作文教室や“てらてつ”(お寺で哲学する会)など多くの活動を展開する思想家・作家の大竹稽さんにお話をうかがう機会を得た。ライフログ、感想文、自分史、企画書などさまざまな種類の文章を展開していくための実践的な方法論や、自分で書くことで得られるものについて語っていただいた。
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「書く」とはどういうことなのか?
——最初からずばりお尋ねします。「文章を書く」とはどういうことでしょうか?
大竹稽(以下、大竹) 自分との対話、究極の遊びという風にとらえています。本来は目的もないほうが書けるのではないかと思うところがあります。僕は脱力系で、がんばって書こうとするタイプではありません。この間、大人も子どもも参加してくれる作文や哲学の会で「コミュニケーションとは何か」という話になりました。大人たちからは心のつながりとか、体験ベースで苦しみを共有することだといった意見が出たのですが、ごく普通の小学校2年生の女の子が「花の匂いが空気に乗って、私の息になること」と言いました。周りの大人は全員脱帽です。この子のように、ふと感じたことをそのまま書くのがいいと思います。
——構えずに感じたまま文章を書き続けることで、どのような技術が身につき、どのような考え方が生まれるのでしょうか?
大竹 自分がきわめて狭い世界に住んでいたことに気づかされると思います。俳句とか短歌を習っている、つまり感じたことを書く(歌にする)人たちは、日常生活での目のつけどころが変わるようです。「作ろう」という意識によって、たとえば四季の移り変わりなど、日頃全然意識していなかったことに目が行くようになります。桜の開花の時期とか咲き具合とか、葉の散る様子とか、今日は富士山が見えたとか見えなかったとか、うっかりすると見逃しがちなことに気づきます。実は、生活の根本や大切なことはそこに隠されているということにも気づくでしょう。
思想家である僕には、いろいろな視点があります。ただ、一つひとつにこだわってしまうと本当に狭い世界になってしまいます。視点は無限にあり、それを変えることで、世界は違う顔を見せてくれます。
ライフログは自由に書けるでしょう。自由にできるのなら、自分自身の目の移り変わりを楽しめばよいと思います。多くのものに助けられながら生きてきたと思えるようになると感謝の気持ちが生まれ、自分ができないことや人ができないことにも寛容になります。
たとえば、テーマが「幸せ」なら、結果的にどこかで幸せにならなければいけないと思いがちですが、これは完全に思い込みです。「幸せというものは最初からなかった」とか「ほどほどで当たり前のようにあった」という結果でもよいのです。幸せ発見の旅に出るまでは自分の心の迷いをテーマに文章を書き留めておいて、最終的にわかったのが「幸せはなかった」あるいは「幸せは、実はいつでもどこでもあるものだった」でもよいのです。
——自由に書く姿勢を強調する大竹さんが、文章を書くことを仕事にしようと思った瞬間はいつ訪れたのですか?
大竹 子どものころから、書くことは苦ではありませんでした。小学校のころから作文コンクールに応募していました。そして何より本を読むことが好きでした。誰に自分の文章を読んでもらうのかにもよるでしょうが、多くの人たちに何かを伝えるという立場を目指すなら、ネタとして本を読んでおくべきだと思います。僕の今日の話も、ほとんどがどこかの哲学者が言っていることなんです。それを僕なりに吸収して、僕の考えとしてお伝えしています。僕が新しく生み出したものではなくて、誰かが言っていることを僕なりに感じてお伝えしているということです。やはり本は読まないと難しいですね。
——小さいころから本をたくさん読まれたとのことですが、今までで一番印象に残った本や、今一番文章がうまいと思われる作家は誰ですか?
