Nirvanaのカート・コバーンがフェイバリット・バンドに挙げるなど、世界中で圧倒的な支持を集める少年ナイフ。そこで13年間ベーシストとして活躍してきた「りつこ」が「Litsuko」と名義を変え、作曲家・ソロアーティストとしての道を歩み始めた。安定した地位を捨ててまで、なぜこのタイミングでの決断に踏み切ったのか? これまでの音楽遍歴を振り返りつつ、未来へのビジョンと熱い胸の内を語ってもらった──。
(取材・撮影:丸山剛史/執筆:小野田衛)
漫画好きの陰キャがバンドを始めるまで
──昨年11月に少年ナイフからの脱退を発表しましたが、現在の肩書はどうなっているんですか?
Litsuko 肩書か……。まさに今、そこをきちんと打ち出さなくちゃいけない時期なんですよ。活動形態としてはシンガーソングライター、それから作詞・作曲の作家活動をしています。あと2020年からrumania monteideoの三好誠さんとmophing people(モ-フィングピ-ポ-)というユニットを組んでいるんですよ。だから、少年ナイフのときと同じくベーシストでもありますね。
──かしこまりました。今回はLitsukoさんの今までのキャリアもお伺いできればと考えているのですが、そもそも音楽に目覚めたきっかけは覚えています?
Litsuko 音楽に関する最初の記憶は、父親が持っていたレコードなんです。ビートルズのベスト盤とかオールディーズ全集とかでした。たぶんそれが5~6歳くらいのときだったんじゃないかな。だけどそこまで音楽大好き少女って感じでもなくて、むしろ私は漫画が大好きだったんですよね。「マーガレット」(集英社)、「りぼん」(集英社)、『ときめきトゥナイト』(池野恋・著/集英社)……そのへんが直撃世代で。とにかく漫画が好きすぎて自分でも描くようになったんです。それは『ホットロード』(紡木たく・著/集英社)に感化された不良漫画だったんですけど(笑)。
──一定の世代にとって、『ホットロード』はバイブルですからね。
Litsuko そうなんですよ。それで調子に乗った私は、自分の描いた『ホットロード』風の漫画に主題歌をつけるという謎の行動に出るんです(笑)。当時は楽器も弾けなかったのに、適当なメロディをつけて。思えば、あれが自分にとって最初の作曲かもしれないな。
──春山洋志(『ホットロード』の主人公)をイメージしたような主題歌?
Litsuko まさにそんな感じで。それと、当時はチェッカーズもめちゃくちゃ流行っていたんですけど、(藤井)フミヤさんってちょっとイメージ的に春山に似ているじゃないですか(笑)。しかもチェッカーズは音楽的にオールディーズとか50‘sの要素が強いので、小さいころから父の影響で親しんでいた音楽性とリンクしたんですよ。チェッカーズの影響でバンドに対する興味がすごく大きくなっていきました。
──バンド活動は高校くらいから始めたんですか?
Litsuko いや、高校のときは見ているだけでした。私の通っていた高校では、軽音楽部に入っているのってイケている人ばかりだったんですよ。私は漫画好きの陰キャだったから恐れ多いとビビっちゃって。今でも鮮烈に覚えているんですけど、文化祭でめちゃくちゃカッコいい先輩バンドの演奏を見たんですよね。ボーカルはオードリー・ヘプバーンみたいな格好をした女の人で、高校生なのに本格的なオールディーズを歌うんです。もうカッコよすぎた!
──確かにセンスがいい高校生ですね。
Litsuko そのオールディーズとは別に、強力なバンドが学校にもう1個あったんです。軽音部の2大勢力みたいな感じで。そっちはわりとテクニカル志向でMR. BIGとかを演奏していたんですけど、そんな中でなぜかチェッカーズの『I have a dream #1』を歌い始めたんですね。すると、オードリー・ヘプバーン似の美人な先輩が泣きながらステージの様子を見つめているんです。
──ん? どういうことでしょう?
Litsuko 実は2人、つき合っていたんです。もうまさに漫画の世界ですよ。フミヤと春山、不良カルチャー、オールディーズ、バンド活動、美女の涙……自分が大好きだったものがすべてそこで繋がったと言いますか。校内2大バンドのライブは視聴覚室で観たんですけど、両方ともカリスマ性が半端じゃなかったですね。その後、私は自分がプロになっていろんなバンドを観ましたけど、あのライブを超えるインパクトはいまだにないかもしれない。すごく憧れました。自分は本当にやりたいことはこれだって思いましたし。だけどあまりにもすごすぎて、自分が軽音部のドアを叩くことは躊躇してしまったんです。だから私がバンドを始めたのは大学入学後になりますね。
──当初はギター兼ボーカルで?
