手塚治虫の名前を知らない日本人はほとんどいないだろう。作品を読んだことがない人でも、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』などのタイトルは広く知られているし、イメージを思い浮かべることができるキャラクターも多いはずだ。
手塚は生前から“マンガの神様”と呼ばれてきた。しかし、リアルタイムで作品を読んでいない世代からすると、その凄さがわかりにくいかもしれない。そこで、手塚が“神様”である理由を、3つのポイントから見ていくことにしよう。
1)マンガの文法を発明した
現在、私たちが読んでいるマンガは、右から左へとコマを読み進めていく。このコマの読み方を定着させたのが、手塚治虫なのだ。手塚が出現する前のマンガのコマ割りは、1ページに横長のコマが4つ並び、上から下へ読んでいくだけの単調なものがほとんどだった。ところが、手塚はそのコマ割りを複雑なものにしていき、徐々に読者を慣らしていったというからスゴイ。
さらに、静けさを表す「し~ん」という擬音を普及させたのも手塚の功績だ。これはマンガの表現にとどまらず、日常生活でも普通に使われる言葉として定着している。
2)常に第一線で活躍し、あらゆるジャンルのマンガを描いた
手塚は60歳で亡くなるまで、マンガ家として第一線で活躍し続けた。死去する直前まで雑誌の連載を3本抱え、アニメの構想も練っていたというから、超人的な仕事量である。
手塚は同じ作家の仕事とは思えないほど、あらゆるジャンルのマンガを量産している。『三つ目がとおる』のような伝奇もの、『ブラック・ジャック』のような医学もの、『リボンの騎士』のような少女漫画まで。少年マンガから少女マンガ、エッチな描写がたくさん出てくる青年マンガも描いた。ちなみに、手塚のエロティックなキャラは最近注目が高く、それだけを集めた画集も出ている。
なお、手塚はスポーツが大の苦手で、スポーツマンガだけは得意ではなかったそうだが、マンガの作中にスポーツのシーンはたくさん出てくる。描いていないジャンルはないと言っていいほどなのだ。
3)生涯に渡って描いた原稿は約15万枚
手塚が描いた原稿は、約15万枚というのが定説だ。驚くべき量だが、一説によると、それよりももっと多いのではないかとも言われている。コミックスのページ数を数えればわかるような気もするが、そう簡単にはいかないのが手塚治虫なのだ。
というのも、手塚は雑誌に載ったマンガが単行本に掲載されるとき、絶対にそのまま載せなかった。必ず何かしらの修正を加えるのだ。セリフを変えるのは日常茶飯事、コマ割りや、さらには最終回のオチまで変えてしまうこともあるほどだった。
さらには、単行本にも収録されていない、未知の作品もまだまだあるといわれる。雑誌の挿絵などのカットは、確認できていないものが相当な量になるといわれる。したがって、実際に描いた枚数は誰にもわからない。そんな伝説的なエピソードもまた、神様にふさわしい。
■今読んでも古くないし、面白い
いかがだっただろうか。最後に、手塚のもっともスゴイ点は、没後25年以上が経過したにもかかわらず、今なお単行本が発売され、新しい読者を獲得していることではないだろうか。何より、内容がまったく古びていないし、今読んでも新鮮な感動を受けることが多い。
『僕らが愛した手塚治虫〈復活編〉』(二階堂黎人・著/南雲堂・刊)はそんな手塚の凄まじい仕事ぶりを知ることができる、ファン必読の書だ。ファンでなくとも、掲載されている絵を見るだけでもなかなか楽しめる。読書の秋だ。まだ読んだことがない人は、ぜひ手塚作品を手にとっていただきたい。(文:元城健)
【参考文献】
僕らが愛した手塚治虫〈復活編〉
著者:二階堂黎人
出版社:南雲堂
手塚治虫は、長くて中身が濃い、波瀾万丈のマンガ人生を送ってきた。昭和二十年代後半から三十年代にかけては、『ジャングル大帝』、『鉄腕アトム』、『リボンの騎士』など数多くの傑作を世に送り続け、名実ともにマンガ界の第一人者として活躍した。また、一九六二年にアニメーション会社の虫プロダクションを興すと、日本初のテレビ・マンガ『鉄腕アトム』や、日本初のカラー・テレビ・マンガ『ジャングル大帝』を制作し、日本中の子供たちをブラウン管の前に釘付けにした。しかし、劇画ブームの到来や、虫プロダクションの社内争議などのゴタゴタが生じて、手塚は深刻なスランプに陥った。青年マンガの台頭によって、少年マンガに拘った手塚は「手塚治虫はもう古い」とか、「手塚治虫の時代は終わった」などと、世間からも散々言われたのだった。そんな中、手塚は七三年十一月に、秋田書店の〈週刊少年チャンピオン〉で『ブラック・ジャック』を連載し始めた。また、七四年には、講談社の〈週刊少年マガジン〉で『三つ目がとおる』を描き始めた。これらが好評で、人気を呼び、氏は長い迷いからついに脱することができたのである。