「ドラゴンボールZ」の主題歌を聴いていると、なんだか勇気が湧いてくる。「Crazy Nights」のハードドライヴィンなギターと重厚なドラムにヤラレてヘヴィー・メタルを知った。──多感な時期を送っていた僕らに、刺激と元気を与えてくれたミュージシャンたちの原点は、ここにあった!
2017年、デビュー40周年を迎えたロックバンド、レイジー。アニソン界の“永遠の”プリンスとしてパワフルな活動を続ける影山ヒロノブ、その彼を擁するJAM Projectのプロデューサーであり、多くのアニソンや声優アーティストを送り出しているレーベル、ランティスの社長である井上俊次、そして世界にその名を轟かせるヘヴィ・メタル・バンド、ラウドネスのギタリスト、高崎晃。いまだ多大な影響を及ぼす3人の出発点は、並みならぬ実力を備えていたアイドル・バンドだった。現代のロックバンドとくらべてももちろんのこと、当時も類を見ない個性で人気を博していた彼らの伝説を紐解きながら、レイジーというバンドを今と、未来に語り継ぐ!
伝説1……日本のロックバンドとして史上最年少でデビューした!
レイジーがデビューしたのは、1977年の夏。ヴォーカルのミッシェル(影山ヒロノブ)、ギターのスージー(高崎晃)、キーボードのポッキー(井上俊次)、ベースのファニー(田中宏幸)、ドラムスのデイビー(樋口宗孝)──5人のメンバーは当時、2つ年上のデイビー以外は高校2年生。“史上最年少ロックバンド”のフレコミで売り出された。
井上「もともと小学校や中学校の幼なじみがベースになってるグループっていうのも、当時は珍しかったみたいです。藤田浩一さん(アウト・キャスト)、森本太郎さん(ザ・タイガース)、かまやつひろしさん(ザ・スパイダース)、岡村右さん(パープル・シャドウズ)といったGS(グループサウンズ)をやられていた方々がプロデューサーやディレクターだったりしたので、GSもほとんどプロデュースされて作られたものでしたけど、僕らはその流れの最後だったかも知れないですね」
高崎「レイジーは、ほぼ10代の時の活動なんですよね。解散したのは20歳になってほんの数か月ぐらいやったから」
井上「オーディションに受かったのが高1の終わり、2月でした。かまやつさんにスカウトされて、その年の4月には地元の大阪から上京して、7月にはデビューしてましたから。その当時の大人たちが考えていたのは、当時人気だったベイ・シティ・ローラーズにあやかった〈和製ベイ・シティ・ローラーズ〉。とにかく若くって、そんなふうになれる子たちをいち早くデビューさせたいっていう思惑が絶対あったと思います」
高崎「GSの人たちにとっては、あの時の再来みたいなね、そういうのを願ってた部分はあったんじゃないですかね」
影山「GSも当時の洋楽をコピーしたり、実はそういうことをしてましたよね。そこはレイジーも一緒で、TVでは伝わらないけど、ライヴではそんな感じでしたから」
井上「いちばん初めのライヴでもレインボーとかやってましたからね」
TVの向こうではアイドルだったが、ステージではとことんロックンローラーだったレイジー。そのアンビバレンスな魅力こそレイジーの個性であり、幅広い層のファンを魅了した要因でもあったのだ。
伝説2……デビューのきっかけはたった1曲のカヴァーだった!
