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2024/3/3 5:45

“演歌第7世代” 新浜レオンが語る、歌手デビューまでの道のりと高校球児時代からつながる夢「挑戦していく存在であり続けたい」

3月15日(金)に行われる「我ら演歌第7世代!春一番スペシャルコンサート」に出演する新浜レオンさんにインタビュー。歌謡界に旋風を巻き起こし、飛ぶ鳥を落とす勢いの新浜さんに、歌手になるまでの経緯、そして今その胸に抱く夢までたっぷりと語ってもらいました。

◆新浜さんが歌手を目指した経緯を教えてください。

小学校2年生から高校3年生までは本気で野球をやっていました。小学校のときに卒業文集に「プロ野球選手になる」と書いていて。高校時代もとにかく甲子園を目指すという学生時代を過ごしていました。ただ父親が演歌歌手なので、車に乗ればいつも演歌が流れていて、テレビもいつも歌謡番組を見ていたんです。そういう意味では演歌・歌謡曲が昔から大好きでしたし、とにかく身近にあるものでした。

 

そういう曲を聴きながら、野球をやっていて。それでいつしか甲子園に出ることもそうなんですけど、プロ野球選手になって、打席に入るときの登場曲で父親の曲を流すという夢を自分の中で持って野球に打ち込んでいたんです。

 

ただ、結果的に甲子園に出場することができず、最高成績は高校の県大会ベスト4で。そこからあらためて父ってどんな仕事をしているのかなと思って。姉と弟がいるんですが、歌だけで育ててくれる父って、歌手っていう仕事、最高じゃんって思ったんです。

 

◆お父様の2代目「伯方の塩」CMソングでおなじみの演歌歌手・髙城靖雄さんへの憧れが原点なんですね。

それで、野球を引退して丸刈り頭のまんま、父のかばん持ちを始めたんです。でも、父の姿をより近くで見ていると、もう息子として見たくない姿っていうのがあるんです。

 

というのは、僕の中で、世界一歌がうまい人は父親だと思っていたんです。それがいざ初めてレコーディングの現場に連れて行ってもらった時に、父が「そういう歌い方じゃなくて、こうやって歌いなさい」って担当ディレクターの方に言われている姿を見て。

 

自分もデビューした今になってみれば当たり前なんですけど、当時は想像できなかった姿なんです。父が人からこうやってって言われてるって、息子として初めての感覚で。1曲ができるまでの姿、そこにはいろんなスタッフの方の支えがあって。発売するまでの苦労を知った時は、あぁ…近くで父の姿見なきゃよかったとか、歌手になりたいなんて簡単に言うもんじゃないなと思って。

 

でも手伝えば手伝うほど、いや待てよと。こういうつらい姿を僕ら家族に見せたことなかったんだなって。父はいいところだけを見せてくれていたということに気づいて。そんな父を、歌い手としてはもちろんなんですけど、あらためて人としてものすごく尊敬したんです。そのいろんな苦労を見て、それを超えてやっぱり父のようになりたいと。父は演歌・歌謡曲を歌っていて、たくさんの皆さんに感動を与えている。

 

そんな父のように演歌・歌謡曲の歌手になりたいって家族の前で宣言したんです。それが大学への進学を含め、これからどうしようかというときで。そのとき、父は何も言わなかったですが、やってみたらいいんじゃないかみたいな雰囲気で。

 

それに対して母親は大反対して。僕もこういう家庭を見て、中途半端に軽はずみに言っている「歌手になりたい」じゃないですよ。本気で決意して歌手になりたいと言ったんですけど、反対されて。

 

◆新浜さん的にはまさかの反対という感じですか?

それまで野球をやっているときは、誰よりも朝一番早く起きて、山盛りのお弁当を2個も作ってくれて。夜遅くに泥だらけで帰ってきても、寝る時間を惜しんでユニホームを洗ってくれて。そんな一番支えてくれた、とことんそばで応援してくれた母が反対したもので衝撃だったんです。僕は、歌手になるなら誰か師匠につかないとねとか、じゃあ歌の専門学校に行かないとね、なんてそんな話になると想像していたんです。それがもうダメ!ってなったので話がかみ合わないんですよ。

 

でも母親はそんなのやめて、公務員になりなさいって言うんですよ。普通に一般的な穏やかな生活をしてほしいからって。それで野球を生かすには、消防士とか警察官になったらって話になってきて。

 

