国が富士川流域のみで南に突き出ているのは、南部氏とは関係が薄いようだった。

 

歴史が好きな筆者は、次の列車まで2時間待ちという合間を利用して、県境を越えてみようと考えた。そこには意外な歴史秘話が隠されていた。

↑身延線の路線では静岡県最後の駅となる稲子駅(いなこえき)。ホームからは県境にそびえる白水山(しろみずやま)などの険しい山々が見える。ただ隣の十島駅までは国道469号を通るルートがあり歩いても約2.7km 、45分ほどで越えることができる

 

身延線の静岡県最後の駅、稲子駅から国道469号を歩き、静岡県から山梨県を目指す。隣の駅、十島駅(とおしまえき)が、身延線の山梨県最初の駅となる。その距離は2.7km、歩けば45分ほどで到着できるはずだ。

 

ということで歩き出す。稲子の集落を抜けて、国道469号へ。山道ながら片側一車線の県境の国道だ。とはいえ、稲子駅からの道はひたすら登り。逆に歩けば良かったかなと反省する。

 

駅から20分ほどで県境へ着いた。ところが県境ということを示す看板はあるのだが、ほか何もない。あれれ?という思いがした。

 

↑国道469号の静岡県と山梨県の県境。身延線は峠の下をトンネルと通り抜けてしまう。同県境には何も表示がなかったが、実はここが葛谷峠という名の峠で、この写真の左側には葛谷城という古い城があることが後になって分かった

 

あっけもないくらいの県境があり、その先は山梨県となっていた。国道が拡幅され、また表示がないことから分からなかったのだが、県境は葛谷峠(くずやとうげ)で、フェンスに囲まれた立入禁止の箇所に葛谷城という山城があった(石碑もあるが、砂利採掘場となっていて立ち入ることができない)。葛谷城は16世紀初頭、今川氏が築いた。そののち武田家が攻め自軍の領地とした。

 

実はこの葛谷城、駿河の今川家と甲斐の武田家が争いを重ねた時の、攻防の地となった城だったことが分かった。

 

甲斐といえば、海なし県で、歴史書には必ず、海のない国としての宿命となった塩を他国に求める姿が描かれる。当時、駿河を領有した今川家は、塩を戦略物資として利用。塩を断つことを武器に甲斐と戦ったとされる。

 

このような地に甲斐武田家の最前線の城があり、それが今も県境となっている。ところが、そうした城跡の表示すら今は残っていないことが不思議だった。

 

↑国道469号の県境を越えて間もなく、富士川が見えてきた。江戸期には甲斐の鰍沢から河口まで米を運ぶために水運が利用された。明治期には水運を利用した運輸会社まで設立されたが、富士身延鉄道の全通後に、その役割を終えている

 

↑山梨県最初の駅の十島駅。駅は富士川沿いにある。同地区から山梨県側は富士川の東側を身延線が、西側を国道52号(身延道)が通っている。静岡県側の西富士宮駅〜稲子駅間よりも土地が開けている

 

そんな葛谷峠を越えて、あとは山梨県側に降りるだけ。山中に茶畑がひろがるとともに、富士川の流れが見えてくる。

 

間もなく山梨県側の最初の駅、十島駅に到着した。今回は、列車の合間の時間を利用して県境を歩いてみた。身延線の旅では途中、列車の本数が少なめなこともあり、合間を利用して観光スポットや歴史がある道を歩くなど、プラスのイベントを取り入れてもおもしろいかも知れない。さて、十島駅から先を急ごう。

 

↑身延線のちょうど中間点にある身延駅。特急「(ワイドビュー)ふじかわ」の停車駅となっている。特急を利用すれば富士駅から55分の距離

 

富士駅から普通列車を通して乗車すれば1時間15分ほどで身延駅へ到着する。起点の富士駅からは距離にして43.5kmあり、88.4kmある身延線の中間地点近くまで来たことになる。路線名にもなっているように、身延線の拠点となっている駅でもある。

 

身延駅は日蓮宗の総本山、身延山久遠寺(バス利用で駅から12分)への参拝や、南アルプスへの登山の起点として利用する人たちが多い。

 

↑沿線から身延山(標高1153m)を望む。麓に身延山久遠寺があり、頂上に奥之院思親閣がある。山頂へは身延山ロープウェイがかかり麓の久遠寺駅から7分で到着する。頂上からは富士山や南アルプスなどの大展望が楽しめる

 

【身延線の謎⑥】駅の名は「波高島」。さてその読みがなは?