大竹 僕がこれまでで一番感動したのはフロイトです。本当にわかりやすい明解なドイツ語の文章です。ただ、日本語では無理です。感覚的なものもあるし、主語が省かれるので、わかりやすさよりもフィーリングの部分が重視されます。たとえば川端康成の『雪国』の始まりの部分でトンネルに入ったのは私なのか電車なのか、日本人にはわかります。だとすると、川端康成の文章はうまいなと思いますね。
最近、使い分けがうまいなと思うのは芥川賞の玄侑宗久和尚ですね。人に何かを教える文章、そして彼が創造的と形容する小説があります。この二つを使い分けられるのはすごいと思います。どちらか一方だけではなく、消費の文章も創造の文章も書けます。
「書く」ことのモチベーション――そんなに構えなくて大丈夫
——子どもも大人も含め「書くこと」が苦手な人たちへのアドバイスをお願いいたします。
大竹 この質問は、読書感想文講座をやっている時によく受けました。子どもたちは、先生に点数をつけられ、お父さんやお母さんに評価されるから苦手なのです。「まずは書いてみて」と言いたいですね。
——人から評価されるのがいやだということですね。そのほかにも「書かない」言い訳にはいろいろあると思います。「書く」気持ちの作り方について教えてください。
大竹 その言い訳というものにも、きちんとした理由があります。「自分は下手だ。できない」と思うことは誰でもあるでしょう。それをごまかさないということです。苦手という意識のまま、まずは自分がふと思い浮かべたこと、たとえば自分の心の動きとか、あるいは目の前にある草の色を、大げさにしないところから書き始めるのがよいと思います。
——おっしゃる通りに気楽な気持ちで始めるとして、実際の文章の構成あるいは流れを決める方法について具体的に教えてください。
大竹 吉田兼好とかモンテーニュは「私はとりとめのないことを書きますよ」と言い切っています。学校に提出するものを書くのなら、僕はそれなりに型というものをお伝えします。しかし、書くという行為自体が目的なら、最初に「とりとめのないことを書きます」と言っておいて、馬鹿げたことを書くかもしれないという前提で始めるほうが、自分の気持ちに素直になれると思います。自分の姿勢を秘めるのではなく、公にしてしまうということです。ライフログは自分ごとです。そういう気持ちでいたほうがいいと思います。
——比較的気楽に書けるはずのライフログや日記も続かないという人がいます。始めた日と同じテンションを保ち続けるにはどうしたらよいでしょうか?
大竹 同じテンションを保ち続けるのは無理です。僕が家庭教師で見ている子どもたちのお母さんたちはよく「学校に出す日記がぜんぜん書けません」とおっしゃいます。書くべきことを全部書いて提出しなさいということなのですが、そんなことは僕だって無理です。
そういうことをさせられると、ないことまで書かなければならなくなります。どうでもいいことを繰り返すような、変化がない文章を書き続けるしかありません。大きなイベントであるとか、日常に起きた衝撃的、あるいは楽しいとか悲しいとかがはっきりわかるようなことを書かなければいけないと思ってしまう人が多いようですが、そういうことは「ない」というところから始めたほうがいいのかもしれません。でも、「ないです」はさすがに面白くないので、たとえばこんな文章はどうでしょう。
「今日はそんなに大したことはなかったけれども、朝ごはんのお味噌汁に入っていた豆腐がおいしかった。自分の舌触りが変わったのか寝起きが良かったのか、なぜかはわからないけれども、とにかくお味噌汁の豆腐がおいしかった」
実際に「書く」ことを始めてみる
——とにかく書き始めるとして、その後に続く実践的な質問をさせてください。2000字くらいの長文を書くための具体的な方法論を教えていただきたいと思います。
大竹 そのくらいの長さの文章を書こうと思ったら、自分の日常だけでは絶対に長文にはならないでしょう。だとしたら、自分が対話した人や本についてエピソード的に書いていくと文字数が増えます。
原稿用紙3枚以上書けと言われた時にどうすればいいのと尋ねられたら、まず体験を書くことをお勧めします。大げさなエピソードではなく、日常的にあるような小さいところからテーマを拾っていくということが大事だと思います。書こうと思ったら体験するということです。体験なしに書こうとすると、大変なことになります。
エピソード的な体験がお勧めです。家族旅行でもいいし、ひとり旅でもいいし、居酒屋で1時間女将さんと話をするのもいいでしょう。それがあると、長文を書こうという意識がなくても、たぶん2000字では止まらなくなります。
——長文は、ビジネス文書にも通じると思います。今はちょうど新年度ですが、新入社員の人たちが初めての企画書を書かなければならない時など、ビジネスにおける文章の書き方の指針はあるでしょうか?
