またひとつ人と犬の素敵な物語に出会った。
『クマを追え!ブレット 軽井沢クマ対策犬ものがたり』(田中純平 あかいわしゅうご・文 北村人・絵/学研プラス・刊)を読むと、あらためて犬たちがどれほど人間に忠実で、どれほど人のために尽くしてくれるのかがよくわかる。
警察犬、介助犬などなまざまな現場で働く犬たちがいるが、この本の主人公のブレットも使役犬だ。野生のクマを人里へ近づけないために特別な訓練を受けたベアドッグ(クマ追い犬)なのだ。
カレリア地方原産の狩猟犬
世界にはまだまだ知らない犬種がいるものだ。ベアドッグとして活躍しているカレリア犬についても、私はこの本ではじめて知った。カレリア犬はフィンランドとロシアの国境にあるカレリア地方原産の狩猟犬で、飼い主から離れて獲物を探し、追いつめるのが仕事。アメリカやカナダではペットとしても人気になっているそうだが、しつけが難しいことに加え、吠え声が大きく、一日の運動量もかなり必要なため、手を焼いて手放してしまう飼い主も少なくないという。やはり犬を飼うときには、犬の特性を知り、ふさわしい環境に適した犬種を選ぶべきだろう。
動物行動学者のアメリカ人女性、キャリー・ハントさんは、人里にきたクマを殺さずに森へ返すことに取り組んできた第一人者だ。
キャリーさんは、ベアドッグ(クマ対策犬)にどんな犬がふさわしいか、世界中の犬種を調べました。そして、注目したのがヒグマやヘラジカ狩りに使われていたカレリア犬でした。(中略)カレリア犬はえものを木の上に追い上げて、主人がくるまでとどめておくという性質があります。クマをきずつけないで、人のすむ場所から遠ざけるという目的に、ぴったりの犬でした。
(『クマを追え!ブレット 軽井沢クマ対策犬ものがたり』から引用)
キャリーさんはカレリア犬の子犬の中からクマに興味を持ち、かつ、クマを怖がらない性格の子を選び、ベアドッグとして訓練し、各地で活躍させている。
ブレットの来日
さて、ブレットは生後5ヶ月のとき、アメリカから軽井沢へやって来た。キャリー・ハントさんから譲り受けたカレリア犬だ。
ブレットの日本の飼い主は田中純平さん。田中さんは野生動物保護管理を学んだ専門家で、軽井沢で動植物を調べて豊な自然を残していこうと活動する『ピッキオ』に勤めている。
田中さんは渡米し、ブレットと共にキャリーさん元で訓練を受け、慣れたところでブレットを連れて日本に戻ったのだ。ちなみに、ベアドッグのハンドラーは、ただ犬や動物が好きというだけの人はなれないという。その場所に住むクマを知り、その対策の経験が求められるからだ。
クマはとても臆病な動物
ところで、人間がクマに襲われたいうニュースが流れることがある。しかし、本書によるとそれはあやまりのようだ。
多くの場合は、山の実りが少ない年に、人里のクリやドングリ、果樹や畑の野菜に引かれてやってくるのです。人里まで下りてきたときに、とつぜん、人に出会っておどろき、どうしてよいかわからなくなり、思わず攻撃してしまったのです。(最初から人をおそおうとしたのじゃないのに)と、クマは言いたいかもしれません。できれば、人にあまり会いたくないのです。クマはもともとおくびょうな動物なので、いったんおどろいてしまうと、パニックになってしまうことがあるのです。
(『クマを追え!ブレット 軽井沢クマ対策犬ものがたり』から引用)
危険な動物は殺せという人、動物の命を守れという人。どちらが正しいかを決めるのは簡単なことではない。
田中さんは「クマの目をもち、人の心をわすれない」常にこの言葉を心に仕事をしているそうだ。彼はブレットと一緒にクマを殺さず、森に返すことを日々実践している。そのためにはクマに、“人にも犬にも会うのはもうこりごり”と思わせることが必要になるのだ。
クマを森へ放す学習放獣とは?
