いまや、至るところで目にするようになった「断捨離」という言葉。最初に提唱し、著書やテレビ・雑誌などのメディアを通じて広く一般化させたのが、やましたひでこさんです。
そんな正真正銘の“生みの親”が、日々思うこととは何なのか? 日常における、断捨離にまつわる気づきをしたためたエッセーを毎月1本、お届けしています。前回は「なぜ、片づけても片づかないのか?」という、誰もが抱えているであろう悩みについて考えを巡らせていただきましたが、さて今回は……?
旅という非日常は。
南米ボリビアとペルーを旅する機会を得てウユニ塩湖とマチュピチュを訪れた。12日間日常の暮らしを離れてみると、しかも、あまりに遠い異文化環境に浸ると、かえって、自分の日常が浮かびあがってくるものです。
だからこそ、こんな感慨が湧いてくる。
「旅は非日常なるも、整うのは日常」
それは、常日頃、当たり前となっている諸々、その有り難みをすっかり失念している自分に気づくということでもあって。
たとえば、トイレ。日本に戻って、最初にお世話になる成田国際空港のトイレの美しさ。それは設備の充実もさることながら、つねに清潔に維持管理されていることにあらためて感心するばかり。
旅の途中、異郷の辺鄙な場でのトイレ探しは切実な問題。安心と安全と快適さがそこに見いだせることは稀で、ほとんどの場合、緊張と警戒で心が休まることはないですね。
だからこそ、日本のトイレでほっとした瞬間に、私の日常は、こんなふうに安心に囲まれているのだと感謝の気持ちが湧いてくるのです。
そして、洗濯とお風呂。水とお湯がふんだんに使えることの有り難さは格別!チョロチョロとしか出ないシャワー、しかも、一向に熱くなる気配がないともなれば、心を穏やかにしているのはかなり難しく。
ひたすら、「ここは日本ではない、ボリビアだから」と自分に言い聞かせ納得させ、「帰国したら湯船にどっぷりつかろう!」と思いを馳せるのです。
そう、実は、「断捨離」の「断」とは、「断たれてこそ、初めて、その有り難さがわかる」という意味なのですね。
その例が、「断水」。
蛇口をひねれば水が出る。これは、当たり前のこと。この当たり前のことに日常の生活で不思議や感謝をもつことはなくて。
けれど、災害時という非常時に断水の経験をしたならば。それが、どれほどの不都合をもたらすか、やはり、想像と体験との格差は大きいはず。そして、復旧が叶った時、「蛇口をひねれば水」という現象に、どれほど多くの人々の不断の維持管理が費やされているのかを思い巡らすことになるのです。
日常の当たり前の数々。
それは、当たり前ではなく、「有り難い」、つまり、「そう有る」ことが「難しい」という意味だと知ってはいたとしても、やはり、それを断たれるという経験をしなくては身にしみて理解ができないのが私たちなのでしょう。
ところで、なぜ、そんな不都合や難儀を感じてまで、わざわざ、遠い辺鄙な地へと赴くのか、自分でも可笑しく感じたりもします。これが、高級リゾートでの滞在であるならば、そこで味わう非日常は格別なそれであるだろうに。
時間をかけて、お金をかけて、わざわざ、空気の薄い高地で体調を崩し、強い日差しと乾燥に肌を痛め、埃にまみれながら暑さにやられ、また、一転、極寒に震えるというボリビア・ウユニ塩湖とペルー・マチュピチュへの旅。
それは、やはり、そこに赴かないと味わうことのできない圧倒的な空間が待っているからに他なりません。
岐阜県より広いというウユニ塩湖。硬い塩の岩盤上に薄く張った水が湖を鏡に変えてくれる。そこに映し出される雲ひとつない青空、沈む夕陽、満天の星、天の川、そして朝陽。そんなウユニ塩湖に静かに佇めば、そこは、非日常以上の異次元空間に存在している私に出逢うことになるのだから。
それは、マチュピチュも同じ。この空中都市、天空都市は、はるか時空を超えた摩訶不思議な世界に私を誘ってくれる。そして、降り注ぐ光の雨に身も心もすっかりと洗われていくのだから。
それにしても、旅をして思うことは、いつもこれ。
人間は、どんなところでも暮らしているものだと。
人間は、いたるところで生活しているものだと。
人間は、あらゆるところで生きているものだと。
※「断捨離」はやましたひでこ個人の登録商標であり、無断商業利用はできません。
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