デビューのきっかけとなったオーディションというのは、大阪・朝日放送制作の「ハロー・ヤング」というTV番組。ここで彼らは、ディープ・パープル「Burn」のカヴァーを披露した。
井上「かまやつさんが審査員をされていて、収録が終わってから……」
高崎「スタッフの人が『かまやつさんが呼んでるよー』って。で、楽屋に行って、何の話なんかなと思ったら」
影山「そこでもう『東京来ない?』って言われました(笑)」
高崎「ウチらは行く気満々やったけど、親に話したら『大丈夫か?』って。そりゃあ心配しますよね」
井上「まだ高校2年やったしね。将来を考えてエスカレーター式の学校行ってたヤツもいたし。それでまあ、たっかん(高崎晃)の家にみんなの親が集まって会議して。僕たちは2階でその様子を伺ってて」
高崎「でもね、かまやつさんってウチらの曲を1曲しか聴いてない(笑)。それも他人の曲やし、フルサイズで演奏してないし。僕のこと『もろリッチーだね』って褒めてはくれたけど」
井上「若さっていうのがポイントだったのかも知れないね」
高崎「今みたいにネットもないし、譜面とかも売ってない時代に、ディープ・パープルの『Burn』を一所懸命コピーして。この曲ってかなりの演奏力がいるから、なかなかまわりでも演ってるヤツいなかったね」
井上「たっかんの家にオープンリールのテープがあって、そこに録音したやつを遅く再生させて」
高崎「当時の技術だから1オクターブ下がるんけど、速いフレーズはそうやって音を拾って、リッチー(・ブラックモア)がアドリブで弾いてたようなやつまで真似してたわけやから。ギターもそうやけど、こんなキーボード弾いてるヤツも見たことないし、歌ってるヤツも見たことないし、それを友達同士でやってたわけやからね、ウチらは」
井上「たっかんはその当時からフェンダーのストラトキャスターを持っててね。友だちのなかでフェンダー持ってる人なんていなかったし、ひぐっつぁん(樋口宗孝)はラディックのスネアとペダルを持ってて。一流の楽器を買うぐらい覚悟持ってやってたっていうね」
高校生には難易度の高い楽曲をカヴァーしていたという演奏スキルはもちろんだが、それではまだ満足しない、もっと大きなステージを目指したいという5人のマインドを見抜いていたのだろうか? いずれにしても、ムッシュの目に狂いはなかったというわけだ。
伝説3……稀代のヒットメイカーたちが曲を提供していた!
先述の通り、〈和製ベイ・シティ・ローラーズ〉をテーマに、つまりはアイドル性の高いバンドとして売り出された彼らは、本人たちの志向を半ば封印するような歌謡曲テイストの楽曲を、職業作家/ヒットメイカーたちから授かることになる。
高崎「普通は自分たちのオリジナルが良くて、それが認められてプロになってくでしょ。オレらはコピーやってただけで『君たち上手いね』ってそこからだったわけだから、自分たちで曲なんか作られへんかったし、詞も書けなかった。だから作家の先生の曲を演奏してたわけでね」
井上「かまやつさんは僕たちを誘う時に、デビュー曲はバッド・カンパニーのポール・ロジャースに書いてもらうからって言ってたので、それはもうカッコイイ曲ができるんじゃないかなと思って東京に来たんだけど」
高崎「『夜明けの刑事』っていうTVドラマのエンディングテーマを奥さんのマチ・ロジャースが作ってたから、これはあり得へん話じゃないなと思ってたんだけど」
影山「僕らのプロデュース陣が3、4人いたなかで、かまやつさんはいちばん最初に声をかけてくれた人だったんだけど、ちょっと勢力争いみたいなことがあって、だんだん離れていっちゃってたんですよ」
井上「のちにかまやつさんに訊いたんですよ。そしたら『あれは、バンドを成功させるために自分が身を引いた』って言ってはりました」
影山「かまやつさんはGS時代に苦い思いもされてたし、オレたちの気持ちがわかっちゃうから、もっとアイドルっぽく売り出したいっていう人たちとぶつかることになるって思ったんですよ」
高崎「それでもかまやつさん、アルバムの時に曲書いてくれたね」
影山「『ハロー・ロスアンジェルス』だ!」
高崎「その当時、ウチらLAとか行ったこともないのにな(笑)」
影山「初めてまともに海外行ったのは、たっかんたちラウドネスだからね、レイジー後のバンドで」
井上「考えたら、その時代のいちばんトップの作家さんにいっぱい書いてもらったね」
高崎「ユーミンにも詞を書いてもらったやろ」