いや、もちろんそれもいいんですけど、歌手になりたいというのは、曲げられないものがあった。それでも歌手になりたいってずっと言い続けたら「じゃあ分かったから、お願いだから大学には行って」という話になって。当時僕も野球しかやってないので今から勉強するのも…っていうところで、学校の先生にいろいろそれの事情を話して。野球の顧問の先生は、僕が大学も社会人も野球をやると思っていて、ありがたいことに野球の推薦をいただいていたんです。

 

高校の先生も、どこどこから推薦をいただいているから、ここで野球をやるのはどうだみたいな話をしてくれて、それも心苦しくて。それで先生にも事情を話して、指定校推薦ということでお話をいただいたのが大東文化大学だったんです。学部が国際関係学部国際関係学科、英語専攻、ここがレオン君にもぴったりだということで受験をして、大学に進学する運びになったんです。

 

◆歌手に反対のお母様の希望もあって、大学に進学したんですね。

そこからかばん持ちだけではなくて、父のバックコーラスとか前歌を大学の4年間やらせてもらって。そのご縁から父が出るテレビ番組で、家族トークをする企画があったんです。僕と姉が出て、その時に父を追って歌手になりたくて、今バックコーラスもやっててという話をしたんです。そしたらその番組のプロデューサーさんから、僕をその番組でアシスタントのMCでレギュラーで使いたいというお話をいただいたんです。

 

そこでアシスタントのMCをやらせていただいて。その番組では毎週いろんな歌手の方が出られるので、初めて父以外の歌手の方から直接お話を聞くことができて。その中で、あらためて演歌・歌謡曲の素晴らしさを知って、ますますこの世界でデビューしたいという気持ちが高まっていって。

 

それで大学4年でみんなが就活をしている時に、僕はデモテープを持ってレコード会社をどんどん当たって、今所属する当時Being(ビーイング)、今はB ZONE(ビーゾーン)という会社をご紹介いただいて。ただ、待てよ、演歌・歌謡曲の歌手の人、誰としていないよな?って思ったんです(笑)。

 

それで、演歌・歌謡曲しか勉強してないんですよっていうお話をしたら、それでもいいから1回歌を聴いてみたいということでデモテープを送ったら、いろいろと重なって、初の演歌・歌謡曲歌手という形でデビューをする流れになったんです。

 

◆大学を卒業してくらいのタイミングですか?

卒業して2か月です。みんなと同じ就職のタイミングでデビューできたんです。令和元年5月1日。令和になるタイミングで、新浜レオンとしてデビューをすることができました。

 

◆めちゃくちゃエリートコースということになりますよね。

本当に奇跡としか言いようがないというか。とはいえ、演歌第7世代の例えば辰巳ゆうとさんを見ると、大学在学中にデビューしているんです。二見颯一さんもそうなんですけど。

 

僕も高校を卒業してからずっと、チャンスを狙って勉強していたんですが、ここに行き着くまでは、いい話というのはひとつもなかったんです。演歌・歌謡曲の強いレコード会社さんにも当たったんですが、いい話というのが最後の最後までなくて。ビーイングが本当に一番最後だったんです。

 

母の「分かってるよね?」という圧がすごいわけですよ(笑)。これで大学を卒業して、アルバイトしながらとか、まだ道が決まらないやり方はなしっていうのは最初から母との約束として大学に行かせてもらったので。

 

大学4年の6月、周りのみんなはもう就職先が決まっていく中でご縁をいただいて始まって、という部分では決してトントンと決まったわけではなくて。

 

それで、デビューをするときに、ちょっと日焼けしてるねって話になったんですよ。氷川きよしさんからそれ以降に出てくる若手の歌手の方って、わりと髪が長かったりとか、色も染めてたり、ピアスをしたりとか、演歌歌手っぽくない姿でデビューされている歌手の方が多かったんです。

 

それならば、僕はせっかく野球をやってたので、王道の山本譲二さんのような本当の昭和のような人でデビューしたほうが自分は面白いんじゃないかなって思って。もう“筋肉は男のロマン”というくらい(笑)筋トレして、髪も上げてピシッと角刈りのような雰囲気でビーイングの方に会って。

 

そうしたら日焼けしてるし、体形もちょっとガッチリしすぎだから痩せたほうがいいんじゃない、髪も短いんじゃないって言われて、ふたを開けたら真逆じゃないか!って(笑)。でも僕ももうラストチャンスで、ここを逃したら本当に一般の企業に就職するっていうような勢いだったので、じゃあ全部逆でやりますと決意して。1週間後にテスト撮影をしましょうという話になったので、その1週間で10キロ痩せたんです。もう何にも食べず、髪の毛も伸ばして、肌をとにかく焼けないように日焼け止めを塗ってみたいな生活をして。