Litsuko いや、最初はボーカルだけ。だけど一緒にやっていたギターの先輩が4回生だったので、私が2回生になるタイミングで卒業してしまったんです。それで仕方なく自分がギターも弾くようになりました。必要に迫られてという感じですよ。当時はビートルズ、スモール・フェイセズ、キンクス……それに少年ナイフもカバーしていました。
おもいっきり勘違いしたキラキラ☆スナイパー時代と空白の2年間
──オリジナル曲を作り始めたのは?
Litsuko ライブハウスに出演する際、「オリジナル曲をやらなあかん」みたいなことを急に言われたんですよ。だからこれも「必要に迫られて」という感じでした。ただ、そのときは自然に曲が書けたんですよね。やっぱりバンドメンバーの中にも書ける人と書けない人がいたんですけど、自分はそんなに苦じゃなかったと言いますか。それで3回生くらいになると、もうバリバリにバンド活動をしていました。それがキラキラ☆スナイパーというグループだったんですけど。
──キラキラ☆スナイパーはテレビ出演も何度か果たし、トントン拍子で駆け上がっていったイメージがあります。
Litsuko いろんなラッキーが重なったと思うんです。当時の私たちは全員が世間知らずのアホだったので、おもいっきり勘違いしていました。キラキラ☆スナイパーなんていう名前をつけて、本当にキラキラな衣装を着て……。自分たちとしては自信満々で、「もうこれは紅白も行けるんじゃないの?」とか話しているんですよ。
──素晴らしいじゃないですか。若さ特有の勘違いぶりが眩しいというか。
Litsuko まさにそこなんですよ! 当時の私たちは自分たちのことをイケていると信じていたし、周りの大人から見ると、そういう勘違いした姿が可愛かったんだろうなって今となってはよくわかるんです。楽器なんて初心者丸出しだったし、右も左もわからなかったけど、物怖じなんて一切することがなくて。ただ、やっぱりそこで限界に突き当たるわけです。当時はパソコンでの修正はおろか、パンチインやパンチアウト(レコーディング時、間違えた部分だけを録音し直す手法)するのも大変な時代だったから、演奏力がないと認められなかったんですね。キラキラ☆スナイパーはソニーミュ-ジックのSDの人に可愛がってもらえたんですけど、結局、最後までCDリリースはできませんでした。
──いいところまで行っただけに、少しもったいなかったですね。
Litsuko キラキラ☆スナイパーの後期では演奏を上手くしようとメンバーが躍起になるほど、初期のキラキラ感が失われていったんですよね。初期衝動みたいなものがバンドからなくなっていったんです。本当にこのへんがバンド運営の難しいところなんですけど。それで結局はメンバーが大学を卒業するタイミングでバンドも解散。そこから私は空白の2年間に突入していきます。
──空白とは言うものの、2年間に何かをやってはいたんですよね?
Litsuko ビーイング系のレーベルでシンガーソングライターとしてデビューを目指そうという話になったんです。書いた曲を聴いてもらうため、レコード会社に通っていましたね。そこで曲をものすごく書きました。「100曲あったら、おそらくその中に1曲はシングルになるようなものも出てくるだろう」という考え方の会社だったので。とにかく1日1曲ペースくらいで量産して、月に1~2回くらいのペースでレコード会社に持っていくんです。それで「おっ、いいじゃん」みたいな曲があるとアレンジャーのところに持っていくという流れ。だけど結局はかすりもせずに、気づいたら私も24歳になっていたんですよ。それで24歳でのソロデビューは難しいみたいな話になって、そのまま終わりました。
──その間、レーベル側からはギャラも派生せず?
Litsuko もちろんです。普通にOLとして働いて生活していました。ただ、その空白の2年間も意味がまったくなかったとは思わないんです。そこで作曲の“いろは”が学べたし、最初のうちは「こういうコードをつけたほうがいいよ」とかアドバイスもしてもらえましたし。
京阪GIRLから電気キャンディ——音楽で生計を立てるということ
──今のYouTubeやニコニコ動画みたいに発表の場があれば、状況もまた変わっていたんでしょうかね。
Litsuko 一応、私もMP3のホームページを作り、そこに弾き語りした曲をアップしたんですけどね。でも、やっぱりバンドをやりたいという気持ちが徐々に大きくなったんです。そしてそんな中、京阪GIRLの相方・有カリンと知り合いまして。当時はまだ彼女も女子高生だったんですけど。
──年齢的には少し離れていた?