大竹 書き方よりも問題を見つけることのほうが大事だと思います。「ひとつの問題を渡すのでその答えを書きなさい」という方向性でものを考える人が多いのではないでしょうか。企画書にしても「社内で共有すべき問題があるから、それに対する解決法を見つけなさい」というものになるでしょう。こうした企画書はものすごくつまらないと思います。
「それを問題と思う姿勢が問題なのでは?」という流れで、本当の問題が見えないものであることを踏まえて書くほうが興味深いと思います。書き手は日々ものを考えているか。それはおそらく、最初の問題提起でわかります。常々誰かが言っていることなら、その程度です。企画書で認めさせようと思うのなら、“問題勝負”になると思います。
文章に関しても、もちろん型というものを覚える必要はあるでしょう。目指すところがあるのなら、きちんと型を覚えるということです。そのためには良い文章を読まなければならないし、人を説得できるような文章を書かなければなりません。わかりやすい文章とは、型通りの文章です。ただ、僕としてはそうではないところが楽しみになるし、結局自由というのは型を身につけた後から始まると思います。自分というものを表現するのであれば、大げさにせずリラックスして書くのがよいと思います。
——どのような形式の文章であれ、書くという気持ちを強めながら構える癖が付いてしまう前、型を覚える前にいろいろなところに視点を広げ、ネタを探し、書きたくなったら初めて型を覚えていくということでしょうか。
大竹 そうですね。子どもたちは本当にかわいそうですよ。ネタも全然ないし、書きたくもないのに日記を書けとか、作文を書けとか……。先生たちは、そう言いながら積極性とか主体性とかを口にします。
子どもたちが「書きたい」という気持ちになるためには、まず周りの大人たちが楽しく書いていなければいけないはずです。「書くことって面白いよね」と言いながら、自分が書いた文章を「こんなに下手なんだけど見る?」といった感じで読ませれば、じゃあ私もやってみようということになるでしょう。それをせずに、大人たちが閉ざしたままの状態で子どもたちに向かって書けといっても、興味がないですから書かないでしょう。しっかりと正しく、みんなが満点を取ろうとするような空気が日本中を覆っています。何かがわからない、というところから始めるのも面白いかもしれません。
——書くことが苦手な人たちがいる一方で、一時のブログの流行もあり、毎日文章を書くという人が増えたと思います。全体的傾向としては、文章を書くのが好きだとか、文章を書くのがうまいという人の数は、実際増えているのでしょうか?
大竹 そう思います。ただ仕事として文章を書く場合には、どうしても訓練が必要だと思います。とある編集者から言われたことがあります。「大竹さんの文章は誰にでも書ける文章なので、売れる時は多分、文章のスタイルができた時ですよ」というような内容でした。小憎らしいこと言うなと思ったのですが(笑)、確かにそうかもしれないと思いました。
今書いている本の編集さんに「こういう書き方の大竹さんの文章は、本当にわかりやすいですね」と言われて、ようやく僕のスタイルができたなと思いました。
——プロの書き手ではなくても、自分の文章を誰かに見てもらうということは大切なのですね。
大竹 ありがたいことに、僕は自分が書いた文章を人から評価していただける立場にあります。僕のような立場ではなくても、たとえば読み聞かせなどを行っていけば文章はうまくなっていくのではないでしょうか。型通りにやるより、数人でライフログ会のようなものを作って読み合うだけでもいいと思います。
ただ、決して悪いことを言ってはいけません。「ここがわかりやすかった」といった情報を共有しておけば、それだけが残って、悪い部分は自然に消えていきます。これもコミュニケーションですね。悪いところは勝手に直っていきます。よい要素だけで埋め尽くしていけば、最終的に面白くて、よいものが出来上がります。
とにかく書き始めること。さまざまある問題は、書いているうちに自然に解決するのだろう。書くことを通して、対応力や問題解決能力も高まっていく。あれこれ理由を付けて書かないままでいることは簡単だ。でも、何も考えずにとにかく書き始めることも、実はそれほど難しくはないのかもしれない。
撮影/鈴木謙介