僕は読書が好きだった。正確には今も好きなのだが、仕事が忙しくてあまり時間が取れず、このフムフムの連載が僕のメインの読書タイムとなっている。
僕の周囲にも「読書が好き」という人がいる。若い女性などに多い。しかし、読んでいる本を聞くと、たいてい自己啓発書かビジネス書、そして村上春樹だ。
僕は、そういう自称「読書好き」はあまり信用しない。ほんとに読書が好きな人というのは、そういう類の本は読まないのではないかと思っている。まだ、漫画をたくさん読んでいる人のほうが信用できる。
その理由を、自分でうまく説明できない。「映画が好きなのー」という女性が見ている映画が、いわゆるロードショーものばかりでなんとなく違和感を覚えるのと同じ感情と言えば、少しわかっていただけるだろうか。
■自称「読書好き」にありがちなこと
別に、自己啓発書やビジネス書、村上春樹を読んでいることが悪いとはまったく思わない。しかし、それしか読んでいないのに「読書が好き」という感覚が理解できないのだ。
好きなものは、どんどん深掘りすると思う。村上春樹が好きならば、レイモンド・チャンドラーやドストエフスキーにも興味が湧くことだろう。しかし、そんな話はとんと聞かない。村上春樹の小説を読んで満足しているというのは、ただの村上春樹の小説好き、もしくは村上春樹を読んでいる自分が好きな人でしかない。読書好きじゃない。
自己啓発書やビジネス書を読むのなら、松下幸之助や福沢諭吉などは読んでいるだろうなと思うが、たいてい流行っているものを読んでいるだけ。おそらく「そういう本を読んでいる自分が好き」なのだ。
また、「読書会」のようなものもあまり好きではない。自分の好きな本をオススメするようなものはいいと思う。しかし、1冊の本についてみんなで論じるのはナンセンスだと思っている。
好きなら勝手に一人で好きになればいいし、他人の意見なんて必要ない。「読書会」は、「この本を読んでいる自分が好き」を確認する場、「読書をするモチベーションを維持する」場なのだろう。
まあ、以上のようなことはこれまで口に出したことはほとんどない。こんなことを面と向かって言えば、ただ相手を不愉快にさせるだけだから。
■読書は自分を見つめ直す孤独な作業
『「孤独」の読書術』(里中李生・著/学研プラス・刊)は、作家・写真家である著者が、オススメする名著を紹介している書籍だ。
幅広いジャンルの名著が紹介されているが、一番感銘を受けたのは「はじめに」に書かれていること。タイトルにもなっているが、「人は孤独な生き物」であると論じ、孤独と感じるからこそ読書をして自分を見つめ直すチャンスだと述べている。
あなたが今、仕事でも恋愛でも限界を感じているのなら、この一年、恋愛も友達作りもやめて孤独に読書に没頭してほしい。きっと大きく成長できるはずだ。
(『「孤独の読書術』より引用)
元来、読書は一人で黙々とするもの。そして、文字ひとつひとつを自分の心に刻み込んでいく作業だ。とある作家は小説家になろうと決意したとき、井伏鱒二の小説を写経のように書き写し、その文章を心に刻んでいたという。
誰かと感想をシェアしたり、読んだことをアピールするための読書なんて、本当の読書じゃない。僕はそう思っている。
■「読書」は圧倒的な一方通行
読書というものは、孤独になるための作業でもあるし、孤独を紛らわせてくれる作業でもある。読書を通じて、他者とつながることはあるかもしれないが、それは副次的なもの。誰かとつながるための読書は、多分本質ではない。
孤独であることを噛み締め、孤独であることを受け入れ、孤独という小さな窓から外界を覗く。決して、その窓からは誰かが覗き込んだりはしない。読書というものは、圧倒的な一方通行なのだ。(文:三浦一紀)
【参考文献】
「孤独」の読書術
著者:里中李生
出版社:学研プラス
どん底の時、いつも隣に本があった―。孤高の作家・里中李生は告白する。困難に突き当たった時、孤独な心を支えてくれるのが本という存在だ。そして秘かに爪を研ぎ知の実力を養い、人生の大逆転を果たすのだ!独りで懸命に頑張る君に捧げる「孤独」の読書術。