Litsuko 9歳、離れていました。「京都の女子高生と大阪のOL」というコンセプトでしたから。私はゴルフ場の受付嬢をやっていたので、そのことを歌詞にしたりしましたし。有カリン、お兄ちゃんの影響でキラキラ☆スナイパーの存在を知っていたんですよ。それで意気投合して、一緒にバンド活動することになったんです。私にとって大きかったのは、有カリンが書くセンス抜群の歌詞! 私は彼女が作った歌詞にメロディを乗せていただけでしたね。
──詞先だったんですか?
Litsuko 基本はそうです。私もそのころになるとある程度は音楽的な知識も身につけていたから、有カリンの初期衝動をきちんと楽曲として仕上げられるようになっていたんですね。そこが技術的に未熟だったキラキラ☆スナイパーとの違い。
──京阪GIRLはメディア展開も積極的に行っていましたよね。『SDM発!』(フジテレビ系)で『ドリームメーカー』が主題歌に使われましたし。
Litsuko フジテレビ系のオーディション番組に最初は普通に応募して、その流れでMVを作ってもらえることになったんです。それからZepp Tokyo でGIRLPOP FACTORYという、プロデューサー・きくち伸さんが開いたイベントにも呼んでもらえました。いろいろ目をかけてもらえていたのは確かです。
──きくちPのお墨付き! すごいじゃないですか!
Litsuko 時代の追い風もあったと思うんです。というのも、ちょうど当時の音楽界はインディーズブームになっていましたから。ガガガSP、MONGOL 800、FLOWによるパンク版の『贈る言葉』……。京阪GIRLがその影響下にあったとは思わないですけど、やっぱり話は耳に入ってくるじゃないですか。「10-FEETのCDは初期出荷枚数がこんなにすごいらしいよ」とか。実際、ライブハウスにはめちゃくちゃ人が入っていましたしね。だけど私はお金のことに無頓着で、OLをしていたから生活費はそっちで稼げばいいやと考えていたんです。やっぱり2年間の暗黒期も経験しているから、そこであまり浮き足立った感じにはならなかったんですよ。だから普通にゴルフ場での受付も続けていたし、東京でのライブが終わると新幹線の終電で戻って翌日の仕事に備えたりしていました。
──昔はレコード会社や芸能事務所と契約しないと音楽で生計を立てるのは不可能とされていましたが、そのころから業界も変わった印象があります。CDが売れなくなる一方、バンドもDIY方式でライブをブッキングしたり、物販で稼ぐようになって。
Litsuko 過渡期だったのかもしれませんね。ビーイングでは「ライブなんてしなくていい」と言われたこともあるんですよ。「ライブハウスに200人が入ったところでCDが何枚売れる? だけどラジオで1回オンエアされたら、何万人もの人が聴くんだよ」とか。でも、どうなんだろうな……。正直、京阪GIRLのころはバンドでお給料なんてもらっていなかったですからね。交通費とか宿泊代とか食費はさすがに出してもらっていましたけど。相方も女子高生だから、音楽で生活するほどライブの本数がこなせなかったという面もありましたし。ただ、印税はちゃんと入りましたよ。アルバムを出したときは50万円くらい入ったかな。「あぁ、こんなに入るんだ」とか思いましたから。そのへんで音楽ビジネスの仕組みを知ったというか、音楽で生計を立てるということを徐々に考え始めたのかもしれない。
──有カリンの高校卒業を機に京阪GIRLは解散。その次のバンドが電気キャンディです。
Litsuko 電気キャンディで一緒に活動していたミルキーは、私の従妹なんです。しばらくうちの実家に下宿していた時期があって、そのときカラオケに行ったら歌が上手くて声も最高だったからビックリしちゃって。結局、電気キャンディは4年くらい続けたのかな。すごく楽しかったです。もともとミルキーは声が細くて高い感じだったので、アニメ主題歌とかが似合いそうだなと思っていたんですよ。雰囲気もふんわりしていて、ビジュアル的にもアニメオタクとかに受けるんじゃない?とか(笑)
電気キャンディでの私は完全にプロデューサー目線で、どうしたらミルキーの魅力を引き出せるのかに集中していたところはありますね。私の書く曲の持ち味はロック性だから、ロックっぽいアイドルができないかなと試行錯誤しつつ。ミルキーは歌詞もたくさん書いてくれたので、相性はすごくよかったと思います。
──そのへんになると生活も完全に音楽中心で?