身延線には難読駅がいくつかある。内船駅(うつぶなえき)、久那土駅(くなどえき)、鰍沢口駅(かじかざわぐちえき)、金手駅(かねんてえき)といったところが代表的なところだ。

 

↑小さな駅舎の波高島駅。無人駅だが、上り下り列車の交換施設がある。駅近くは民家が数軒あるぐらいだが、富士川を渡った先に国道52号が通り、大小工場群や民家が多く立ち並ぶほか、山梨県クラフトパークといったレジャー施設も広がる

 

さて身延駅の2つ先の駅も難読駅といって良いだろう。駅の名は波高島。さて何と読む?

 

答えは「はだかじま」。

 

元は畑ヶ島と呼ばれた地域で、それがいつしか波高島となったとされる。波が高い島(島は地域という意味を含んだ)と書く理由は、富士川は流れが急で波が高いから。治水が満足に行われなかった時代、川の近くは耕作地として適さなかった。人々は川の波を逃れて水害の少ない高地で耕作を行った。

 

「波高島」は富士川水運の船着き場としても栄えた。富士川流域にはこのように、富士川と縁が深い土地名が付けられたところが散見される。

波高島駅の南で渡るのは常葉川。身延線はこの北、しばらく富士川の本流と離れ、支流の常葉川にそって山間部を走る。すでに静岡県との県境は通り抜けているが、路線の囲む景色はより険しくなり山里に分け入っていく印象が強まる

 

さて波高島駅を発車した列車は、富士川流域と離れ、支流の常葉川(ときわがわ)沿いを走り始める。

 

市ノ瀬駅〜久那土駅間は、民家が無く山の中をトンネルで抜ける。とはいえ、富士身延鉄道が独自で開通させた区間に比べて、当時の政府が建設に関わった区間のためか、極端な急カーブはなく、スムーズに列車は走る。

 

甲斐岩間駅に出れば、再び富士川流域へ出る。

 

2つ先の鰍沢口駅(かじかざわぐちえき)で甲府盆地の南端へ出る。この先は、山々に囲まれた甲府盆地の風景が目の前に広がる。

 

【身延線の謎⑦】富士山より八ケ岳の景色がより楽しめる理由

鰍沢口駅からは列車の本数も増え、甲府の近郊路線といった趣が強くなる。甲府盆地は四方を美しい山景色に囲まれる。身延線の車窓からは特に八ケ岳の眺めが素晴らしい。

 

↑笛吹川橋りょうの先に八ケ岳が見えた。身延線は路線に沿って流れる富士川を一度も渡らずに走るが、山梨県に入り笛吹川と名を改めた川をこの橋で始めて渡ることになる

 

とくに甲斐上野駅から先の堤の上から、さらに笛吹川橋りょうへと緩やかにカーブしていくその区間からの八ケ岳が美しく見える。

 

対して、富士山はと東南側を望むのだが、富士山を取り囲んでいる山並みの標高が高く、なかなか見えない。甲府盆地で望む富士山と八ケ岳ではだいぶ差がある。すり鉢状をした盆地からは視界を遮る山が有るかないかが肝心なわけだ。

 

↑甲府盆地は米どころでもある。秋ともなれば実る稲穂越しに身延線の列車が走る姿を望むことができる(小井川駅〜常永駅間で)

 

↑常永駅付近から見た富士山。甲府盆地では富士山が近いにも関わらず、その手前に釈迦ケ岳、烏帽子山など、標高の高い山が連なるため、頂上部分しか望むことができない

 

終点の甲府駅が近づくに連れて、急に利用者が増え始める。カーブ上に造られた善光寺駅を過ぎれば、まもなく中央本線と合流する。次の金手駅(かねんてえき)は、平行して走る中央本線には駅がなく身延線のみに駅が設けられる。

 

「金手」とかいて「かねんて」という読ませる難読駅だが、その語源はこの地を通る旧甲州街道の形にある。城下町らしくクランク状に道路がなっていて、この形のことを「鍵手(かぎて)」呼んだ。それが訛って「かねんて」と呼ばれるようになったとされる。

 

【身延線の謎⑧】さて甲府駅近くに建つ甲府城の旧主は誰?