井上「都倉俊一さんとかね。アルバムでは杉真理さんとか」
影山「『ロックン・ロールさえやってりゃ』でしょ。あっ、この曲かっこいい!って思った」
高崎「ちょっとオシャレな感じやったよな?」
井上「僕たちにしては難しいコードがいっぱいでね。そういう作家さんたちからの刺激を受けて、僕たちもちょっとずつ曲を書くようになっていったっていう」
高崎「なんやかんや、いろいろ勉強になったよね。自分が好きな曲だけやってたらそういうのは吸収できないから。メタルやったら、ギターの音言うたら歪んでてハードドライヴなやつかクリーンかって感じやけど、そのあいだの音っていうのもあるわけで、そういうのはもしメタルしかやってへんかったら出されへんからね」
さらに名前を挙げれば、井上鑑、なかにし礼、加瀬邦彦、浜田金吾、近田春夫、水谷公生、伊達歩(伊集院静)……名だたる作家陣によって編まれた楽曲をパフォーマンスしていくなかで、ミュージシャンとしてのポテンシャルを高めていった5人。だがそれは、レイジーというバンドを大きくさせていくとともに、やがては爆発、新星を生み出すきっかけになったと言えるだろう。
伝説4……ライヴでは音響に嫌がられるほどの爆音を鳴らしていた!
高崎「TVではアイドルでしたけど、ライヴになると、めちゃくちゃハードロックな音を鳴らしてましたからね。それはデパートの屋上であろうがどこであろうが。シングルの曲もやり慣れてくると、だんだんハードになってったりしてね」
影山「かなり爆音でね! デビュー曲の『Hey! I Love You!』とかも、ずいぶん変わったね。最初の頃はこぢんまりしてたんだけど、最後のほうのライヴではちょっとシャッフルっぽい感じで昔のハードロックみたいな。ドラムもすごく重くって」
井上「お客さんのこと考えてない音やったな(笑)」
高崎「だいたいドラムがデカいからな(笑)」
影山「ドラムもデカいし、たっかんのギターもデカいし」
高崎「ドラムがデカかったらまわりも上げんとドラムしか聞こえなくなるから、だからそうなる。当時のマーシャルアンプなんて、ボリュームにツマミはあるけど、音量はそんなに変わらないっていう」
影山「〈2〉ぐらいでフルボリュームみたいなね」
高崎「だから、スピーカーキャビネットをどこの方向に向けようかっていうのをいつも考えてて。真ん前に向けるとヴォーカルアンプの音に勝ってしまうんじゃないかっていうぐらいデカいし、音声の人には怒られるし、って。後ろ向けて鳴らしたり、上に向けて鳴らしたこともあった」
井上「TV番組の収録で、オーケストラと一緒にやらなあかん曲があって、たっかんのアンプを後ろに向けてたら、その人たちから『やってらんねえよ!』って怒られたよね」
高崎「そういうの、オレは今でもあんねん(笑)」
伝説5……黒歴史として封印された曲がある!
78年2月の発売された3枚目のシングル「赤頭巾ちゃん御用心」。オリコンシングルチャートに初めてランクインしたこの曲で、レイジーの知名度は一気に上がる。しかし、ハードロック好きの少年たちにとって、愛らしいコスチュームや演奏中のアクションなど、アイドル路線の極みとも言うべきコンセプトで仕立てられたこの曲でブレイクしたことは、素直に喜べるものではなかった。とくに高崎は、“この曲を演奏しないこと”を再結成の条件としたほど。
影山「まだ封印してます(笑)」
高崎「カヴァーしてる人もおるけどな」
井上「『赤頭巾ちゃん御用心』はそういう方々のカヴァーで楽しんでいただくってことで」
高崎「いい曲なんやけど、やらん」
影山「たっかんは、曲だけじゃなくて、衣装とか振付とかその当時の黒歴史がともに甦ってくるのが嫌なんだよね」
高崎「普通にあれをやってるんだったら『ええ曲やね』って思うんやけど、派手なジャンプスーツ着てさ、ピンク・レディーみたいに足をパカパカやったり」
井上「僕も、演奏しなくていいから振付しなさいって言われて」
影山「サビで盛り上がるところからキーボードが抜ける(笑)。弾かずに踊ってるから、急に音の厚みが減るっていう」
井上「それってどうなのよって(笑)」
影山「しかもあの衣装、1着しかなかったんですよ。替えがないからめっちゃたいへんでしたよ。ファブリーズみたいなものが、まだない時代ですからね」
高崎「でもまだみんな子供やったから、そんなに臭いってこともないし」
井上「爽やかな汗の匂い(笑)」
高崎「今やったら、えらいことになるけどな(笑)」
伝説6……音楽のプロたちからも認められていた!
