乗り物
鉄道
2018/6/23 20:15

開業1世紀で5回の社名変更の謎――乗車時間11分のみじか〜い路線には波乱万丈のドラマがあった!

おもしろローカル線の旅~~流鉄流山線~~

 

千葉県を走る流鉄流山線の路線距離は5.7kmで、乗車時間は11分。起点の駅から終点まで、あっという間に着いてしまう。それこそ「みじか〜い」路線だが、侮ってはいけない。その歴史には波乱万丈のドラマが隠されていたのだ。

↑流鉄のダイヤは朝夕15分間隔、日中は20分間隔で運行している。全線単線のため、途中、小金城趾駅で上り下りの列車交換が行われている。写真は5000形「あかぎ」

 

【流鉄流山線】開業102年で5回も社名を変えた謎

千葉県の馬橋駅と流山駅を結ぶ流鉄流山線。流山線は流鉄株式会社が運営する唯一の鉄道路線で距離は前述したとおり5.7kmだ。

歴史は古い。1913(大正2)年の創立で、すでに100年以上の歴史を持つ。その1世紀の間に5回も社名を変更している。このような鉄道会社も珍しい。ざっとその歩みを見ていこう。

 

1916(大正5)年3月14日:流山軽便鉄道が馬橋〜流山間の営業を開始

1922(大正11)年11月15日:流山鉄道に改称

1951(昭和26)年11月28日:流山電気鉄道に社名変更

1967(昭和42)年6月20日:流山電鉄に社名変更

1971(昭和46)年1月20日:総武流山電鉄に社名変更

2008(平成20)年8月1日:流鉄に社名変更、路線名を流山線とする

 

改名の多さは時代の変化と、波にもまれたその証

流鉄が走る流山(ながれやま)は江戸川の水運で栄えた町である。味醂や酒づくりが長年にわたり営まれてきた。この物品を鉄道で運ぶべく、流山の有志が資金を出し合い、造られたのが流山軽便鉄道だった。

 

創業時から流山の町のための鉄道であり、町とのつながりが強かった。そのためか、ほかの鉄道会社のように、路線延長などは行われず創業時からずっと同じ区間での営業を続けてきた。

 

当初の線路幅は762mmと軽便鉄道サイズ。その後に、常磐線への乗り入れがスムーズにできるようにと、線路幅が1067mmに広げられた。このときに流山軽便鉄道から流山鉄道と名称が変更された。

 

太平洋戦争後、電化したあとは流山電気鉄道と名を変え、さらに流山電鉄へ。この流山電鉄の社名は、わずか4年で総武流山電鉄と名を改められている。これは経営に平和相互銀行が参画し、大株主となった総武都市開発(ゴルフ場事業会社)の「総武」が頭に付けられたためだった。

↑総武流山鉄道時代の主力車1300形。こちらは元西武鉄道の譲渡車両で、西武では551系、クハ1651形だった。「あかぎ」というように編成の愛称がこの当時から付けられた

 

しかし、平和相互銀行は1986年に不正経理が発覚、住友銀行に吸収合併されて消えた。さらに大株主の総武都市開発がバブル崩壊の影響を受け、2008年に清算の後に解散。小さな鉄道会社は、こうした企業間のマネーゲームに踊らされ、また投げ出された形となった。

 

2008年には現在の、鉄道事業を主体にした「流鉄株式会社」となっている。

 

つくばエクスプレスの開業で厳しい経営が続いているが――

時代の変転、また経営陣が変わることで社名が変わるという、なんとも小さな鉄道ならではの運命にさらされてきた。

 

さらに2005年8月には、つくばエクスプレスの路線が開業。流鉄が走る流山市と都心をダイレクトに結ぶために、この開業の影響は大きかった。流鉄の利用者減少がその後、続いている。

 

とはいえ、流鉄の決算報告を見ると、2016年3月期で、鉄道事業の営業収益は3億3093万円、2017年3月期で3億2822万円。純利益は2016年度が340万円、2017年度が286万円と少ないながらも純利益を確保し続けている。

 