 

そして10キロ痩せてテスト撮影をしたんですが、後に話を聞いたら、歌とかというよりもその姿からやる気と熱意みたいなものを感じてくださって、いろいろ物事が進んでいったそうで。最終的にはデビューするまでにトータルで25キロ痩せてデビューしたんです。

 

◆ということは、当時は相当ガッチリしていたんですね。

そうですね。キャッチャーをやっていたので、デカい男こそかっこいいと思っていたんですよ(笑)。今でもそこは変わっていなくて、デカい人がかっこいいと思うんですけど、ただ演歌・歌謡曲を歌う、そして応援してくださるファンの皆さんを作るには、やっぱりそうはいかなくて。求められるものと自分がやりたいことをいろいろ自分も冷静に見て、今の姿に至りました。

 

やっぱり若い人に演歌・歌謡曲の素晴らしさを知っていただきたいという思いがあって。ビーゾーンから演歌・歌謡曲で初めての歌手としてデビューしたところも含めて、そういう幅も広げていける存在になりたいなと思ってます。

 

◆今、時代が一周してシティーポップが流行したりという流れの中で、きっと生まれた時から演歌に触れてない世代たちも増えているから、演歌・歌謡曲の伝道師としてぴったりだと思います。

やっぱりそこをどこまでも目指したくて。僕は父の影響で演歌・歌謡曲が好きだったんですけど、学生時代に同級生の友達が聴いているかというと、一人もいなかったんですよね。

 

なので、どこかそれをコンプレックスじゃないですけど、何か悔しいなって思っていて。こんないい歌がいっぱいあるのになんで聞かないんだろうと、ずっと心のどこかで思って生活してきたので。大学時代にミスターコンテストがあって、そこだったら自己PRで歌を歌うことができると思って挑戦して。

 

審査員はみんな学生ですから、ここで歌謡曲を歌ってみようという挑戦をして、森田公一とトップギャランさんの「青春時代」を歌ったんです。父もそうなんですけど、演歌・歌謡曲のコンサートって会場を練り歩きながら握手をして歌うシーンというのがものすごく印象的で、これを学生のみんなにやったらどんな反応になるかなと思ってやったんですよ。

 

そしたらすごく盛り上がって、それでグランプリをいただいたんです。あ、これで聴いてもらえたら、この曲いいって思ってもらえるなという自信にもなって。友達とカラオケに行ったら、敏いとうとハッピー&ブルーさんの「星降る街角」をなぜか友達から歌っちゃうみたいな現象が起きたんですよ。

 

だから、これは機会とそういうきっかけがあったら絶対いいって言ってもらえるっていう確信につながっていって。どんどんその気持ちが強くなって、ビーイングからデビューできて。今も指導してくれるディレクターさんとか、演出の方も倉木麻衣さんをやられている方とかで。

 

逆に演歌・歌謡曲は初めてみたいな人たちから歌も教えてもらったりしているので、その融合がめちゃくちゃ僕の中では夢があって、未来を感じているんです。なので新浜レオンにしかできないものを作っていきたいという思いはとても強いです。

 

◆3月開催の「我ら演歌第7世代!春一番スペシャルコンサート」では、同世代の歌手の方々が“演歌第7世代”として集結しますがいかがですか?

それぞれのファンの皆さんはもちろんですけど、演歌第7世代のファンの方が生まれていて。そういう方々が大学生とか若い人にも非常に多くて。演歌第7世代の5人もそれぞれ演歌・歌謡曲が小さいころから大好きで、みんなどこか悔しいなって思っているんですよ。

 

その5人が集まるコンサートなので、伝えたいこともみんな一緒だし、盛り上がりますね。

 

◆若手演歌歌手の“アベンジャーズ”のような5人ですが、やっぱり同世代の方たちとの共演は刺激になりますか?