Litsuko いや、音楽で食っていこうという意識は、この期に及んでも一切なかったです。ただ「音楽=人生」みたいには考えていたから、これはもう一生やるものなんだなという覚悟は決めていたんですね。ゴルフ場の受付を辞めてからも契約社員を週4日とかやっていましたし、長く音楽を続けるためにも仕事は別にやったほうがいいという考えだったから。「音楽=仕事」じゃないからこそ、いつまでも続けられると思ったんですよ。
憧れの少年ナイフに加入もなぜかベーシストに
──そして2008年、ついに少年ナイフに加入します。これは、どういう経緯だったんでしょうか?
Litsuko 少年ナイフのことは昔から本当に大好きでした。大学時代の最初のバンドでもカバーしていたし、京阪GIRLのときも「尊敬する少年ナイフ」という歌詞があるくらいですし。それで少年ナイフが対バンのイベントをやるというときに、私が熱烈なファンレターを書いて参加させてもらったんですよね。それからしばらくして、オリジナルメンバーでベーシストのあつこさんが結婚を機にアメリカに移住するという話になったらしくて。そこで私に声がかかったんです。最初はサポートという話でしたけど、どうもあとから知ったところだと「正式なメンバー加入を見越したサポート」ということだったみたいです。
──それまではギター&ボーカルのスタイルでしたよね。ベースは抵抗なかった?
Litsuko いや~、めちゃくちゃ苦労しましたよ! 私も最初は「あの……間違えていないですかね? 今までギターやってたんですけど」くらいの感覚だったんです。でも、バンドとしては「とにかく少年ナイフが好きなメンバー」というのが大前提としてあったみたいで。「大丈夫だよ。ギターが弾けるんだったら、すぐベースも弾けるようになるよ~」みたいな感じで軽く言うんです(笑)。まぁでも、ずっと憧れていたバンドに自分が入れるわけですからね。猛特訓しました。
──話を伺っていると、京阪GIRLや電気キャンディ時代のLitsukoさんはすでに今の活動に繋がるようなコンポーザー志向が強くなっていましたよね。少年ナイフにはなおこさんという絶対的なソングライターがいて、しかもソングライティングの質で評価されてきたバンドじゃないですか。自分が曲を書けないことのフラストレーションはなかったんですか?
Litsuko それは一切なかったです。とにかく少年ナイフというバンドを盛り上げたいという一心で活動していましたから。実際、少年ナイフの12年間で自分から曲を書きたいと言ったことは1回もないです。そういう意味ではプレイヤー志向というか、気持ち的にはサポートだったのかもしれないですね。たぶん私は書かないほうがいいんだろうなと思って、特に口出しはしなかったんです。
──至近距離で見た、なおこさんのソングライティング能力というのは?
Litsuko 控えめに言っても天才だと思います。私、なおこさんは日本のポール・マッカートニーだと信じて疑わないんですよ。楽曲が国境を超えるし、メロディが時代を超える。要するに普遍的なんです。少年ナイフみたいにシンプルでポップなバンドは世の中にごまんといるけど、やっぱりなおこさんの書く曲は何かが違うんですよね。尖った曲を書く人というのは信者もできやすいし、一時的には人気もすごく出るかもしれない。嫌いな人もいっぱいる分、反対に信者がいるという状態になりがち。もちろんそれはそれでいいんです。だけど、少年ナイフは嫌いだと言う人がいないバンドですから。そこが圧倒的にすごいなって。
──本当の意味でポップですよね。
Litsuko 歌詞も難しいことなんて一切言ってないですもん。政治とか宗教に触れるのは嫌だってなおこさん自身も言ってましたね。少年ナイフの題材は食べ物とか普段のデイライフに関することばかりで、日常生活そのものなんです。それって実はすごく難しいことですから。
──少年ナイフ加入後は、海外でライブする機会も多かったのでは?
Litsuko そうですね。多い時期だと年の3分の1は海外でツアーしていました。そのころはさすがに他の仕事も辞めていましたね。ずーっとアメリカをツアーで回って、それが終わったらすぐイギリスに行くみたいな感じだったので。
──日本で生活していると、少年ナイフの海外人気って皮膚感覚としてわかりづらい部分もあるんです。実際、向こうだとどんな受け入れられ方をしているんですか?
