織田信長は、日本史のなかでもトップクラスの人気を誇る人物だ。
そして、信長が築城した城であり、教科書に必ず登場するにもかかわらず、謎に包まれているのが安土城だ。
完成からわずか数年で焼失してしまったため、全貌がはっきりとしないのである。
自らを神に準えた信長
『キリストになろうとした魔王信長』(斎藤忠・著/学研プラス・刊)は、安土城の全貌と、信長の知られざる人物像に迫る一冊だ。
信長は若いころには“うつけ者”とされ、破天荒な服装で過ごしたとされる。ところが、その姿は地元・尾張の津島神社の祭礼における神・牛頭天王の姿を模したものだと、本書では解説している。
彼が荒ぶる牛頭天王を氏神に定め、その紋所を旗印として押し立てて天下布武を押し進めたことを考え合わせると、己をこの神に擬していたのは疑いない。
(『キリストになろうとした魔王信長』より引用)
信長は牛頭天王のコスプレをしていただけではない。どうも、自らを牛頭天王と同一視して考えていた節があるのだ。
その根拠になる逸話がある。キリシタン大名の高山右近に命じて、自らに従わない北摂津の寺院を破却させたときのことだ。このとき、僧が祭神を牛頭天王に改めたことで、破却を免れた寺院があるというのである。
信長はキリストになろうとしていた!?
信長は戦国武将の中でも、特にキリスト教に関心を抱いていた人物である。鉄砲をはじめ、海外の進んだ文化や技術を取り入れようとしたため、キリスト教を容認したといわれる。
しかし、本書によると、信長の頭の中には遥かに壮大な野望があったことがよくわかる。 信長によって破却された寺院はその後、教会に改築され、キリスト教の神・デウスを祭神に改めているのだが、これは何を意味するのだろうか。
天王は時に字面の似る天主と同義とされ、また、デウスは漢語で天主と呼ばれたから、当時、牛頭天王とデウスは本地垂迹の関係にある、と見なされていたことが十分に考えられる。
(『キリストになろうとした魔王信長』より引用)
牛頭天王とデウスが同一視されていたことから、本書では、なんと、信長は自らがキリスト教においても神になろうとしていたのではないか、と考察しているのだ。
信長の野望が形になった「安土城」
天下を統一し、やがては神になるという信長の野望がよく表れているのが安土城にほかならない。
姫路城や名古屋城などの天守閣は、天“守”と書くが、安土城では天“主”と書く。これは長崎にあるキリスト教の聖堂を天主と書くのと同じだ。「安土御城御普請覚え書」という書物によると、天主内部の様子はこのようなものだったという。
安土城天主の外壁のうち木部のところは防禦のため、後藤平四郎の製造した銅板で包まれていて、その赤銅、青銅に覆われた柱にバテレンの絵が刻まれていた。
(『キリストになろうとした魔王信長』より引用)
バテレンの絵が描かれているなんて、キリスト教の聖堂のような造りで、とても日本の城とは思えない。信長のキリスト教への傾倒ぶりがとてもよくわかる。
信長は天主で寝起きした唯一の人物
姫路城を見ればわかる通り、信長以後に完成した天守はあくまでも戦闘がおこったときの最後の砦であり、内部は簡素に仕上げられることが多い。実際の執務や城主の生活は御殿で行われ、天守は巨大な“空き家”だった。
ところが、信長は安土城の天主で寝起きし、生活をしていたことで知られている。 戦国武将はたくさんいるが、天主で実際に生活していた人物は信長が唯一なのだ。本書ではこう結論付けられている。安土城天主は神・信長が住まう神殿だった、と。
荒唐無稽な話のように思えるが、既に述べたように、安土城はミステリアスな城である。天下統一の礎として、琵琶湖を見下ろす高台に建設されたが、いわゆる「本能寺の変」で信長が自害したのち、謎の不審火で失われている。その原因は、はっきりしていない。多くの謎を残したままなのだ。
ひょっとすると、実際の安土城は我々が想像する以上に奇抜なデザインであった可能性だってある。歴史に大きな変革をもたらした信長のことだ、十分にありえる話といえるだろう。
(文:元城健)
【文献紹介】
キリストになろうとした魔王信長
著者:斎藤忠
出版社:学研プラス
寺社仏閣を焼き払った第六天魔王、織田信長は、なぜキリスト教に寛容だったのか。その理由はクリスチャンになろうとしたのではなく、自らがキリストになろうとしていたのだ。信長の真意を知った武将たちは野望を阻むため、ついには本能寺の変を引き起こした。