森の中で響き渡るカレリア犬の大きな吠え声はクマ追いにはぴったりなのだろう。犬の優れた嗅覚でクマを見つけ、「近づくな!」とばかりに吠えてクマを森の奥へと追いやり、人里へ下りてこないようにハンドラーと共にパトロールをしている。にもかかわらず、夜間や早朝にゴミをあさりに人里に入り込んでしまうクマもいる。軽井沢では仕掛けた檻にクマが入ることがしばしばあるそうだ。
そして、捕らえたクマを再び森へ放すことを「学習放獣」というのだそうだ。檻に捕らえたクマはいったん麻酔注射で眠らせ、このとき首輪式の電波発信機を取り付ける。放獣のあともそのクマの動向を観察できるからだ。
さて、檻は中が見える鉄格子のものではなく、中は真っ暗な赤いドラム缶だ。放獣の日、そのドラム缶に向かってブレットはワンワンと激しく吠え立てる。クマには人と犬の怖さを感じてもらわなくてはならないからだ。
そしていよいよ放獣だ。
ロープを引っぱると、とびらが持ち上がりました。
ワン!ワンワンワンッ!
ホウ! ホウッ! ホウッ!
純平さんやスタッフが全員より集まって、声を上げます。出ろ! ブレットは大声でそう言っているようです。
あッ、黒いかたまりがとび出しました。一瞬、(どっちへにげようかと迷ったように)立ち止まり、そのままミズナラの枝をくぐりぬけ、いちもくさんにカラマツ林へ向かって走りました。バクチクが投げられ、花火とゴム弾が打たれます。ブレットはからだじゅうに力をみなぎらせ、もうぜんとおとを追いかけます。
「ゴー!(ゆけ!)ブレット。」
(『クマを追え!ブレット 軽井沢クマ対策犬ものがたり』から引用)
このときリードを腰のベルトに繋いだ田中さんも一緒に走るそうだ。リードを放せばブレットはどこまでも追いかけてしまうからだ。そして山の斜面の途中で「リーブ・イット!(はなれろ)」と言ってブレットに追いかけをやめさせる。そうやってクマにここからそっちならいいよと教えるのだ。
ブレットはやさしい家庭犬でもあった
ベアドッグとして活躍するブレットだが、田中家の愛すべきペットでもあったようだ。幼い三人の娘さんともブレットは仲良しで、庭でボール遊びをしたり、抱きついて一緒にころがったり、とても楽しい日々を過ごしていたようだ。
ところが、普段はとても元気で勇敢なブレットだが、実は“てんかん”持ちだったのだそうだ。100頭に1~2頭はあるという犬のてんかん。ブレットも3週間に一度くらいの頻度で突然倒れ、痙攣で苦しんでいたという。獣医である田中さんの奥様、そして子どもたちが、その度に「大丈夫だよ」とやさしくブレットの背中をやさしく撫であげた話には涙が出る。
この夏も軽井沢でブレットの後輩たちが活躍する
その後、この本が発行された翌年、ブレットは急性骨髄性白血病で9歳という若さで天国へ旅立ってしまった。まだまだ、ベアドッグとして活躍できたのに……。田中さんもご家族もさぞ悲しんだことだろう。
が、その後、ブレットの後継者としてアメリカからやってきたタマとヌイックいう2頭のカレリア犬がクマ追いの役目を受け継いでいる。
同時にピッキオでは“ベアドッグ繁殖プロジェクト”も始動し、今年はじめにアメリカからやって来た雄犬と雌のタマとの交配が成功。この春、タマが6匹の子犬を産んだという嬉しいニュースが飛び込んできた。国内でのベアドッグの誕生はこれが初めてだそうだ。
これからも軽井沢のカレリア犬たちは、人とクマの共存のために大活躍してくれることだろう。
【書籍紹介】
クマを追え! ブレット 軽井沢クマ対策犬ものがたり
著者:田中純平(協力)、あかいわしゅうご
発行:学研プラス
軽井沢でたびたび目撃される野生のクマ。クマたちがすむ自然と地域の住民を守るためにアメリカ生まれのブレットとハンドラー田中純平さんが立ち上がる。飼育が難しいベアドッグのブレットと暮らしながら、家族、住民、自然に向き合う田中さんとの感動の記録