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2020/5/31 18:30

もう二度と列車が走らないーー「日田彦山線」の名物めがね橋を振り返る

【日田彦山線の記録⑥】不通区間に名物めがね橋が連なっていた

訪れた当時の乗車記をひも解いてみよう。

 

彦山駅を過ぎると、いよいよ分水嶺を越える。勾配区間が続き、全長4,380mの釈迦岳トンネルへ。抜けた先は、棚田の風景で知られる東峰村である

(学研プラス刊「九州極上列車を楽しむ!」より)

 

東峰村の棚田はみごとだった。トンネルとトンネルの合間から、眼下に棚田が望めた。標高差160mの斜面に約400枚の棚田が並んだ。農林水産省が選定する「日本棚田百選」にも選ばれている。この棚田が豪雨の被害を受けた。そしてこの地を列車が走らなくなった。

↑栗木野橋りょうは3つの橋の中で最も雄大な姿を誇る。長さは71m。橋の下には棚田が広がっていた

 

棚田を見下ろす間に列車は3つの橋を渡っていた。地元では「めがね橋」とよび親しんできたコンクリート製のアーチ橋だ。この橋りょうはみな、太平洋戦争の直前の1938(昭和13)年に着工されたもの。当時は日中戦争が始まった時期ということもあり、鉄需要がひっ迫していた。そのため、鉄を満足に使うことができなかった。3つの橋はそのため「無筋コンクリート充腹アーチ橋」と呼ぶ構造をしている。

 

つまり鉄を使わない弱さをアーチ構造の技術により補っていたわけである。その特殊な構造から栗木野橋りょうと宝珠山橋りょうの2つの橋は現在、経済産業省の近代化産業遺産に指定されている。3つの橋はみな曲線構造が見事で美しかった。上空を見上げると、コンクリートのわずかなすき間から、草木がにょきりと生えだし、アーチの下には大きな蜂の巣がぶらさがっていた。

↑宝珠山橋りょうは長さ約80mと3つ橋りょうのうちで最も長い。橋のすぐ近くには民家や棚田が連なっていた

 

↑第二大行司橋りょうは長さ約55m。4連アーチ橋だが、樹木におおわれていて全貌は見通すことができない

 

実は3つの橋は太平洋戦争前に完成していたもの、その先の釈迦岳トンネルの工事に手間がかかり、3つの橋がかかる区間の路線開業は1956年とだいぶあとのことになった。鉄を使わない橋を焦って造る必要は無かったわけである。

 

時は戦時下で筑豊地方からの輸送ルートを確保するため等の、開業を急ぐ理由があったのだろう。そうした戦前の計画性のなさが、この美しい3つの橋を生み出すことになった。このあたり歴史のおもしろい部分である。

↑沿線は美しい棚田とともに、ホタルの里としても知られている。すぐ近くには河川の流れを活かした棚田親水公園もある

 

【日田彦山線の記録⑦】魅力いっぱいだった沿線途中の無人駅

路線の魅力は3つの橋ばかりではない。途中で降りた駅も多くが魅力に満ちていた。なかでも興味を持ったのが大行司駅と宝珠山駅だった。列車が走った当時の様子を振り返ってみよう。

 

まずは大行司駅からだ。木造駅舎を抜けるとホームへ登る階段があった。階段はちょうど77段だった。大行司駅の駅舎は、残念ながら豪雨により倒壊してしまった。

↑大行司駅の木造駅舎。案内表示が何ともレトロだった(左上)。写真の駅舎は豪雨で倒壊、その後、村により2019年12月に再建された

 

↑駅舎から77段という階段を上がった上にホームがあった。豪雨災害時には気動車が2両取り残された。その後、車両は搬送されている

 

大行司駅の一つ大分県側の駅、宝珠山駅にも立ち寄ってみた。この駅もなかなか楽しい駅だった。同駅は福岡県東峰村の駅だが、ホームの3分の2地点に「県境の駅」という案内柱が立っていた。足下には同村特産の小石原焼の陶板が線状に埋め込まれていた。この陶板から南は、大分県日田市であることを示していた。駅自体が県境にあるというのもユニークで、なかなか楽しかった。

