深緑野分さんの、戦地を語るその描写力は本当にすごいと思う。2年前にベルリンを旅する前に読んだ『ベルリンは晴れているか』は1945年初夏の敗戦直後の廃墟と化したベルリンを舞台にしたミステリーだが、あの街を理解するのにとても役に立った。本の中では瓦礫の山となったベルリンを主人公と共に歩き、現実では70数年経って国際都市に生まれ変わった街を歩いたが、戦争の爪あとは其処彼処に残っているのを感じた。
そして今日紹介する『戦場のコックたち』(深緑野分・著/東京創元社・刊)では、ノルマンディーからベルリンを目指して進んだ若き米兵たちの物語だが、まるで私もその場に居合わせたかのような気分になった。ヨーロッパ戦線を扱った小説や映画はたくさんあるが、ひとりのコック兵の視点で描いた本作は他とは異なりとても新鮮だった。
おばあちゃんのレシピ帖をお守りに戦地へ
本書の主人公・ティム(通称キッド)はアメリカ、ルイジアナ出身で、人生の楽しみは”食べること”という青年だ。実家は雑貨店を営んでいたが、一番の売れ筋は雑貨ではなく、店先のワゴンで量り売りされていたおばあちゃんお手製の惣菜たっだ。彼の祖母はイギリス生まれで、ある屋敷でキッチンメイドとして働いていて、見様見真似で料理の腕を上げた。結婚し、新天地アメリカに移り住んだあとは、惣菜作りの名人としてその腕を発揮することとなった。家には十数冊に及ぶレシピ帖があった。
戦争がはじまり軍の志願兵を募る告知が出たとき、ティムは17歳になったばかりだった。戦場になっていないアメリカにいれば安泰だが、志願して戦地に向かう若者はどんどん増えていった。その理由は安定した給料、金だった。ティムも志願を決めたものの家族は反対。だが、唯一背中を押してくれたのは祖母だった。
「行きなさい。ただし死んではならないよ。使命を全うしたら、必ず帰っておいで」それで僕の従軍は決まった。祖母のレシピ帖から一冊、お守り代わりに持ち出して、列車に乗った。
(『戦場のコックたち』から引用)
戦闘にも参加するコックたち
入隊したティムはすぐに戦地に送られるのではなく、配属になったジョージア州の基地で2年間訓練を受けた。
ある日、ティムはコック兵を増員する張り紙を見た。射撃もうまくないし、足も平均より遅く、図体ばかりでかい子どもだと仲間から笑われ”キッド”と呼ばれる始末。コックなら実力を生かせるとは思ったものの、軍隊におけるコックの評価は低く、落伍者に過ぎないと思われていたのでティムは二の足を踏んでしまう。
そんなとき、コックのリーダーであるエドに出会った。年は同じぐらい。色白で細身で丸メガネをかけ、軍服からは食べ物のにおいが漂う青年だった。エドも最初は仲間から馬鹿にされていたが、彼がコックになってからは、食事や糧食の過不足がなくなり、料理のリクエストが採用されるようになると陰口は消えていった。そのエドから声を掛けられたティムは祖母に手紙で相談をする。そして「料理だって闘いの重要なポイントだ」という返事を受け取り、コックになることを決めたのだ。
僕は覚悟を決めた。そして需品学校のあるバージニア州フォート・リーで二ヶ月間の練成訓練の後、はじめて階級章を得て、無印の二等兵から五等特技兵に昇格した。(中略)僕らの任務は、隊員に糧食を配り、食材と時間と場所に余裕があるときは調理をし、食中毒にならないように衛生指導しつつ、仲間たちの胃袋を管理すること。コックと言っても僕は中隊管理部付きだから、戦闘となれば銃を取り、普通の兵と一緒に前線で戦う。
(戦場のコックたち』から引用)
こうして19歳になったティムはエドをはじめ親しくなったコック仲間たちと共にノルマンディー降下作戦へと向かって行った。
戦場の「日常の謎」を解く
目次は以下の通り。
第一章 ノルマンディー降下作戦
第二章 軍隊は胃袋で行進する
第三章 ミソサザイと鷲
第四章 幽霊たち
第五章 戦いの終わり
それぞれの戦場で起こる奇妙な事件に、若き兵士たちが気晴らしのために謎解きをしていくというミステリー小説で、いわゆる戦争ものが苦手という女性もおもしろく読めるのが本書だ。
ノルマンディー降下作戦で使われたパラシュートの白い絹の生地をひっそり集めていた兵士がいたのはなぜか? 忽然と消えた600箱の粉末卵はどこへ? オランダの民家で起きた夫婦の奇妙な自殺はなぜ起こったのか? 塹壕戦の最中に聞こえる気味の悪い怪音の正体とは?
常に死と隣りあわせの戦場で、ティムだちはささやかな謎解きをすることを心の慰めとしていたのだ。まったく違う視点で描かれたヨーロッパ戦線が読み手にはとても新鮮だ。
腹が減っては戦はできぬ
連合軍にドイツそして日本が負けたのは、人海戦術と食料をはじめとする物資の圧倒的な差も一因だったのだと、この本を読んでいるとよくわかる。
いくら厳しい訓練を重ねた兵士だって、所詮は人間だ。腹も減るし、休息しなければ疲弊が増大、使い物にならなくなって戦闘に敗れ、結局は前線が維持できなくなる。肝心の兵士が弱っていては勝てない。
(『戦場のコックたち』から引用)
第二章の「軍隊は胃袋で行進する」では、兵士たちが交代で、後方の野戦基地での給養していたことが描かれている。いったん後方地区に下げられた兵士たちは、シャワーを浴び、戦闘服を洗濯に出してリフレッシュ。そして作り立てで栄養たっぷりの料理をお腹いっぱいに食べ、ベッドに横たわってゆっくりと眠る。そうして元気になったら、再び前線へ戻っいく。当時の連合軍の前線の維持は、そういう兵士のリサイクルに支えられていたのだ。
物語は、ティムが戦後アメリカに戻ってからのこと、さらには40数年後に戦友たちとベルリンで再会するまで続き、最後までワクワク、ドキドキしながら読み終えることができた。深緑さんは、このヨーロッパ戦線に関する膨大な資料を集めて、このストーリーを完成させたのだろう。史実と創作の狭間で生まれたミステリー長編小説、あなたも是非ご一読を。
【書籍紹介】
戦場のコックたち
著者:深緑野分
発行:東京創元社
合衆国陸軍の特技兵、19歳のティムはノルマンディー降下作戦で初陣を果たす。軍隊では軽んじられがちなコックの仕事は、戦闘に参加しながら炊事をこなすというハードなものだった。個性豊かな仲間たちと支え合いながら、ティムは戦地で見つけたささやかな謎を解き明かすことを心の慰めとするが。戦場という非日常における「日常の謎」を描き読書人の絶賛を浴びた著者の初長編。