歌番組のみならず、バラエティー番組の“歌のコーナー”などからもお茶の間に向けてその魅力を伝えていたレイジー。アイドル的なチャーミングさはもちろんだが、高校生としては稀な彼らのパフォーマンス・スキルも、わかる人はちゃーんと見ていた。
井上「遠藤賢司さんが会長になって、〈レイジー男だけのファンクラブ〉っていうのを作ってくださったんですよ。そういう、ちょっと音楽のスペシャリストの方たちが応援してくださったのはかなり励みになりましたね」
高崎「〈男だけのライヴ〉っていうものやったな」
影山「やったやった、大阪のジェイルハウス!」
高崎「解散に近づいてた頃やったけど、こんなに男のファンがおるんやってびっくりしたけどな。かまやつさんも来とったし」
井上「その時、かまやつさんに『解散するんです!』って打ち明けて」
影山「そう、たしかその次の日が“解散宣言”の日じゃない?」
井上「忘れもしない、かまやつさんに解散することを打ち明けたら、『そうなんだあ、じゃあ、踊りに行こう!』ってディスコに連れてってもらって」
影山「うんうん、うっすらと覚えてる」
いつも全力、若く頼もしいレイジーのメンバーたちは、大人たちからも非常に愛されていた。また、第1期活動後期には、男惚れする部分もその音楽観から垣間見せるようになり、男子ファンも増加。その、言わばマッチョな成分の多くは、ラウドネスが継承していくわけだが。
伝説7……日本のテレビで初めてギブソンのフライングVを演奏した!
アイドル・バンドでありながら高い演奏力を持つ、といったことも含めて、いろいろな部分で定形外の存在だったレイジー。それだけに、彼らしかやっていない、彼らが最初、といったエピソードもあった。
高崎「(ギブソンの)フライングVをTVに出て初めて弾いたのはオレが初めて、っていうことは言われたりするね。で、〈夜のヒットスタジオ〉に出た時に、誰だか忘れたけど外タレのゲストが来てて、オレのフライングVをえらく欲しがってね。アメリカ帰ったらどこでも買えるんちゃうのって思ったけど、生放送終わってからも『それ売ってくれへんか』みたいなこと言うてて(笑)」
加えて、レイジーが日本一だったであろうエピソードは?と訊くと……。
高崎「〈屋上の帝王〉でしたね。ありとあらゆるデパートの屋上で営業しまくって、行ってないデパートはないんちゃうかっていうぐらい行きまくって。最初の頃は10人も集まらないぐらいだったんやけどね、それがもう、どこ行ってもこれ以上人入れたら危ないでってなるぐらいまでなって」
影山「無料のコンサートで、そこでサイン会をして、ファンの人たちにレコードを買ってもらって」
高崎「そのデパートのなかに山野楽器が入ってたりっていう」
影山「奥田民生さんも初めてレイジーを観たのはデパートの屋上だったって言ってた」
高崎「斉藤和義も屋上でレイジー観た言うてたわ(笑)」
伝説8……人気絶頂ながらたった3年半で解散してしまった!
