言うまでもなく、世界中の様々なシーンで使われている電卓。現在、日本国内での電卓は主にカシオ、キヤノン、シャープの3社製に集約されますが、その歴史はバラバラであり、そして各社とも異なる思いが隠されているようです。今回は、独自に開発した計算機の事業化を目的に樫尾四兄弟によって興され、ご存知の通り今日は巨大な電子機器メーカーとなったカシオ計算機の、尾澤慶子さん、松本 学さんにうかがいます。
【うかがったのはコチラ!】
樫尾俊雄発明記念館
カシオ計算機は、樫尾忠雄(故人)・樫尾俊雄(故人)・樫尾和雄(現 会長)・樫尾幸雄(現 特別顧問)の樫尾四兄弟が中心となって設立。樫尾俊雄発明記念館は、多くの発明を考案した俊雄さんの自宅の一部を一般公開しているもので、俊雄さんの功績、同社の歴史が見学できます。見学は予約制となっています。
そろばんVS計算機の日米試合を見た樫尾俊雄が、計算機開発に一念発起!
――カシオ計算機は、世界的な電子機器メーカーですが、現在はどんな商品があるのでしょうか?
時計、電子辞書、楽器、デジタルカメラ、レジスター、データプロジェクターなど様々な商品を開発しています。こういった多様な商品の礎となったのはやはり計算機、いまの電卓の開発でした。
――計算機開発にも長い歴史があるようですが、ご説明ください。
6歳の時、エジソンに感動して発明家を志した樫尾俊雄は、1946年に逓信省を退官し、樫尾四兄弟の長兄が営む樫尾製作所に参加しました。あるとき、そろばんと当時の計算機による日米対抗試算試合の新聞記事を見ます。そのとき、樫尾俊雄は「そろばんは神経、されど計算機は技術なり」というメモを残しました。
やがて、俊雄は1949年に開催された「第1回ビジネスショウ」を訪れ、モーターで歯車を動かす電動計算機を見て、計算機の将来性を確信し、長兄の忠雄に事業化を持ちかけます。
電動計算機は、歯車を高速で回転させながら計算していくため、騒音の問題がありました。また、歯車は摩耗に対する耐久性の高い素材で製作する必要があり、さらに高度な加工技術が必要でした。そこで俊雄は、歯車をまったく用いない純電気式の計算機を開発することにし、先ずはソレノイドを用いた計算機を1954年に試作します。続く、1956年にはリレー(継電器)を用いた計算機の開発を始めました。
――このリレー式計算機は翌年1957年に発売され、後のカシオ計算機の母体となった商品ですね。
そうです。弊社の礎であることはもちろん、電卓(電子式卓上計算機)のルーツと呼ぶにふさわしい計算機です。四則演算の機能、操作法、表示方法は現代の電卓とまったく同じですが、電卓との大きな違いは演算素子が電子ではなく電気部品のリレーを使っており、卓上型ではなく事務机くらいの大きさだったところです。
【実際に動かしてもらってみた!】
リレーの電磁石スイッチによって計算中。これは割り算をしている最中で、計算し終えるまでに何秒もかかりましたが、音はパタパタというリレーの動作音のみで、思ったより静かでした。
シャープ、キヤノンに遅れを取ったカシオ計算機
――このリレー式計算機は発売後、ヒットしたと聞いています。
大手企業や研究機関を中心に普及していきました。しかし、1962年にイギリスのサムロック・コンプトメーターさんが、真空管を使った初の電子式卓上計算機(電卓)を発売します。国内では1964年にシャープさん、そしてキヤノンさんがトランジスタを用いた電卓を発売するなど、電子化で弊社はやや遅れを取るカタチとなってしまいました。
――技術革新の波が押し寄せた時代ですね。
そうです。
弊社はリレー式計算機の新製品開発を継続しながら、トランジスタを用いた電卓の試作も進めていました。1965年5月に弊社が開催した流通向けの内覧会では、リレー式計算機の新製品よりも、まだ試作段階だった電卓への期待が圧倒的に高かったことをきっかけに、弊社もリレーからトランジスタへの全面転換を決意します。
その後たった3か月でトランジスタを使った弊社初の電卓を完成させ、同年9月に発売するに至りました。これが001というモデルです。「後発となるからこそ革新的な機能がないといけない」という思いのもと、電卓初のメモリー機能を搭載していました。
市場参入メーカーは40~50社にも至った電卓戦争
――やがて電卓は一般に広まっていきます。
1960年代後半~1970年代初頭のマーケットは、大手電機メーカー、事務機メーカー、計測器メーカーなどが続々と電卓市場に参入するようになりました。
――それだけ多くの企業が参入した理由はなんだったのですか?
