筆者には、自分の普段の生活とはまったく関係ないはずのものに強く心を惹かれる瞬間が定期的に訪れる。この間久しぶりに横浜の中華街に行った時、思わずヌンチャクを買いそうになって止められた。夜の空気が澄んできた近頃は、天体望遠鏡が欲しくて仕方がない。それに、美容師さんが使っているハサミとかクシを入れておく革製のウェストポーチみたいなやつ。あれはオーダーメイドで作りたい。
ソの字立ち、屏風座り…なんて魅惑的な響きなんだろう
この原稿で紹介する『術の世界に踏み入って』(甲野善紀・著/学研プラス・刊)は、そんな気持ち延長線上に位置するものにちがいない。著者の甲野善紀さんは、合気道や日本武術の鹿島神流および根岸流に精通し、ご自身の道場「松聲館」を設立し、武術稽古研究会を主宰する人物だ。
本書の性格は、ひとことで言えば“超”専門的な技術書である。どれほど専門的かは、以下の言葉を見ていただければすぐにお分かりいただけると思う。
・井桁崩しの原理
・ソの字立ち
・屏風座り
・切込入身
・鞘引きする抜刀
冒頭から20ページあまりでこれだけの分量が繰り出される。そして、まずこれを強調しておきたいのだが、どの言葉も正確な意味がわからないが響きが実にいい。それぞれの意味を下に示しておく。
井桁崩しの原理➡平行四辺形が変形していく運動をモデルとした身体運用法。
ソの字立ち➡前足の爪先を外に向け、前足と後足がほぼ直角になるよう踏む足の形。
屏風座り➡両脚の踵を床につけたまま、状態を前傾させず、むしろ、やや後傾するくらいの感覚で腰を下ろしていく座り方。
切込入身➡きりこみいりみ。腕一本だけで相手を一回転させる投げ技。
鞘引きする抜刀➡文字通り、鞘を左手で引きながら右手で刀を素早く抜く技術。
そもそも武道の動作なので、ほかに用途はないと思うのが普通だと思う。しかし、実はそうでもなさそうなのだ。
柔道の対投げ技や合気道などでの持たれ技、格闘技のタックル、サッカーの抜き、競り合いその他、さまざまな状況下に応用して大きな成果が挙がっているのである。
『術の世界に踏み入って』より引用
動きが格闘技とリンクするのは当然だろう。広い意味でスポーツをとらえれば、球技の動きにも応用できるとしても無理はない。ただ、およそ離れていると思えるボキャブラリーは、日常生活ともそれほど遠くはないのだ。
医療現場でも実践される古武術のテクニック
那覇市立病院で小児外科医として勤務する山里將仁先生が、沖縄県医師会報に寄せた記事をとても興味深く読ませていただいた。こんな文章で始まる。
古武術研究家・甲野善紀氏の名前をご存知だろうか? 最近はテレビにも時々出演する和装、羽織袴の“おっさん”である。3年前の、 親父の介護をきっかけに、約2年前から“甲野ワールド”に足を突っ込んでしまった。今では、古武術稽古が趣味のようになってしまっ た。その面白い世界を紹介しよう。
ここでは文字数が限られているためにすべてを紹介することはできないが、筆者が強調したいのは、現役の医師が医療の現場において、古武術のテクニックを取り入れた介護法を実践しているという事実だ。それだけではない。山里先生は、研修医や看護師を相手に切込入身を試すときもあるという。
“術理”とは?
スポーツだけではなく医療現場、そして日常生活、さらには介護にまでも応用できる古武術のテクニック。すべての要素に共通しているのは、著者の甲野さんが“術理”という言葉で形容する古武術における体の動かし方、働かせ方だ。そしてその基盤となるのは、日々の鍛錬にほかならない。
ここ一年様々な試行錯誤を繰り返していたので、校正の赤入れをしながら読み直してみると、「こんなことも言っていたのか」と思うところが少なからずある。したがって、本書は見方によれば、まったく私的な稽古日誌のようなものである。
『術の世界に踏み入って』より引用
“私的な稽古日誌”という言い方はロウ・マテリアルというニュアンスで使われていると思うのだが、あえて狙わずに稽古日誌の体になったのなら、なるべくしてなったのだろう。こんなエピソードもある。
ごくごく普通な会社員であった田島氏は、趣味のフットサルに多少でも役立てばと私の講習会に参加。いつの間にかフットサルよりも武術の稽古にのめり込み、実際に体を使っての稽古時間は大して取れないが、情熱だけは柔道の強化選手をも超えるものがあるのだろう。
『術の世界に踏み入って』より引用
この田島氏は、自分よりも大柄な柔道選手にも驚かれるほどのものが身につき始めているという。
まったくお門違いな言い方であることはわかっている。ただ、こういう文章を読むと、ヌンチャクとか天体望遠鏡とかオーダーメイドのウェストポーチが欲しいという気持ち以上のものが抑えきれなくなってしまう。だから今、たまらなく術の世界に踏み入りたい。
(文:宇佐和通)
【著書紹介】
術の世界に踏み入って
著者:甲野善紀
出版社:学研プラス
武術における古の名人、達人の超人的な動きを自ら体現すべく、日々、進化をし続ける甲野善紀の身体技法。本書は、その最新の技を多数の写真でていねいに解説、身体の仕組みとそれをとりまく空間を最大限に活用した驚きの「術」の数々を紹介します。
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