読書を好むせいなのか、わたしは本のことになると意地汚くなるときがある。本が捨てられているのを見つけると、無性に気になるのだ。何という題名か、何について書いたものなのか、どうしても知りたいと思ってしまう。
捨てられた「本」に近づきがたい理由
ヒモで束ねた大量の本が捨ててある。どうしても内容を知りたい。ヒモをほどいて、それぞれの本を手に取って表紙を確かめればいいのだが、捨てられているのは町ごとに定められた「ゴミ収集所」や「資源回収ステーション」であったりするので、臆病なわたしは思い留まってしまう。条例で「ゴミの持ち去り」を禁じている自治体が多いからだ。
手をふれずに確かめるには、遠目から眺めるしかない。だが、捨てられている本はヒモでまとめられているから、せいぜい一番上の本の表紙しか確認できない。しかも、そんなときにかぎって「背文字(本棚に差したときに見えるタイトル部分)」が正反対を向いている。
わたしは「知りたい」だけであって「欲しい」とまでは思わない。たとえ興味のある本だったとしても、その場から持ち去るつもりは毛頭ない。「李下に冠をたださず」という故事があるように、疑わしい行動は身の破滅をまねきかねないからだ。地区ごとにあるゴミ収集所では近隣に住むチクリ屋が舌なめずりをしており、本格的な資源回収ステーションには専従の管理者が目を光らせている。
痴的な知的好奇心の告白
善良な市民であるわたしの人生において「捨てられた本への知的好奇心」が100パーセント満たされることは滅多にない。順法意識が先に立つので、いつも歯がゆい思いをしてきた。
このまま死んでいくのかと思うと口惜しくさえある。わが命が尽き果てるまえに、せめて気持ちの整理をしておきたい。なぜ「捨てられた本」に対して欲情にも似た激しい好奇心がわきおこるのか?
結論を述べるならば「その本を捨てた人の知的生活をのぞきたい」ということだ。「のぞき」は、男女の野合に対するものを「出歯亀」とも言うので、捨てられている本の内容を知りたいという性癖は「知的な出歯亀」と言えるかもしれない。
捨てられているのが赤本(過去問題集)や教科書の束ならば、その人の志望校や出身校や専攻がうかがい知れる。資格試験の参考書などもそうだ。持ち主は、はたして合格できたのだろうか。
珍妙な健康法や民間療法をあつかった本の束を眺めていると思わずニヤついてしまう。ネットワークビジネス関連の自己啓発書も同様だ。恥ずかしくて古本屋に持ち込めず、捨てるしかなかったのかもしれない。
持ち去りを前提としたゴミ収集所のお作法
『お母さんは「赤毛のアン」が大好き』(吉野朔実・著/本の雑誌社・刊)所収の「本を拾ったことがありますか?」によれば、著者の吉野朔実さんが本を捨てるときには「拾いやすい状態」を心がけているという。
なぜなら、せっかくヒモで束にまとめて捨てたとしても、本を持ち去る輩というのは「まとめた束ごと」ではなく、好きな本だけを選ぶために「束をバラして」いくからだ。ゴミ収集所が散らかってしまい、あたかも吉野さんのヒモの縛り方が悪くてそうなったかのように見られてしまう。周辺住民から濡れ衣を着せられかねない。
いちど捨てた(手放した)本を他人が持ち去ることについては、吉野さんは許容しているようだ。おなじ読書好きとして気持ちがわかるという。バラバラ事件があってからというもの、本を捨てるときには、背文字を上にした本を紙袋に入れて「キレイに拾ってください」という状態にしているようだ。
本にかぎらず、粗大ゴミを出すときに同じような気づかいをする人が少なくない。わたしの場合、引越しで手放さざるを得ないものの、故障したわけではない家具や家電は「誰かに譲るつもり」で捨てるよう心がけている。ゴミ収集日があらかじめ雨模様になるとわかっていれば、電化製品が濡れないように大きな半透明ビニール袋に包んで捨てる。
あるとき、捨ててから10分も経たずに石油ファンヒーターが持ち去られたことがあった。早朝5時であったにもかかわらず、だ。粗大ごみ回収日は決まっているから、獲物を待ち構えていたリサイクル業者が持ち去ったのかもしれない。本であれ家電であれ、めぐりめぐって誰かの役に立つのならば悪い気はしない。
(文:忌川タツヤ)
【文献紹介】
お母さんは「赤毛のアン」が大好き
著者:吉野朔実
出版社:本の雑誌社
本は心のごちそう。さまざまな分野の本を、マンガ形態でさまざまな楽しいエピソードを盛りこみながら親しみやすく紹介。本を生活の中の一場面において、ストレートな感性で綴る。『本の雑誌』『ユリイカ』連載の単行本化。