アイドル・バンドとして人気を誇ったレイジーだが、やがて自分たちが本来目指していた音楽を追究するべく、80年夏のツアーで〈ヘヴィー・メタル宣言〉をする。その年の暮れに発売されたアルバム『宇宙船地球号』でその意志を実らせたかのように思えたが、翌81年2月18日東京・調布グリーンホールにて行われたコンサートで「若さっていうのは、=チャレンジすること」とファンの前で解散を宣言。
影山「『宇宙船地球号』は、やっと自分たちの思い描いていたことをやれたんだけども、それをやったことによって同じハードロック、っていうかロックのなかで、自分に何が合っているのかもわかっちゃったんですね」
同年10月には、先陣を切って影山ヒロノブがソロ・デビュー。11月には高崎と樋口を擁するラウドネスが、翌82年には井上と田中を擁するネバーランドが活動をスタートさせる。
井上「僕と宏幸はネバーランドを結成して、『あした色のスニーカー』という曲でデビューしたんですけど、実はその曲に決まる前、ディレクターから、阿久悠先生に詞を書いてもらったらいいんじゃないかって話しが来て。で、阿久先生は詞が先だったので書いていただいた歌詞を見させてもらったんですよ。そしたら“オレたちは大阪から来たんやで〜”みたいな詞で……恐れ多くも断ったんです(笑)。そのあと、別のプロデューサーさんが書いてこられた曲も聴かせてもらって『イヤや!』って言うてたら、『おまえらもう勝手にしろ!』って言われて。それで出来たのが『あした色のスニーカー』なんですよ」
影山「僕が“アニソン界のプリンス”って呼ばれるようになったのは『ドラゴンボールZ』あたりからなんですけど、アニメや特撮の曲を初めて歌ったのは85年の『電撃戦隊チェンジマン』で、その当時ディレクターに言われたのは、“そろそろアニメの歌も特撮の歌も、ロックじゃなきゃスピード感やパワーが釣り合わなくなってきてる”って。ひと昔前みたいにフルバンド編成でやってるわけにもいかなくなってきて……っていう境目だったと思うんですね。それでとにかくロックシンガーを探してた、と。ディレクターは当然レイジーのことを知ってたとは思いますけど、僕はソロになってからしばらくはちょっと落ち込んでいたので、ひさびさにレコーディングのお声がかかった時、めっちゃうれしかったのを憶えてますね」
© バードスタジオ/集英社・フジテレビ・東映アニメーション
一方、高崎と樋口がいるラウドネスの作品は海外でもリリースされ、国内外で高い評価を獲得。三者は別の音楽性を追求するがために離れていったわけだが、やがて“アニソン”という同じフィールドのなかに立つ機会も巡ってきた。
高崎「70年代のアニソンって、4ピースのバンドサウンドとか、そんなんじゃなかったからね。だいたいオーケストラとかフルバンドでね。それが今じゃ、ギターの音が歪んでるのもあたりまえみたいになってるじゃないですか」
井上「自分たちのスタイルを変えずにタイアップできるような時代になっていきましたから。それこそラウドネスがやった〈オーディーン〉の曲も、“まさにラウドネス”でしたからね」
高崎「あれは、『Crazy Nights』っていう曲が売れたあとだったんで、そういう曲がほしいって言われて、そっくりな曲を書きました(笑)」
伝説9……デビューから40年間ずっと現役!
