本・書籍
2019/4/25 6:00

誰もが傷を抱えて生きている――必ず涙する上原 隆の珠玉のコラムノンフィクション

こころ傷んでたえがたき日に』(幻冬舎・刊)は、コラムノンフィクションの名手・上原 隆の最新刊だ。雑誌「正論」誌上で2009年から2018年までに連載した100本のコラムの中から、著者自らが22編を選び、まとめたものだという。

 

よりぬきの作品ぞろいだけあって、胸を突かれるものばかりだ。いつもは寝っ転がって本を読む私だが、この本はちゃんと座って読み、気づくと、涙を流していた。

 

 

「僕のお守り」

どの作品も胸に迫るが、あえて選べと言われたら、次の3本を挙げたい。

 

まず、「僕のお守り」。10万人に1人という難病「クローン病」を患った神社(かんじや)昌弘さんの発病から闘病、そして治癒までの道のりを描いたものだ。クローン病は、口から腸、肛門にかけてのすべての消化器官に潰瘍やびらんができる炎症性の疾患だ。原因は不明である。

 

彼は23歳の若さで、このクローン病に冒された。治療は「食べないこと」。それしかないという。何かを食べると、消化器官に傷がついてしまい、悪化する。
しかし、食べなければ生命を維持することができない。ではどうするのか?

 

一つは入院して点滴をする方法。もう一つは、家で暮らしながら、夜、寝るとき、鼻から胃まで自分の手でチューブを入れ、栄養分を取るための液体をポタポタと一滴ずつ落としていく方法。一晩中、それも毎晩…。この方法だと、日中は普通に暮らすことができる。ただし、水以外、口から何も摂取することは許されない。

 

絶望的な二択を前に、神社(かんじや)青年は悩んだ末、在宅してチューブ栄養を摂取する方を選んだ。昼は大学生として勉強し、夜はチューブで「くそまずい」液体を流し込む。

 

死にたいと思ったこともある。何か食べたいと、荒れた日もある。しかし、ある日、母がチューブを自らの体に入れようとしているのを見てしまう。息子の苦しみを理解しようと、自分もやってみようとしたのだ。彼はそれを見て、母のために頑張ろうと決心する。

 

そして、それからなんと4年もの間、つらい「栄養療法」を続け病気を完治させた。それだけではない。オーストラリアに留学するという夢も果たす。今では絶食する必要もなく、好きな洋食を食べることもできる。

 

彼は革の小物入れにチューブを入れて持ち歩いている。自分を苦しめた、しかし、なくてはならなかった命綱だ。現在もたまに点滴療法をする必要に迫られるのかと思ったら、そうではなく、母の愛情を感じる「お守り」なのだそうだ。手放せるはずがない。これが泣かずにいられようか。

 

 

「娘は二十一のまま」

「娘は二十一のまま」も、心に刺さる物語だ。1996年9月9日。上智大学四年生の小林順子さんが何者かによって殺害された。海外への留学を2日後に控え、心浮き立つ日であったろうに…。私もニュースで事件の発生を知った日を今もよく覚えている。

 

犯人は彼女を殺した後、家に火をつけた。証拠隠滅をはかったのかもしれない。消火活動のため家に飛び込んだ消防隊員によって、順子さんは発見された。Tシャツに短パン姿で、口と両手、両足を粘着テープで、両膝をストッキングで縛られ、首を数か所刺されていたという。

 

死因は出血死。無残な事件だ。遺された家族にとっては、事件後がとりわけ長く苦しい日々となった。まさに「こころ傷んでたえがたき日に」の連続だ。それも、いつまで続くのかわからない日々だ。

 

著者は事件後の家族の絶望と周囲の優しさを活写する。ご両親は時効を迎え捜査が中止されることだけは避けたいと考え、時効撤廃・停止を求める遺族会「宙の会」を発足させた。

 

「必ずしも十分とはいえない被害者家族への損害賠償の実態を踏まえ、国が一時的に立て替えて被害者遺族を救済できるようにしよう」と考えたためだ。だからといって、悲しみが癒えるはずがない。しかし、それでも人は生きていかなくてはならない。傷んだ心を抱えたまま…。

 

 