Litsuko よっぽどの大物ミュージシャンじゃない限り、日本だと普通は東名阪の3か所がライブの拠点になるんですね。逆に言うと、東名阪以外の地方都市は全体的に苦戦する傾向がありまして。だけど、アメリカでツアーすると、聞いたこともないような田舎でもお客さんが集まってくるんです。
──アメリカの田舎って、日本じゃ想像もつかないくらいレベルのド田舎じゃないんですか?
Litsuko その通りなんですけど、それでもライブをやるとパンパンに人が入るんですよ。驚くのは、日本だとライブハウスに来るのっていかにもロック好きな若い人たちじゃないですか。向こうでライブすると、本当にそのへんにいる普通の人とか年配の方も観に来てくれるんです。音楽が生活と隣り合わせで存在しているんでしょうね。ライブハウスは食事も出してくれるところが多いから、ごはんを食べながら自由にバンドを応援してくれるようなスタイルで。
──共演するバンドも「あの少年ナイフさんですか!」みたいに委縮したりして?
Litsuko それはあまりなかったです。むしろ私たちに用意されたケータリングを食べたりするバンドもいましたね(笑)楽屋に戻ってきたら、「ヘイ、最高だったよ!」なんて言いながら私たちのビールを飲んでいるんです。「あの……一応、私たちがヘッドライナーなんですけど」みたいな(笑)。日本のほうが恐縮されることが多かったかもしれません。
出産・脱退そして、どうすれば音楽をやれるのか
──さて、そんな充実した少年ナイフでの活動を辞めようと思ったのはなぜでしょうか?
Litsuko 一番大きかったのは、子どもの出産でしょうね。バンドはずっとツアーも続けていたし、やっぱりそこで止まるわけにはいかないんです。それで私は産休を取らせていただくことにして、オリジナルメンバーのあつこさんがベースにまた復帰することになったんですよ。そしてそこで改めて考えたんですね。自分にできる役割は何なのかって。子どもも小さいうちは長期の海外ツアーなんて行けないし、ゲストとしてギターを弾いたりもしたけど、私はもう前みたいなかたちで少年ナイフに戻れないんだなと気づいたんです。このまま普通に子育てする主婦になるという選択肢もあったとは思います。でも、やっぱり私は自分の音楽をやって生きていたかった。どうすればいいのか、すごく悩みましたね。
──母になることとバンド活動って並行させるのは難しいものなんですね。
Litsuko それで出産して1年後くらいかな。3年ぶりくらいにソロでライブをやったんですけど、このときは衝撃的に声が出なかったんですよ。ブランクって怖いなとしみじみ思いました。声帯って痩せるのは速攻なんですけど、戻すのは大変で超トレーニングしないといけないんです。少年ナイフでは前のようなスタイルで活動できない。でも、ソロシンガーとしてもバリバリ活動していくのは難しい。じゃあ、どうするか? 私に何ができるのか? そう考えたとき、作曲に真剣に取り組んでいこうという考えが自然と出たんですよ。
──ある意味、少年ナイフ加入前の状態に戻ったというか?
Litsuko でも、今度はDTMの本格的なレッスンをリモートで受けたりしていたし、イチからスタートし直すつもりでした。なんだかうれしかったんですよね、自分の中で音楽に対する情熱が消えていないことを発見できて。思えば大学の軽音部に入ったときからずっと何かしらやっていたので、何もしないまま母になるということが不安だったのかもしれない。それで少年ナイフのほうにも将来的には作曲の仕事をやっていきたいということを伝え、今のBINGO!という作家事務所に所属することになるんです。そこで楽曲コンペに応募するようになりました。やっぱりコンペで採用を勝ち取るとなると、それ用の戦い方みたいなものがあるんですよ。そういうことを、今は事務所の中で作曲家の成瀬英樹さんに就きながら学んでいる最中です。
──今の活動形態にたどり着いたのも必然なのかもしれませんね。
Litsuko 急に少年ナイフを脱退して、急に作曲家を目指したわけでもなくて、ずっと前から自分の中で続いている物語ではあるんですよ。冷静に考えて、年齢的も立場的にも一番自分に向いているのは作曲なはずなので。とりあえず勝負は今から3年ですね。ここでいっぱい曲を書いて、少しでも多く採用を決めたいというのが目の前の目標となります。やっぱりここまでまがいなりにも人生で音楽をずっと頑張ってきたわけだから、その生きてきた証みたいなものを作っておかなきゃあかんって思うんです。後悔しないように、やるからには全力で頑張っていきたいです。