一駅区間の運賃は120円、馬橋駅〜流山駅間の運賃は200円、1日フリー乗車券は500円と運賃は手ごろ。ICカードは使えず、乗車券を購入し、出口で駅員に渡すという昔ながらのスタイルをとっている。大資本の参画はないものの、5.7km区間を地道に守り続ける経営が続けられている。

↑流鉄の馬橋駅。総武緩行線や、総武本線の線路と並ぶように駅とホームがある。通常はJR側の1番線を利用する。手前は2番線で、通勤時間帯のみの利用となる

 

↑馬橋駅の自由通路の西側に「流山線」の小さな案内板が架かる。発車ベルは「ジリジリジリーン」という昔ながらのけたたましい音色。レトロ感たっぷりだ

 

鉄道ファンの心をくすぐる所沢車両工場の銘板

流鉄の車両は1980年ごろから、すべて西武鉄道から購入した車両が使われている。1979年から導入された1200形・1300形、1990年代から使われた2000形や3000形。そして2009年からは、5000形車両が順次、旧型車両と入れ替えて使用している。

 

現在走る車両の5000形は、赤、オレンジ、黄色、水色など6色に塗られ、それぞれ「あかぎ」「流馬」「流星」といった車両の愛称が付けられる。
これらの車両は、すべてが所沢車両工場製だ。2000年まで西武鉄道では、ほとんどの車両を所沢駅近くにあった自社工場で製造していた。そんな証でもある銘板が、いまも車内に掲げられている。 鉄道ファン、とくに西武好きにとっては心をくすぐるポイントといっていいだろう。

↑現在、流鉄を走る5000形電車は2両×6編成。そのすべてが西武鉄道から購入した車両だ。西武時代の元新101系で、車内には「西武所沢車両工場」という銘板が付けられる

 

↑2012年まで走っていた2000形「青空」。西武では801系(2000形の一部は701系)という高度経済成長期に造られた車両で、1994年から20年近く流鉄の輸送を支えた

 

↑終点の流山駅。駅の奥に車庫と検修施設が設けられている。駅から徒歩3分、流山街道を越えたところに近藤勇陣屋跡(近藤勇が官軍に捕縛された地とされる)がある

 

流山には味醂を積みだした廃線跡など興味深い史跡が残る

乗車時間は11分と短いが、沿線の見どころを簡単に紹介しよう。

 

馬橋駅〜幸谷駅付近は常磐線の沿線で住宅街が続く。小金城趾駅に近づくと農地が点在する。鰭ケ崎(ひれがさき)駅からは流山市内へ入る。大型ショッピングセンターすぐ近くにある平和台駅を過ぎたら、間もなく流山駅へ到着する。

↑難読駅名の「ひれがさき」。ここの地形が魚の背びれに似ていたから、または地元の東福寺に残る伝説、神竜が残したヒレ(鰭)から鰭ケ崎の地名となったとされる

 

流山の街は「江戸回廊」を名乗るように味わいのある街が残る。新選組の近藤 勇が官軍に捕縛されたとさる、近藤勇陣屋跡。18世紀から味醂製造を続けてきた流山キッコーマンの工場も、街中にある。ここで造られるのが万上(まんじょー)本味醂(みりん)だ。1890(明治23)年に建てられ、国登録有形文化財に指定される呉服新川屋店舗(いまでも営業を続けている)といった古い建物も残る。

↑流山駅前に立つ流鉄開業100年記念の案内板。歴代の車両が写真付きで紹介されている。蒸気機関車やディーゼル機関車で客車を牽いたころからの歴史がおよそわかる

 

↑かつて流山駅から流山キッコーマンの工場まで引込線(万上線)が敷かれていた。1969(昭和44)年に廃止されたあとは市道として使われ、かたわらに記念碑も立つ

 

↑万上(まんじょー)本味醂の製造を続ける流山キッコーマンの工場。レトロふうな塀には引込線があった当時の写真などが掲げられている

 

コンパクトにまとまった古い流山の街。わずか乗車11分ながら、街を歩いた余韻を感じつつ、帰りはオレンジ色の「流星」に身を任せた。