なりますね。やっぱりそれぞれ本当にみんな個性があって。民謡出身の方もいれば、三味線と尺八をやります、ギターを弾きながら歌います、3歳から歌ってますみたいな方々なので。僕は高校までは野球しかない人生だったので、そういった意味ではみんなからもらう“演歌愛”というのはすごく刺激になりますし、僕も負けられないなと。

 

お互いにそれぞれ歌う時はどこかライバル意識を持ちながら、でもみんなで先輩の名曲をカバーしようみたいなコーナーもあって。一緒に力を合わせて名曲をつないでいこうという思いが重なったりとか、いろんな表情が見えるのも演歌第7世代の面白さなのかなと思います。普通の20代のプライベートな話をしたかと思えば、21歳で一番若い彩青さんが「寅さん」が大好きだったりとか。

 

彩青さんは師匠が細川たかしさんで、一番考え方が古風なんですよ(笑)。今の若い人たちって何がはやってるんでしょうかね?とかって話をし始めちゃうみたい場面があったりとか、そのへんのちぐはぐさもいい具合にステージで面白くなっています。

 

◆演歌第7世代のコンサートは何回目になるんですか?

これで3年目で、東京はもちろん、大阪、北海道、愛知、神戸と全国を飛び回っています。彩青さんは北海道出身、辰巳さんは大阪出身、僕と青山さんは千葉出身で、二見さんは九州とか、それぞれの土地土地で出身の人がリーダーになって、みたいなやり方で盛り上がっていますね。

 

◆新浜さんはトークも立つから、MCとして回したりするんじゃないですか?

僕はもう明るさと走るだけ走ることに徹して、それを彩青さんがまとめちゃうみたいな(笑)。二見さん、辰巳さん、青山さんとそれぞれ魅力を引き出し合っていて面白いのかなと思います。

 

昨年はバラエティ番組にも挑戦させていただいた1年で、やっぱり演歌・歌謡曲の番組はもちろんなんですけど、まずは新浜レオンという名前を知っていただくことで、演歌・歌謡曲につながっていけばいいと思っていて。昨年は日曜劇場『下剋上球児』で演技にも挑戦させていただきましたが、どこまでも歌を基盤にしながらも、挑戦していく存在であり続けたいなっていう思いはものすごく強いです。

 

◆新浜さんから見た演歌第7世代コンサートの魅力、見どころはどんなところになりますか?

やっぱり演歌・歌謡曲って聞くと、どうしてもかしこまっちゃうと思うんです。でもこのコンサートを見ると、そういう気持ちが全部がなくなっちゃうくらいトークはいい意味ではちゃめちゃです(笑)。ただ、歌を歌うときだけは、それぞれも目の色を変えてビシッと歌うんです。

 

そういうギャップも楽しんでいただけるというのが一番の魅力だと僕は思います。

 

◆幅広い世代の方が楽しめますよね。演歌・歌謡曲に触れてきた世代だったら懐かしくて、それを知らない若い世代は新しい発見があって。親子で見に行ってもそれぞれの楽しみ方がありそうです。

本当にそのとおりで、親子のファンがとても多くなっていて。その親子の子供さんの子供さん、お孫さんまで3世代で応援に駆けつけてくださるようなことがすごく増えました。

 

◆ここで歌手・新浜レオンさんから少し離れてプライベートの話を伺いたいんですが、オフの時間はどんなふうに過ごされているんですか?

オフがここ4年ないんです(笑)。っていうのはあるんですけど、もともと食べること、飲むことが大好きになんです。もし仮に明日休みって言われたら、その前の日が勝負なので、もう食べまくり飲みまくり(笑)。次の日に撮影があったりすると、次の日むくんじゃうのでどうしてもセーブしちゃうんですよね。

 

地元の千葉県は54市町村どこへ行ってもおいしいものがたくさんあって、僕も番組でロケに行くまで知らなかったんですけど、酒蔵がいっぱいあるんです。ありがたいことにそういうロケが多くて、「搾りたての日本酒です」なんて言われて飲むと、おいしくておいしくて。

 

◆結構飲まれるんですね。

飲んじゃうんですよ(笑)。やっぱり千葉のおいしいお酒は特別なので。それが一番のオフの楽しみ方ですかね。

 

◆この体形を維持するのは結構大変じゃないですか?

会社にトレーナーさんをつけていただいていて、ジムに行ったりしています。最初は食べず飲まずの本当に一番やってはいけない痩せ方をしたので、その反動というか、体力が急に落ちてというのがあったんですけど、今は食べても太らないような習慣をつけたので全然苦でもないですね。

 

でも、演歌第7世代もそうですけど、みんな細くて華奢なんですよ。バラエティ番組に出させていただくときも、いらっしゃる皆さんと横並びになったりすると、僕の大きさが際立っちゃって(笑)。

 

◆忙しい日々の中で、何かリフレッシュ方法はありますか?ストレスはたまらないですか?