自分の傷みもコラムに

著者は取材の後、録音したテープをすべて自分で文字に起こし、文章を読み、主題と構成を考えていく。そして、原稿を書き上げると取材した本人にまず読んでもらう。

 

これはなかなかできることではない。締め切りに迫られているだろうし、取材者に見せて「ここは嫌だ」と言われたら修正しなければならない。しかし、その誠実な態度があればこそ、取材した方々の信頼を得ることができるのだろう。

 

著者は他人の話を聞くだけにとどまらない。できれば隠しておきたいであろう自分の話も逃げずに書く。この点が、傍観者で終わらない著者の真骨頂であると、私は思う。

 

 

「老々介護日記」

著者・上原隆の父は96歳で、アルツハイマー型認知症を患っている。ほんの5分前のことも覚えていない。そんな父を介護するのは86歳の母親だ。まさに老々介護が現在進行形で行われている。

 

さらに、母までもがアルツハイマー型認知症になる。母が頼るのは長男である著者しかいない。ところかまわず鳴る携帯電話に著者は悩まされる。母は不安に耐えきれなくなると、やたらと電話をかけてくるのだ。

 

仕事に追われる身ながら、著者はとりあえず家に駆けつける。離婚しているため妻には頼れず、妹にも家庭がある。必死の思いで家に着いた著者を待っているのは、のんきな顔でみかんを頬張る母だ。

 

息子が来てくれると知って、ほっとしたら「大丈夫になった」のだという。思わずムッとする著者に母は言う。「まあ、みかんでも食べなさい」。ここには、経験したものにしか書くことのできない「こころ傷んでたえがたき日」が描かれている。

 

中でも次の描写に、私は打ちのめされたと同時に笑ってしまった。そして、結局、泣きながら深く共感した。私の亡き母も若年性アルツハイマー病で亡くなったため、その状況が理解できるのだ。

 

私にとって、思い出したくない苦しみの日々だ。悲しくて、情けないと感じ続け、考えないようにしてきたが、今回初めてなぜか笑った。著者は書く。

 

「あなたにお嫁さんがいたら、私は楽隠居で家事をやらなくてすんだのにね」(中略)

私は離婚して、長い間ひとり暮らしをしている。

「いまどきの女性は自分の親は自分で見ろっていうよ」私がいう。

「そうかね」

「お前、アヒルとは元に戻ったんか?」うとうとしていた父が突然いう。

「いや」私は、父が元妻のことをいっているのだと直感した。元妻がアヒルに似ていたわけではない。父は農家の出身だからか、最近、動物と人間を混同することがある

『こころ傷んでたえがたき日に』より抜粋

 

そんな馬鹿な話と思う人もいるかもしれない。けれども、これは本当のことだと私にはわかる。アルツハイマー型認知症の患者さんは、時々、あり得ないようなことを平気で言ったりして、それが独特の世界を作り上げる。

 

唐突に、脈絡もなく、そして自信たっぷりにだ。母にもこんなことがあった。眉毛に口紅を塗ろうとするので「駄目よ、お母さん」と、制止しようとしたのだが、母は「いけない? いいでしょ?」とあどけない顔で言い、あっという間に眉毛はきれいな朱色に染まっていた。その時の絶望を私は心の底に封じ込めてきた。なかったことにしたかった。

 

誰にでも、こころ傷んでたえがたき日があるだろう。それは誰にも解決できないものだ。たとえ、この本を読んでも「もっと大変な目に遭っている人もいるのだから、私も頑張ろう」、そんな風に思うことはできない。他人の不幸と比べて、自分はまだましだと思っても、なんの解決にもならない。不幸はそれぞれに不幸の顔がある。

 

しかし、しかし、である。苦しんでいるのは、私だけではないと思うことはできる。

 

この空の下、たくさんの人が傷むこころを抱えて生きている。そう気づくことで、自分を保ち、かろうじて今日をしのごうと思うことはできるのではないだろうか。その意味で、この本は私にとって救いの書である。

 

 

【書籍紹介】

こころ傷んでたえがたき日に

著者:上原 隆
発行:幻冬舎

ベストセラー『友がみな我よりえらく見える日は』の感動が10倍になって帰ってくる。泣いて、ホッコリ。笑ってしんみり。短いけれど大きく深く魂をゆさぶる、コラムノンフィクションの第一人者・上原 隆の珠玉の22編。

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