81年に解散、98年に再集結後は、断続的に活動を続け、2017年にデビュー40周年を迎えたレイジー。オリジナル・メンバーの田中と樋口は鬼籍に入ってしまったものの、残る3人は各々のフィールドで大きな影響力を持つ存在、もはやリヴィングレジェンドと言ってもいい活躍を見せている。40周年を記念してひさびさにリリースされたシングル『Slow and Steady』では、3人それぞれが作曲を手掛け、うち2曲では、デビュー曲「Hey! I Love You!」を手掛けた森雪之丞が詞を託している。
井上「森先生とは、かまやつさんのお別れ会で何十年ぶりかにお会いしたんですよ。そこでまあ、『40周年なので曲を作ろうと思ってるんですよ』、って話をしたら、『じゃあ、詞を書くよ』って言ってくださって」
影山「僕は『ドラゴンボールZ』をはじめとして何十曲も森先生の詞を歌ってるんですけど、お会いするのは久しぶりでした。『ミッシェルのこと気になってたんだよお、何にもしてやれなくてゴメンねえ』って言われて(笑)。いやいやオレ、世界でいちばんご恩をもらってますよ!って」
井上「『Slow and Steady』っていうタイトルは、たっかんがつけてくれてね。まあ、記念で曲を作ろうねって話になって、せっかくだからみんなで1曲ずつ書いて3曲にしようっていう。シングルの価格で3曲(+各曲のインスト)って、普通、ウチの会社でこんな企画があがったら、そんなんあかんわって言いますけど(笑)」
影山「歌ってて感動しますよね。自分の人生と重なるというか、たぶん井上くんもたっかんも同じようなことを思ってると思うんだけど、いろんなことがあって今ここに立ってて、でもまだ終わったわけではなくて。今からでも未来が自分を呼んでるっていう感覚にグッとくる年齢なので、歌ってても気持ちいいです」
井上「『1977』っていう曲も、タイトルはたっかんが考えてね。はじめ、どんなエピソードがある?って森先生からメールをいただいて、結構リアリティーのあるものを送ったら、めちゃ大阪弁が入ってる詞が返ってきて(笑)。たっかんからも詞のイメージを伝えてもらって、書き直してもらった感じなんですけど、ここでも森先生にNGを出すっていうね(笑)。この曲ではたっかんがドラムとベースを演奏してて、そのドラムはひぐっつぁんのキットを使ってね」
高崎「だから、2曲目だけドラムのサウンドがぜんぜん違ってるんですよ」
井上「アニバーサリー的要素も含めてなんで、これはもしかしたら次へのスタートかもしれないし。コツコツ作っておいて、いくつか曲が貯まったらまた出したいねって」
『Slow & Steady』1296円/Lantis
レイジーのデビュー40周年記念シングル『Slow and Steady』。収録曲「Wandering Soul」「1977」「Happiness〜二人で過ごすX’mas 〜」はそれぞれ井上、高崎、影山が作曲。
そんな3人にとって、40年たった今、レイジーとはどういう存在になっているのだろうか?
井上「12月27日にライヴをやるんですが、次の日にたっかんはラウドネスでライヴ。カゲさんはJAM Projectのツアーの後半戦が残ってて、1月5日からツアー再開。みんな自分の居場所に戻っていくわけです。僕も、ランティスの社長っていう普段の仕事に戻っていく。レイジーっていうのは実家に帰ってくるようなイメージなんかなあって。実家に帰った時、テーブルのキズが懐かしかったりするじゃないですか。そういう感じやと思います。ちょっとリラックスできるし」
影山「今、みんないろんな人と仕事してますけど、当時から一緒ってオレたちだけしかいないわけで。学生の頃からおんなじ時間を共有して、それがこの業界に入ったきっかけだったという事実は、このあともずっと存在するわけだから、ホント、実家みたいなものなのかなって」
井上「帰るところが2つあるって素晴らしいね」
高崎「そう、もうソウルフレンドみたいな感じやね。この何十年かで俊次もカゲもイイ曲を書いてるなあって思うし、将来的にはまたいろんな音楽を一緒に作りたいなって思います」
そう聞いたからには最後に、この伝説を付け加えておきたい。
伝説10……ソウルフレンドとしていまだ絆は健在である!
【影山ヒロノブ:リリース情報】
影山ヒロノブ『A.O.R』3240円/ランティス
2017年、レイジーのデビュー日と同じ7月25日に発表された影山ヒロノブのアルバム『A.O.R』。アース・ウィンド・アンド・ファイアーやシカゴなどを手掛けてきた有名プロデューサー、デヴィッド・フォスターも編曲家として名を連ねている40周年記念盤。
【高崎晃:リリース情報】
LOUDNESS『Rise To Glory -8118-』2497円/ワードレコーズ
2018年1月26日に世界で同時リリースされるラウドネスのニュー・アルバム『Rise To Glory -8118-』。バンド史上最大規模のワールド・ツアーも予定されている。