団体名というのは、最初に付けたときから変わらない場合と、さまざまな状況により変更していく場合がある。
プロ野球チームの場合、オーナー企業が変わると球団名も変更される。バンドもメンバーの脱退や、再デビューの際にバンド名を変えるということもよくあることだ。イギリスのバンド、カジャグーグーからボーカルのリマールが抜けて「カジャ」に改名したときは、「リマールはグーグーだったのか」と思ったものだ。
「壬生浪士組」結成
「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)、「甲陽鎮撫隊」(こうようちんぶたい)。実はこの2つの団体名は、日本の歴史上において有名な団体の変更前、そして変更後の名前だ。わかるだろうか。
正解は「新選組」だ。
歴史に詳しい人ならばすぐにわかることかもしれない。しかし、歴史にとても弱い僕は、今回マンガで読める日本の伝記『新選組』(大石 学・監修、ひのみち・絵、こざきゆう・脚本/学研プラス・刊)を読んで、新撰組が3回名前が変わっていることを初めて知った。
1862年(文久2年)、当時の政治の中心地であった京都は、周囲の藩から尊王攘夷、倒幕運動の志士が集結。その結果、京都所司代と京都町奉行では防ぎきれないと判断。清河八郎が、徳川家茂将軍の上洛の際に、将軍警護の名目で江戸において浪士を募集した。
1863年(文久3年)2月8日に「浪士組」として200人あまりの浪士が江戸を出発。2月23日の京の壬生村に入ったところ、清河八郎は浪士組を天皇配下の兵にしようと画策。それに反発した近藤勇、土方歳三、沖田総司などが京都に残ることを決意。このとき、会津藩主の松平容保の下、京の警護を任される。このとき付けられた名前が「壬生浪士組」だ。
「新選組」? 「新撰組」?
同年8月18日、会津・薩摩両藩の「公武合体派」が、「尊王攘夷派」の長州藩と公家の一部を京から追放。俗に言う「八月十八日の政変」の歳に、松平容保より「新撰組」の名前をいただく。
ちなみに「新撰組」と書く場合と「新選組」と書く場合があるが、どちらも実際に使われていたようだ。
新選組の隊名には「選」と「撰」の字の両方が使われていた。局長の近藤自身が両方を使っており、会津側に提出した書面には「新選組惣代 近藤勇」と書いていた。なお、会津藩側が組に送った書状には「撰」が多用されていたといわれる。
(『新選組』より引用)
以前から、どちらが正解なんだろうと思っていたが、結局どちらでも正解だったようだ。
戊辰戦争で「甲陽鎮撫隊」に
1867年(慶応3年)10月、徳川慶喜将軍が大政奉還を行う。新選組は戊辰戦争で新政府軍に敗北。戦力が低下した結果、新政府軍の甲府進軍を阻止する任務に就く。そのとき「甲陽鎮撫隊」となる。
ほどなくして、近藤勇は新政府軍にとらわれ処刑、沖田総司は結核で死亡、土方歳三は蝦夷地へ向かい新政府軍と対立。最後は弁天台場での戦いで戦死。ほどなく降伏。これが箱館戦争だ。
命をかけて己を貫くのはすごいことだ
幕府のためにつくすという一心で、急変する時代の波に翻弄されながらも、それぞれの武士道をただただつらぬき通した新選組。
(『新選組』より引用)
新選組の歴史を追ってみると、愚直なまでに自分たちの信念を貫いたんだということがわかった。時代の移り変わりにより、周囲が寝返ったり思想を変えたりするなか、新選組のメンバーは常に幕府に尽くしてきた。その忠誠心は「誠」という旗に記された文字にも見て取れる。
命をかけて己を貫く。そんな生き方には憧れるが、心身ともに軟弱な僕には新選組は荷が重すぎる。やはり、彼らはすごいとただただ感心するばかりだ。
【書籍紹介】
新選組
著者:大石 学(監修)、ひのみち(作画)、こざき ゆう(脚本)
発行:学研プラス
伝記まんがシリーズに、大人気の剣豪集団・新選組が登場。幕末の世を高き志に忠実に生きた熱き男たちの姿を描く。