生野菜が美味しい季節になりましたが、ふと「日本人は、生野菜をいつから食べていたのだろうか」ということが気になりました。
色々と調べてみると、今から100年前はまだ生野菜を食べることは一般的ではなかったようですが、特にその発端となったのは1925年に日本で初めて製造・販売されたマヨネーズの登場だったようです。
キユーピーのマヨネーズは、その浸透に営利以上の情熱を注ぎ、日本に洋風の食文化を広めたと言っても過言ではないようです。今回はそのキユーピー本社に突撃し、その歴史と知られざる真相を聞きました。
関東大震災をきっかけとした時勢と日本初のマヨネーズ誕生
――100年前、日本人は生野菜を食べる習慣がなかったようですが、実はその時点で、すでにキユーピーの前身・食品工業は創業されていたんですよね。
村居綾子さん(以下、村居) はい。弊社の前身・食品工業の創業は今から100年前の1919年ですが、このときはまだマヨネーズは作っておらず、主に缶詰の製造・販売をしていました。
この時代は洋風の食文化がまだそれほど日本に入ってきておらず、生野菜を食べる習慣もなかったようです。もっとも、弊社の創始者・中島董一郎はこの時代であっても「マヨネーズを発売したい」という思いはあったようですが、まだまだ女性は着物、袴の時代ですので、「まだ時期ではないな」ということで、発売に至らなかったようです。
――その「和服が一般的」だったところが、何のきっかけで変わったのでしょうか。
村居 1923年の関東大震災の影響が大きかったようです。関東大震災では甚大な被害があり、家屋や資財も焼けたところが多かったようですが、この復興から再建する際に、建物、衣服などの西洋化が進んだそうです。中島はこれを機に食卓にも変化が訪れると感じ、満を持してマヨネーズを製造・販売を始めたようです。
――当初から「生野菜を食べる」ことを主軸に開発されたのでしょうか。
村居 当初は鮭の缶詰に添えるソースのような感じで発売したようです。
生野菜+マヨネーズ浸透の一方、大量の卵白が余ってしまう問題も…
――やがてマヨネーズは生野菜に添えるものとして浸透していくわけですが、これは何年頃のことだったのでしょうか。
村居 この生野菜浸透は、だんだん広まっていったようで、実は明確なお答えができません。
当初、中島はマヨネーズを使った生野菜はもちろん、ポテトサラダ、玉ねぎと鮭をあえたサラダなどと併せて、日本に新しい食文化を広めようとしていたようです。発売当時はマヨネーズがほとんど知られていなかったため、食卓にさりげなくキユーピー マヨネーズが描かれた絵画を広告に使うなど、その浸透にはかなり創意工夫を凝らしたようです。
また、当初は、今の値段にすると約1800円もしたマヨネーズですが、この100年近くで通算24回の値下げをし、お買い求めしやすいよう努力しました。
――何故でしょうか。
村居 単に営利だけでなく、中島が日本人全体の体格と健康の向上を願っていたからです。一人でも多くの方に新しい食文化とマヨネーズを広めたかったのだと思います。
この試みによって、1941年にはマヨネーズの出荷量が10万箱近く(約500トン)に達しました。キユーピー マヨネーズは卵黄で作っていますが、マヨネーズの製造量が増えるにあたって、「卵白が大量に残ってしまう」という問題も起こりました。
そこで、中島は「マヨネーズ事業をより成功させるためには、卵白をうまく売らなければならない」と考え、今日に至るまで続くタマゴ事業やファインケミカル事業も始めることになりました。
キユーピーちゃんは、マヨネーズ以前からあったキャラだった!