↑宝珠山駅の木造駅舎。古めの建物に見えるが、新しく1998年に建て替えられたもの。ホームには県境の駅を示す柱があった(右上)

 

【日田彦山線の記録⑧】列車は彦山や日田を今後通らないことに

訪れた2つの駅は後から気付いたことだが、みな東峰村の駅だった。村には他に筑前岩屋駅もあった。筆者は筑前岩屋駅を訪れる機会はなかったが、写真を見ると、木造でなかなか絵になる駅だったようである。

 

2駅を訪れてみて、東峰村の人たちが「村の駅」を非常に大切にしていたことが良く分かった。大行司駅は、倒壊した駅を村で直したほどである。もう東峰村の駅には列車がやって来ることはない。村の人たちに列車運行の廃止を悲しむ声が強いことも非常に理解できるように感じた。

 

路線の名前は日田彦山線である。ところが列車は小倉駅から添田駅までしか走らなくなった。路線の名となっている彦山そして、日田へ、小倉から列車で直接行くことはかなわなくなった。矛盾を抱えつつ日田彦山線は次の時代を迎えることになる。

↑大鶴駅〜今山駅間を走る日田駅行列車。大分県内に入ると、車窓にはのどかな田園風景が広がった

 

↑久大本線の夜明駅に停車する日田彦山線の小倉行列車(右)と、久大本線の下り列車(左)。こうした情景も過去帳入りしてしまった

【日田彦山線の将来】すでにBRT化された路線を見ると

日田彦山線のBRTを使った復旧計画ではJR九州は釈迦岳トンネルの前後部分7.9kmをバス専用道として整備し、ほかは一般道を走る計画だとされる。しかし、福岡県では7.9kmの専用道を、さらに宝珠山駅付近まで14.1kmほどに延長することをJR九州に求めていくとしている。このことにより最後まで鉄道を復旧させることにこだわった東峰村の村内では専用道を整備して、鉄道に近い形で復旧させたいというプランを示した。今後は、JR九州と福岡県との折衝により、この専用道の距離が決められていくことになる。

 

BRTに化した最近の例としては2011年の東日本大震災以降、鉄道による復旧を断念したJR東日本の2路線の例がある。大船渡線と気仙沼線だ。それぞれ、復旧可能な区間はBRT専用線として整備され、専用バスが、一般交通に邪魔されることなく、運行されている。駅は小規模ながらバス乗降場所として整備された。

↑東日本大震災後、鉄道による復旧を断念した気仙沼線は、その後BRT化に向けて整備を開始、2012年から本格的な運行を始めた

 

ここからはJR東日本の気仙沼線、大船渡線を筆者が乗って、そして見た長短について触れておこう。

 

気仙沼線は2012年に、大船渡線は2013年にBRTが運行開始された。すでに運行が始められてかなりの年数がたつ。BRT化の長所は、バスは鉄道よりも修正や変更が容易ということだろう。JR東日本の例でも駅(停留所)を増やしている。専用道からやや逸れて病院や学校に寄り道することも行われている。増便、増車もしやすい。専用道区間では、一般道の渋滞に巻き込まれる心配もない。

 

一方で、鉄道車両に比べると定員数が限られる。筆者は大船渡線BRTに乗った時に、混んでいたせいもあり窮屈に感じた。乗りきれない人も出ていた。大船渡線の場合は、専用道の舗装状態があまり良くなく、スピードを出した時は、思いのほか揺れを感じた。むしろ一般道を走っている時の方が乗り心地は良かった。とはいえ一般道を走る区間では、朝夕の渋滞に巻き込まれる。あとは、対向するバスの信号待ちがあることが短所に感じられた。

 

JR東日本では2020年4月1日に、両線の鉄道事業の廃止が行われた。この鉄道事業の廃止により、BRTバスが今後、どのように変化していくだろうか。今のところ鉄道事業の廃止から間もないこともあり、その影響は出ていないようである。

 

日田彦山線も鉄道路線の復旧は適わず、BRT化が進められることになった。鉄道好きとしては大変に残念であるものの、JR九州の経営状況などの避けがたい事情があった。形は変わるもののBRTによる復旧が、沿線に住む人たちにとって、不便にならないことを祈るばかりである。

 

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