甲府駅が近づくと左手に甲府城の石垣が見えてくれば終点、甲府駅も間もなくだ。さて、この甲府城、代表的な主(あるじ)と言えば?

 

↑身延線が走るすぐ横にそびえる甲府城。舞鶴城とも呼ばれる。左に写るのは復元された稲荷櫓。同城趾は山梨県の史跡に指定されている

 

↑身延線のホームは甲府駅の4・5番線ホーム。特急「(ワイドビュー)ふじかわ」は左の4番線ホームから発着する。身延線のホームは駅の東端にある。甲府駅での乗降や、乗換えは1番線ホームを経由して歩く必要がありやや不便だ

 

↑甲府駅近く、線路沿いに設けられた「甲府夢小路(ゆめこうじ)」。明治、大正、昭和初期の甲府城下町を再現したとされる。アンティークショップやギャラリー、ダイニングやカフェなどの店舗が連なり楽しめる

 

甲斐といえば、戦国時代に甲斐を治めた名将・武田信玄の名が良く知られている。甲府駅前にも信玄の銅像が立つが、甲府城の主は信玄ではなかった。信玄は四方山々に囲まれた甲斐の国全体を一つの城と考え、あえて攻防のための城や、領主として住むための城を設けなかったとされる。

 

甲府城が造られたのは武田家が滅びたあとの1590年のことで、羽柴秀勝(豊臣秀吉の甥)が甲府城主となり、甲府城を築城した。関ヶ原の戦い以降は徳川の城となり、柳沢吉保らが城主となる。柳沢家が転封された後は幕府の直轄領となり、城は甲府勤番の支配下におかれた。

 

長い間、甲斐を治めた大名が存在しなかったこともあって、甲府城の主といわれても印象が薄いというのが現実だったのである。

 

 

【身延線の謎⑨】リニア新幹線の新駅と身延線を接続させない謎

今回、乗って旅した身延線が、来年には大きく変わる可能性がある。

 

身延線とほぼ平行したルートに建設が進む中部横断自動車道の新清水JCT(新東名高速道路と接続)と双葉JCT(中央自動車道と接続)間74.5kmが開業する。この中部横断自動車道開業後の高速バスの運行はまだ未発表だが、当然ながら静岡駅と甲府駅を結ぶ高速バスの運行が予想される。

 

新開業の高速道路を通って静岡駅と甲府駅が結ばれれば、現在2時間50分ほどかかるバスの所要時間も、約1時間の時間短縮が予想される。ちなみにバス便は片道が2550円(しずてつエクスプレスバスを利用)ほど、特急は所要2時間20分で、4100円(自由席利用の場合)かかる。高速料金が割り増しとなるものの特急の利用料金よりは安くなると見られる。

 

↑波高島駅付近を走る特急「(ワイドビュー)ふじかわ」。同駅付近では中部横断自動車道の高架橋工事がだいぶ進んでいた。同自動車道は2019年度中に開通予定で、平行して走る身延線の運行にも大きな影響が出そうだ

 

時間も短縮され、料金も割安となれば、高速バスが圧倒的に有利になるだろう。対してカーブが多くスピードアップが難しい身延線の特急列車は不利になる。現在、JR東海は1年後の身延線の運行予定を明らかにしていないが、おそらく特急列車は減便となりそうだ。

 

↑2027年度に開業予定のリニア中央新幹線は身延線の小井川駅付近を交差する予定。同駅付近で接続駅が造られるという予想もあったが、新駅は東側の甲府市大津に造られることになった

 

さらに身延線にとって残念なことがある。2027年度に完成する予定のリニア中央新幹線の新駅が、路線と交差する小井川駅(こいかわえき)でなく、離れた甲府市大津に決まったのだった。

 

在来線というせっかくの公共のインフラをなぜ利用しないのだろう。しかもJR東海の自社の路線なのに。使う側の便利さを念頭におかれずに決められた新駅。身延線は今後どうなってしまうのだろう。置き去りにされた状態にならないことを祈るばかりだ。

 

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