1791年に創業したジラール・ペルゴは、時計界屈指のマニュファクチュールブランドです。時計好きには「GP」の愛称で親しまれているこのブランド、実は日本とも深い関わりを持っていることをご存知でしょうか。幾つもの興味深い歴史を持つジラール・ペルゴの、現在までの軌跡を取り上げていきます。
CHAPTER
01 二人の創業者と現社名の由来
02 スリー・ゴールド ブリッジの誕生
03 創業者一族と日本の関係
04 現代まで生きる名機の誕生とクオーツ時計発展への貢献
05 革新的な複雑時計の開発で見せる名門の矜持
06 創業226年から始まる新たな歴史の幕開け
→ジラール・ペルゴの最新トピックス
二人の創業者と現社名の由来
創業225年以上の歴史を持つジラール・ペルゴには、二人の創業者がいます。
ひとりは、19歳で初めて時計を作り上げてから、当時のジュネーブで最も整った時計工場を設立した、真の意味での創業者であるジャン=フランソワ・ボット。
彼は、超薄型ポケットウオッチで歴史に名を残す有能な時計師である一方、工房でムーブメント、ケース、文字盤、ジュエリー、オートマトンなどを手がけ、国外にも販路を広げるなど、経営面でも優れた手腕を発揮していました。
そしてもうひとりが、ジャン=フランソワ・ボットが設立した工房を引き継ぎ、その技を現代まで残すきっかけを作ったコンスタン・ジラールです。
現在の社名は、彼と、時計商の娘だったマリー・ペルゴの結婚がきっかけとなっています。
スリー・ゴールド ブリッジの誕生
ジラール・ペルゴ社となってからの歴史は実に華やか。1867年にはパリ万国博覧会に出展したトゥールビヨンで金賞を受賞。
1889年に同じくパリで開かれた万博では「ラ・エスメラルダ」を出品し、再び金賞を受賞しています。
一方、1880年にはドイツ海軍将校向けの腕時計の開発にも着手し、初の量産品となる2000本の腕時計を製造。このような新たな取り組みにも、果敢に挑んできたのです。
創業者一族と日本の関係
こうしたチャレンジ精神は、流通面にも見ることができます。
マリー・ペルゴのふたりの兄弟は、共に海外に市場開拓に出ていきます。アンリ・ペルゴは南北アメリカ、フランソワ・ペルゴは日本を目指し、ジラール・ペルゴの時計を広く売り出したのです。
ちなみに、フランソワ・ペルゴはその生涯を日本で終えました。彼のお墓は横浜の外国人墓地にあり、毎年の命日には時計関係者による「フランソワ・ペルゴを偲ぶ会」が行われています。
現代まで生きる名機の誕生とクオーツ時計発展への貢献
開発の主流が腕時計へと移り変わると、アールデコ洋式を反映した角形時計を1945年に発表。この時計の伝統は、現行の旗艦コレクション「ヴィンテージ 1945」へと継承されています。現行の「1966」も同じく、1960年代に製造されていた丸型ドレスウオッチのエッセンスを受け継いだモデルとなっています。
また、ジラール・ペルゴはクオーツ時計の開発でも目を見張る活躍を見せます。
一般的に知られている世界初の量産型クオーツ腕時計と言えば、日本のセイコーが1969年に発表したアストロンですが、この時計の水晶振動数は毎秒8192Hzでした。対して、ジラール・ペルゴが1970年代に開発したクオーツウオッチは、3万2768HZ。
クオーツも機械式も振動数は早いほど正確となるので、精度ではジラール・ペルゴが勝っていたということもできるでしょう。
ちなみに、この3万2768HZという振動数は現在のクオーツ時計の標準となっています。いわば、ジラール・ペルゴもクオーツ時計の発展に欠かせないブランドだったわけです。
革新的な複雑時計の開発で見せる名門の矜持
ジラール・ペルゴは、コンプリケーションウオッチの開発でも知られています。
ここ数年に関して言えば、現在の時計界で最高の栄誉といっても過言ではない「ジュネーブ・ウォッチ・グランプリ」で、同社製コンプリケーションが幾度にもわたって賞を獲得。代表的な受賞作である「コンスタント エスケープメント L.M.」や「ラ・エスメラルダ トゥールビヨン」を見れば、その輝かしい実績にも納得がいくことでしょう。
創業226年から始まる新たな歴史の幕開け
こうした実績を残す一方、ジラール・ペルゴはブランドとして大きな転換期を迎えています。2011年にケリング グループの傘下となり、2013年には新作発表の場をバーゼルワールドへと移行。2017年には以前まで新作発表を行っていたSIHHへとカムバックしたのです。
そして、SIHHに戻った最初の新作発表では、ラグジュアリー・スポーツウオッチの「ロレアート」を現代に復活させました。
「ヴィンテージ 1945」「1966」「ロレアート」という3本柱を作り上げたジラール・ペルゴは、これからますます幅広く魅力的な時計を展開してくれることでしょう。