私は今ロンドンにいます。1週間ほどの滞在ですが、そのほとんどをウィンザー城近くにあるアスコット競馬場で過ごしています。今回の旅の目的はアスコット競馬場で5日にわたって開催されるロイヤル・アスコット競馬を観戦し、記事を書くことだからです。
ロンドンではなく倫敦と記す理由
旅に出る前、『世紀末倫敦ミステリー事件簿 背徳の学び舎』(四谷シモーヌ、今 市子・著/学研プラス・刊)を読みました。もうすぐロンドンに行くのだと思うと、ガイドブックはもちろん、ロンドンに関する本が気になって仕方がありません。今回もそうでした。
もっとも、この本を熟読しても「地下鉄の乗り方」はわかりません。「安くて美味しいレストラン」が掲載されているわけではありません。『背徳の学び舎』というタイトルなので、行っては行けない禁断の地への招待状のようにも見えますが、それも違います。
『世紀末倫敦ミステリー事件簿 背徳の学び舎』は、1900年の世紀末ロンドンを扱った本なのです。ロンドンをわざわざ漢字で倫敦と記すところにも、19世紀末の雰囲気がただよっているとは思いませんか?
マンガ+小説というハイブリッド
『世紀末倫敦ミステリー事件簿 背徳の学び舎』はちょっと変わった構成になっています。まず、漫画家である今市子が四谷シモーヌの原作を『マダム・ローズの館にて』と『背徳の学び舎』という2つの漫画作品として発表しています。
今市子は富山県氷見市出身の漫画家で、「マイ・ビューティフル・グリーンパレス」で商業誌デビューした方です。1995年より『百鬼夜行抄』の連載を始め、人気を集めました。今回は、今までほとんど描いたことのない外人ものに挑戦することになったとのこと…。
イギリスの資料も持っておらず、最初は無理だと思ったそうです。けれども、周囲に支えられ、とにかく「倫敦の坊ちゃん」と呼びたくなるような主人公・山田一郎というキャラクターを描ききりました。
物語は、一郎が1900年の春、ロンドンが倫敦であった時代、東京大学の受験に失敗し、留学するところから始まります。
長い旅を経て、ようやく到着した彼を駅で出迎えてくれたのはアルバート・モートン。一郎より1つ年上の伯爵です。金髪に青い目、そしてシルクハットがよく似合う、いかにも育ちのよさそうな青年。日本の坊ちゃんとイギリスの坊ちゃんの出会いを、今市子は見事に再現します。まるで私自身も留学して倫敦にいるような気持ちになってしまいました。一郎とアルバートの顔が具体的に表現されるので、読者は最初から世紀末倫敦に引き込まれます。
謎が謎呼ぶ殺人事件
『世紀末倫敦ミステリー事件簿 背徳の学び舎』は漫画だけでは終わりません。魅力的なコミック2作品のあいだに、原作者である四谷シモーヌが表した小説が挟み込まれているのです。時の皇太子殿下とその周辺の人々が登場するロマンティックでありながら、妖気あふれる内容です。つまり、コミックと小説がかわるがわる登場するわけで、なんとも不思議な構成になっていますが、これはこれで面白いと感じました。
コミックで一郎やアルバートの姿を既につかんでいるので、物語にもすんなり入っていくことができます。場面は途中から狩猟の世界へ突入します。著者の四谷シモーヌは、世紀末の英国にのめり込んでいるというだけあって、私にはなじみのない貴族の館やその使用人たちの様子を生き生きと描き出します。
そして勃発する殺人事件。犯人はいったい誰なのか? 一郎とアルバートの連携プレーに目を見張りながらも、私も世紀末倫敦の魅力と退廃に痺れたような気持ちになりました。
古さと新しさが戦いながら同居する街・ロンドン
私はロンドンに留学した経験もなく、英語も苦手で、旅行中もひやひやしてばかりいます。けれども、ロンドンが好きなのです。博物館は無料なところが多いし、警察官は優しい。ロイヤル・アスコット競馬では、まさに夢のような世界が繰り広げられます。
主人公の一人、アルバートが過去からやってきたと言いたくなるような、若くて素敵な貴族の青年も見かけます。19世紀末倫敦が一日だけ蘇ったのではないかと思うほどです。それだけではありません。ロンドンは最先端の文化が闊歩する町でもあります。音楽や小説、舞台など、古さと新しさが同居しつつ戦いあって、この町を作っているのでしょう。ちょうど『世紀末倫敦ミステリー事件簿 背徳の学び舎』が、2つの要素が組み合わさってできているように…。
【書籍紹介】
世紀末倫敦ミステリー事件簿 背徳の学び舎
著者:四谷シモーヌ、今 市子
発行:学研プラス
19世紀末。父に英国留学へと放り出された山田一郎。下宿先はモートン伯爵家だが、一郎を迎えに来たのは美貌の青年アルバート・タートリー。そして連れていかれた先は……! ロンドンを舞台に描く、一郎とアルが巻き込まれるミステリアスな事件の数々!!