noteやはてな系に眠らせておくのはもったいない文才を持つ園田菜々さんに、テレビ番組をテーマにしたコラムを書いてもらう本コラム。昨日の第1回目が好評だったので、矢継ぎ早の第2回目。「マツコ&有吉の怒り新党」から広がるマツコ・デラックス考です。
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「いかにして幸せになったのか」を語るのは難しい。
以前、婚活本を出版した著者に取材をした際、「結婚できたひとの話なんて耳半分以下で聞かないといけませんよ」と言われたのが、いまだになぜだか忘れられない。自力で結婚までこぎつけた女性が語る、「特別なことは何もしてないよ」は、信憑性に欠けるという話だ。確かに、大成した経営者などが、いかにして成功したかを語る自叙伝は数あれど、我々のような一般人が語る「幸せになった手法」ってあまりない。というより、語りたがらない気がするし、そもそも現状を幸せだと思えるひとはどれほどいるのだろう。
先日、「マツコ&有吉の怒り新党」を見ていたら、読者の投稿で「映画のクライマックスはハッピーエンドとバッドエンドどちらが好きですか?」という問いがあった。「ハッピーエンド。現実くらい楽しく終わりたい」と即答した有吉に対して、マツコは逡巡しつつ、「一縷ののぞみもないのであれば、バッドエンドかなあ」と答えた。かすかにでも望みがあると、予定調和的で冷めてしまうという。しかし、一縷の望みもない不幸であれば、マツコ曰く「不幸であることに意味がある感じ」でいいらしい。
確かに、「不幸に意味がある」というのは、どこか救いの響きがある。そして同時に、「理由なき不幸」という存在ほど怖いものはないと思う。たとえば、RPGの攻略中、準備が怠ったせいでHP1の状態のままボスキャラと戦わなければならなくなったとする。「ああ、あそこで回復しておかなかったから」となれば、今回はダメでも次回クリアできる可能性が残る。もし、準備万端で攻略していたのに、ボスキャラを目の前にして突然HPが100から1に減少したとしたら、もう自分のなすすべはない。クリアできる可能性は一瞬にして消え去ってしまう。
「たまたま不幸になってしまったんですよね」と、”理由なき不幸”の存在を肯定してしまえば、未来の自分の幸福が不条理な現実によって脅かされてしまう。「きっとこの不幸には理由があり、ここを直せば次は幸せになれる」と考えないとやってられないのだ。
それとは相反して、ひとは“理由なき幸せ”は両手をあげて歓迎する。そりゃそうだ。自分の努力なしに得られるラッキーチャンスの存在を否定してしまえば、それは、自分が頑張らない限り幸せになれないという証明にもなるわけだから。そして、同時に、「私はこうして幸せになりました」と幸せを過去形で語ることは、どこか、それ以上の幸せが訪れないことを予感させる。ひとはどこまでも貪欲で、自分のさらなる幸せを求めるなら、幸せを語るなんてことはしたがらないだろう。
ただ、その貪欲さって、前向きなものなのだろうか。
婚活本著者の取材が終わった後、私はひたすら「なぜ自分は恋愛がうまくできなかったのか」ばかりを考えていた。いつもそうだ。もっと幸せになりたいから、なぜいま幸せじゃないかの理由ばかり探してしまう。しかし、それって実は、考えているふりをしながら、”白馬に乗った王子様”を待ち望んでるだけなんじゃないの、とも思う。不幸の理由を考えたことで、幸せになった経験がないのだ。次の可能性があるということに安心してしまって、幸せになるための努力をしないという負のスパイラルに陥ってはいやしないか。
願わくば、いつか「あ、あれが幸福の糸口だったのだな」と思えるように。幸せになりたい。
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イラスト/マガポン