テレビやイベントで歌ったら、あそこはああ歌ったらよかったかなとか、日々そんな積み重ねで、反省ばっかりで。正直、落ち込むこともあるんですけど、どこで発散しているのかなって思った時に、やっぱり歌ってることなんですよね。

 

いくら悲しんでも悔しがっても、次の日また人前で歌うってなったら、それを感じさせてはいけないですから。何事もなかったかのように、ましてやその悔しかったこと、悲しかったこと、それを歌に乗せることができるんですよ。

 

それがやっぱりいい意味でリフレッシュになっているのかなと、今気づきました。

 

◆演歌はそういう思いと密接しているところもありますよね。

そうなんですよね。悔しさの意味は違っても、どこか共通する部分があるので。それが一番歌ってて幸せだなっていうことですね。

 

◆お話をうかがっていて、なるべくして歌手になった方だなっていう感じを受けました。消防士になっていたとしても、あの消防士、めちゃくちゃトークうまいなって言われていたと思いますけど(笑)。

母からは本気で警察官か消防士って言われていて。僕の担任の先生が厳しい人で、歌手になりたいって言ったら、やめたほうがいいんじゃないって最後まで言われて。じゃあ何になったらいいですかねって聞いたら、レオン君は優しいから介護の仕事が向いてるよって言われて。でも全然違うところに行って、最終的に歌手になって。

 

僕もせっかく歌手になるのであれば、環境としては父親が演歌歌手なわけですから、野球をやる前にもっと小さい頃から歌を学んでいればよかったって、デビューする直前に思ったんです。

 

でも、いざデビューしたら、もう体力勝負で。そして諸先輩方を見て、人としての礼儀、これが何より大切な世界なんだなって感じて。これはやっぱり野球で全部学べたんですよ。本当に振り返れば振り返るほどきつかったですし、先輩も怖い、監督も怖いという部分では、礼儀も全部野球から学べた。なので、今は本当に野球をやっていてよかったなって心から思います。

 

◆自分で意識していなかったことも、全てここにちゃんとつながっていたんですね。

そのつながりでいうと、去年は甲子園での始球式、ファーストピッチをすることができた。そして日曜劇場『下剋上球児』、野球の作品で俳優デビューすることができた。野球の番組で少年野球チームに行って、野球を教えるような機会をいただいたりとか、少しずつ野球ともつながっていっているという現実がものすごくうれしいんです。

 

◆最後に、新浜さんの歌手としての夢、目標を教えてください。

野球での目標は甲子園でした。でも高校時代は甲子園に行くことができなくて非常に悔しい思いを今でも持っていて。目標があって、そこを一途に追いかけるというやり方で過ごしてきたので、歌手になった今も、ある意味、甲子園を1つ自分で作っているんです。その甲子園がNHKの『紅白歌合戦』。そこを何としても達成するんだと。学生時代は達成できなかった甲子園の夢を今、絶対にかなえるんだという目標をもって日々活動しています。

 

そして、高校時代に負けた試合が千葉マリンスタジアムで。そこで悔しい思いをしたので、千葉マリンでリベンジの気持ちを込めて単独のコンサートをやるというのも目標なんです。関東は千葉マリン、関西は甲子園。ここで単独をやる。それが僕の目標であり、夢でもあります。

 

必ずや実現したいなと思うんですけど、千葉マリンもそうですし、甲子園でファーストピッチやった時に、関係者の方に単独のコンサートをやるのってどんな感じなんですかって聞いたら、なんと甲子園で1年間で立てるアーティストは1組だけだそうで。

 

そんな世界なんだと知って、ますますそれが夢になって。絶対やるという夢をもって活動しています。

 

PROFILE

新浜レオン

1996年5月11日生まれ。千葉県白井市出身。

令和元年スタートとなる5月1日、自身のために立ち上げられた演歌・歌謡の新レーベル「海峡レコード」からシングル「離さない 離さない」でデビューし「第61回 日本レコード大賞 新人賞」を受賞。俳優として日曜劇場『下剋上球児』に出演するなど、幅広く活躍している。

 

コンサート情報

「我ら演歌第7世代!春一番スペシャルコンサート」

出演:青山新、辰巳ゆうと、新浜レオン、二見颯一、彩青

 

日時:2024年3月15日(金)13:00開場/14:00開演

会場:日本橋三井ホール(東京都中央区日本橋室町2-2-1COREDO室町1 5F(エントランス4F)

 

公式サイト:https://s.mxtv.jp/event/enka_dai7sedai-2024/