――前後しますが、キャラクターのキユーピーちゃんですが、これはどのようにして設定されたのですか。
村居 もともとはアメリカのイラストレーター・ローズオニールが描いたキャラクターを起用させていただきました。
当時、日本でも“キユーピーちゃん”のセルロイドの人形が人気があったようで、「まだ知られていないマヨネーズという商品が、あのキユーピーちゃんみたいに、みんなに愛されるように育って欲しい」という願いから、キャラクターになったようです。
――ある意味、その“キユーピーちゃんとマヨネーズ、そして新しい野菜文化というものが一体となり広まったのでしょうか。
村居 そうだと思います。ただ、かなり浸透したマヨネーズですが、第二次世界大戦が始まり製造をいったん中止します。また、終戦後もすぐには事業を再開しなかったようです。
――何故ですか。
村居 中島の信念として「良い商品は良い原料からしか生まれない」という思いがあったからのようです。戦中はもちろん、終戦後は材料が手に入らなかったんですね。かろうじて闇市などで材料が手に入ることもあったようですが、やはり中島は「正しい原料でないといけない」と、戦後の混乱が落ち着くまでは頑として再開をしなかったようです。
ようやく原料の入手経路も確保できた3年後の1948年に、製造を再開することになります。この3年の間、従業員が去っていくなど、会社としては大変な時代もあったようですが、当初の中島の信念はお客さまからの信頼に繋がり、再びマヨネーズの出荷量が増えていきました。
1958年にはポリボトル容器入りマヨネーズ誕生と、日本初のドレッシング販売も
――戦後さらに広まっていったマヨネーズと併せて、1957年には社名が当初の食品工業から「キユーピー」に変更されます。
村居 マヨネーズのブランドとして親しみを持っていただけるようになった「キユーピー」をそのまま社名にしました。翌年の1958年には、従来の瓶容器やポリエチレン袋入りのマヨネーズに加え、さらに使いやすい自立式ポリボトル容器入りのマヨネーズを発売します。
ただし、この頃のポリボトルは、使いやすい反面、内容物が酸化しやすいという難点もあったようです。これを改善するために、今は薄いプラスチックを何枚も重ねた酸素バリア性の高い多層ボトルを採用しています。
――また、同年には日本初のドレッシングの製造・販売もスタートしますね。冒頭の生野菜文化の向上にはより貢献されることになります。
村居 マヨネーズの需要が増える中で、キユーピー フレンチドレッシング(赤)を皮切りに、現代まで様々なドレッシングを開発しています。
「キユーピー3分クッキング」は、「料理の天気予報」!?
――ところで、キユーピーと言えば、「キユーピー3分クッキング」が有名ですが、これはいつ頃から放映されていたのですか?
村居 1962年です。「天気予報のように料理のヒントをお伝えし、毎日の献立に役立ちたい」という思いから、一般的な食材と道具で出来るメニュー提案として始めました。一度の放送時間は短くて良いので、毎日放送することにしました。
また、「野菜をもっと食べていただくこと」をテーマにした広告(1974年開始)、全日本おかあさんコーラス大会への協賛(1978年開始)など、広告宣伝にも商品開発と同じように力を注いだことも弊社の特徴かもしれません。
生野菜に特化した関連会社、サラダクラブも創業
――1970年代、1980年代は前述のマヨネーズ以外のファインケミカル事業なども本格的にスタートさせますが、今回のテーマに特化したところだと、1999年にサラダクラブというグループ会社も設立されます。
村居 1990年代以降、働く女性、単身世帯の増加、核家族化などの背景を受けて、生野菜をいつでも手軽に無駄なく食べられるパッケージサラダ(カット野菜)の需要を意識して、専門の会社、サラダクラブも設立しました。
衛生的な工場で加工・袋詰めをしているので、洗わずに食べられます。もちろん、全国の野菜生産者の皆さまと連携し、鮮度と美味しさにこだわっています。
――さらにマヨネーズそのものに話を戻すと、近年は海外でもマヨネーズを作っているようですね。
村居 はい。タイ、中国、アメリカ、ヨーロッパ……現在は海外に数多くのグループ会社が出来まして、各地でマヨネーズを作り、近隣諸国へお届けするようにもなりました。
いま、キユーピーの全従業員が考えていることは?
村居 今年で100年となるキユーピーですが、これからの未来、実は今回の100周年にあたり弊社の上層部が国内外の事業所全てを回って、全員の従業員とある対話をしています。それは「これからの100年」というテーマです。従業員個々が「100年後」のキユーピーを考えています。
私はこれまでに培った弊社の歴史、製品を元に、日本の食文化をさらに飛躍させることができたらいいなと思っています。マヨネーズは野菜等にかけるような従来の使い方以外にも面白い使い方がたくさんあります。こういった発見などをもって、さらに多くのお客さまに楽しい食生活のご提案させていただければと思っています。
当たり前のように生野菜を買い、マヨネーズやドレッシングをかけて食べる自分でしたが、この背景には、生野菜文化浸透のきっかけとなったキユーピー マヨネーズと同社の100年にも及ぶ長い歴史があることがわかりました。この歴史を噛み締めながら、改めて生野菜を食べてみると、また違った味わいを感じるかもしれませんよ。