一つは電卓の機能、演算素子の進化が挙げられます。それまでの演算素子は、電子回路を1チップに納めたICが主流でしたが、やがてICよりも集積度の高いLSIに移っていったからです。
初のLSI電卓は1969年にシャープさんが発売し、1971年には単3電池で駆動するハンディサイズのLSI電卓をビジコンさんが発売しました。そして、同じ1971年には、アメリカのテキサス・インスツルメンツさんが外販を目的とした電卓用のLSIを開発し、日本に供給し始めます。これによって、電卓の開発実績に乏しい企業でも参入が容易となりました。
これらの経緯で、電卓市場へは一時期40~50社が参入したと言われ、各社入り乱れての熾烈な戦いが強いられました。実際、市場は驚異的なスピードで成長し、生産量は毎年2倍以上のペースで伸び続け、1970年には1000億円市場に。この時代の市場争いは「電卓戦争」とも呼ばれました。
――やがて、その電卓戦争の雌雄を決した製品はナンだったのですか?
1972年、弊社が開発した、世界初のパーソナル電卓、カシオミニでした。当時、電卓の最普及価格帯は4万円程度まで下がっていましたが、これらはあくまでも事務用のものです。
それを「一家に一台」普及を掲げ、それまでの3分の1以下となる1万2800円の価格を実現し、発売後10か月で100万台ものヒットに至りました。
なぜ、カシオミニは3分の1の価格を実現できたのか?
――しかし、何故そこまでの低価格を実現できたのでしょうか?
確かにいくら技術の進展があったとしても、4万円だった商品をいきなり3分の1の価格に落とすことは困難です。しかし、そこで弊社はある決断をしました。
それまでの計算機は事務用ですので、10桁表示が主流でした。当時の技術では、この桁数は回路と表示の複雑さ、つまりコストに非常に影響するものでした。そこで「個人向け」「家庭向け」ということを想定し、表示を6桁に抑え、かけ算の答えについては桁送り方式で12桁まで判る方式を考案しました。つまり、個人用ならば99万9999円まで表示できれば充分だと判断したのです。この6桁仕様のLSIを弊社で独自設計し、用途を伏せてLSIメーカーに大量発注することで大幅なコストダウンを実現させたのです。
――「用途を伏せて」というのがすごいですね。
新世代の電卓用だと判ってしまうと、有望市場向けということで、価格交渉の難易度が高まる可能性がありました。また、LSI発注の段階で半導体業界に知れ渡ってしまうと、電卓他社が追随する要因にもなり得ることから、用途を伏せて発注するのが得策と判断したのです。
これらによってカシオミニは大幅なコストダウンを実現したわけですが、かつて40~50社あった市場参入メーカーは、撤退が相次ぎました。特に「多角化」「品揃え」のうちの一つとして電卓を手掛けていた企業にとっては「全社のリソースを電卓に集中する」という決断は出来なかったのです。
0.1mm単位の薄型化をめぐって続いた電卓戦争・第二幕
――これらのことで電卓市場のメーカーはカシオ計算機、キヤノン、シャープの3社に集約されます。
はい。ただし、この後も、言わば「電卓戦争・第二幕」のような競争が繰り広げられるようになります。まず、1973年にシャープさんが表示に液晶を採用した電卓を、さらに1977年には厚さわずか5mmというボタンレスの手帳サイズ電卓を発売します。
つまり薄型化による差別化が盛んになっていったわけですが、弊社では1978年に厚さ3.9mmの名刺サイズ電卓、LC-78を発売しました。以降、しばらくの間はシャープさんと当社の間で0.1mm単位で競い合う薄型化競争が続くようになります。
そして、1983年にはクレジットカードサイズの電卓、SL-800を発売します。これは厚さわずか0.8mmという極薄のもので、以降は、これよりも薄い電卓は出現していません。結果的に、このSL-800をもって、薄型化競争は収束したと言って良いかもしれません。
深過ぎます、カシオ計算機と電卓の歴史……。ですが、この後もまだまだ続きます。次回は、複合型電卓、そして現在に至るまでのカシオの電卓について、さらにお聞きします。お楽しみに!
撮影/我妻慶一