こんにちは、書評家の卯月 鮎です。言葉の表記って難しいですよね。今はどうかわかりませんが、昔紙媒体がメインだったころは出版社や雑誌ごとに表記統一のルールがありました。さらっと軽く「バイオリン」と書きたいのに「ヴァイオリン」と直されて、まるでベートーヴェンの重厚なソナタのようになってしまったり……(笑)。「バイオリン」と「ヴァイオリン」では感じ方もかなり変わりますよね。
濁点でいえば、ネットでは俳優の藤原竜也さんのセリフに「゛」をつけるのがお約束のようで、「な゛ん゛て゛た゛よ゛お゛」と表記されているのを見ると笑ってしまいます。自分では発音できないですが、のどをつまらせて苦しそうな雰囲気がありありと伝わってきて大発明だなと。濁点にはまだ発掘されていない力があるのかもしれません。
文献学者が考える、日本語の可能性とは?
さて、今回紹介する『あ゛ 教科書が教えない日本語』(山口 謠司・著/中公新書ラクレ)は、濁点を出発点に日本語の変遷と可能性に迫る一冊。著者の山口 謠司さんは、文献学者で大東文化大学文学部中国文学科教授。専門は文献学、書誌学、日本語史など。『ん: 日本語最後の謎に挑む』『日本語の奇跡―〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明―』『日本語通』(いずれも新潮新書)など、日本語に関する著書もヒットしています。
「あ゛」の衝撃の裏にある歴史
第1章は「あ゛い゛う゛え゛お゛の誕生」。1980年代後半、日本語の「表記」と「発音」に強い興味を持っていた著者の山口さんはマンガ『らんま1/2』で「あ゛」という表記を見て衝撃を受けたそうです。主人公の早乙女乱馬が水をかけられそうになると「あ゛」や「あ゛~~~~~ん゛」と叫ぶ。その表記には「複雑で微妙な語感が響いていたのでした」と山口さん。
そもそも濁点は、単語の最初の文字につくと不潔感や不快感を感じさせるとのこと。江戸時代の国学者・本居宣長の指摘によれば、「古事記」「日本書紀」には濁点で始まる和語はひとつもないとか。
ただ「万葉集」では、山上憶良の「貧窮問答歌」に唯一「鼻、毘之毘之(びしびし)に」という表現が使われ、鼻がビチョビチョになっている様子を表しています。敢えて汚さや貧しさを連想させ、和歌の格調を破っていると山口さん。「書き言葉の可能性を大きく開いたものだったかもしれない」という考察にはなるほどと思いました。その精神は現代のマンガに受け継がれているのかもしれません。
第5章「五十音図の功罪」も、日本語の歴史をさかのぼって、現代の日本語が失ってしまったものを解き明かすミステリー的な読み味があり、引き込まれました。
小学校で習う「五十音図」。もともと五十音図の原型とされるものは平安時代の経典辞書「金光明最勝王経音義(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)」に掲載されているそうです。ここには最古の「いろは歌」も記されていて、山口さんはこの2つについて、日本で最初にサンスクリット語を本格的に学び、使いこなすことができた僧侶・空海の思想を汲んで作られたと分析しています。
言葉を「情」と「論理」の2面に分類した空海。「情」はいろは歌に、「論理」は五十音図に受け継がれた。その五十音図だけを日本語の基礎とすることで、もたらされる弊害とは……。五十音図を当たり前のように受け入れてきた身としては刺激的でした。
言語がテーマということもあって、抽象的で高度な内容ですが、読みやすい文章でさらっと頭に入ってくるのが本書の良さ。歴史上の文献も数多く引用され、読後の納得感も高くなっています。なにより著者の山口さんの日本語に対する熱い愛が伝わってくるのがいいところ。
近い将来、五十音図や濁点がつけられる仮名(かな)の常識も変わっていくかもしれません。人間が生きているということは、言葉も生きているということですね。
【書籍紹介】
あ゛ 教科書が教えない日本語
著:山口 謠司
発行:中央公論新社
「あ゛」「ま゛」といったマンガやネットに溢れる「ありえない日本語」。現代は感情を的確に表現するうえで、発音と表記の間にズレが生じており、それを埋め合わせるべく今日もどこかで前衛的な表現が生まれている。それは「五十音図」が誕生した平安時代さながらの状況であり、一〇〇〇年に一度の転換期なのかもしれない。本書は、古代の万葉仮名、「いろは歌」、江戸~明治の文学、学校の国語教育、現代のマンガにいたるまで史実にもとづいて日本語の進化の謎に迫る。この歴史の旅を通じて、「お」と「を」、「は」と「わ」、「じ」と「ぢ」の違いなど、日本語理解が深まる一冊。学校が教えてくれない「あいうえお」の世界へようこそ!
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【プロフィール】
卯月 鮎
書評家、ゲームコラムニスト。「S-Fマガジン」でファンタジー時評を連載中。文庫本の巻末解説なども手がける。ファンタジーを中心にSF、ミステリー、ノンフィクションなどジャンルを問わない本好き。