近年、若手アーティストが70~80年代の日本のヒット曲をカバーしたり、音楽番組でベテラン歌手と競演して懐かしの曲を歌ったりと、いわゆる“昭和歌謡”という音楽ジャンルに注目が集まっています。
最新のヒット曲が流れる若者向けの音楽番組が減少していくなか、昭和歌謡を扱う番組は増えており、もっとも視聴率の高いゴールデンタイムになつかしのヒット曲を扱った特番が放送されることも珍しくありません。
そんななか、ブームが訪れる前から昭和歌謡を歌い続けてきた歌手のギャランティーク和恵さんは、昨今の歌謡ブームについて、「現代のヒット曲は、ボーカルもサウンドの一部として作り込まれることが多い。そんな時代だからこそ、あらためて歌が主役の音楽、いわゆる『歌モノ』が求められているのでは」と分析。ヒット曲の変容と歌謡曲の関係について、独自の視点で語って頂きました。
ギャランティーク和恵
60~80年代の歌謡曲・演歌を中心とした楽曲を、有名無名問わず独自の音楽性で選びぬき、新しい息吹を与え続けている歌手。ソロ活動のかたわら、ミッツ・マングローブ、メイリー・ムーとのユニット「星屑スキャット」のメンバーとしても活動。また、新宿ゴールデン街にSnack「夜間飛行」をオープンさせ、酒と歌謡曲のターミナルとしての場を提供している。
■最初は歌手になろうとは考えていなかった
――まず、ギャランティーク和恵さんと昭和歌謡の出会いについて教えて下さい。
ギャランティーク和恵(以下、和恵) 「小さいときから歌謡曲というものが大好きで、80年代に幼少期を過ごしたんですけど、なんで自分は70年代に生まれなかったんだろうってずっと思いながら生きていました。音楽だけじゃなくて、文化とかファッションなんかにも憧れがありましたね」
――当時から歌手になろうという思いはあったのでしょうか?
和恵 「ギャランティーク和恵が生まれるきっかけとなったのは、美大に通っていた時代に、表現方法のひとつとしてステージ活動を行っていたことなんです。友人たちと『真夜中のギャランとハローロマンチカ』というグループを作って、そこで歌謡ショーを披露していました。ただ、そのときは歌手になろうとは考えてなかったんですよね。
そのうち就職活動の時期がきて、普通にデザイン事務所とかに務めようかなと考えてもみたんですけど、やっぱり歌謡曲を歌うステージをやり続けたいという思いをあきらめきれず、渋谷の『青い部屋』(歌手/作家の戸川昌子が創設した文化サロン)でオーディションを受けて、歌手として活動を始めました。
それから、青い部屋やいろいろなクラブなどで歌いつつバイトをしていたんですけど、あるときバイト先が急に倒産してしまって、突然無職になってしまったんです。そのタイミングと同じ頃に、新宿ゴールデン街でお店をやらないかとお誘いがあって、これは運命だな……と思って引き受けてから、歌手とバーのオーナーという二足のわらじで活動することになりました」
■盟友ミッツ・マングローブとの出会い
――星屑スキャットを結成したのもその頃ですか?
和恵 「それより少し前になりますが、美大をやめたあとステージに立ちながら、グラフィックの仕事も少しだけしていたんです。あるとき、ミッツ・マングローブさんが出演する新宿2丁目のイベントのフライヤー(チラシ)を作ることがあって、そのときはまだミッツさんに会ったことはなかったんですけど、彼女が西麻布のクラブで藤 圭子さんの『圭子の夢は夜ひらく』を生歌で披露するショーをしていたと耳にしていたんです。それで、『この人に会いにいかなきゃ』という直観が働いて、そのイベントに足を運んだら実際に話せる機会があったので、自己紹介をしながら『私も歌謡曲を歌っているんでよかったら見に来て下さい』って誘ったんですよね。
そのあとミッツさんが私のステージにも来てくれたんですけど、それが彼女にとって新鮮だったみたいで、終わったあとに『一緒にやりましょう』ということになりました。というのも、2丁目のドラァグクイーン(女装をしたパフォーマー)のショーでは、歌手の音源に合わせてリップシンク(口の動きだけ合わせ、実際には歌わないこと)することが一般的だったので、私みたいに普通に生歌を披露する人はいなかったんです。ミッツさんはそこがおもしろかったみたいですね。
それから2丁目の小さなクラブで、『歌憐バー 星屑スキャット』という、ただただ2人のママがダラダラとカラオケを歌うという、ゆる〜いイベントを始めました。そのあとメイリー・ムーさんが加わって、3人それぞれ好き勝手に歌謡曲を唄うイベントをやってました。そのうち、色々な色々なイベントなどに呼ばれるようになったときに、グループ名どうしよう、ということになって、そのまま星屑スキャットという名前でいこうということになったんです」
――ギャランティーク和恵さんにとって星屑スキャットとはどういう存在ですか?
和恵 「星屑スキャットは、グループというより戦隊ロボットみたいな感じですね。普段はそれぞれで活動しているんですけど、ボスと戦うときに合体するみたいな。3人揃うとすごいことができちゃうんですけど、ここぞというときにならないとなかなか合体しない、みたいな勿体ぶったところもありますけど(笑)。みんなそれぞれに忙しくなってきましたけど、これからも3人のタイミングが合うときに集まって、気長にやっていけたらいいな、と思っています」
■あらためて“歌”が求められている
――近年、歌謡曲が再評価されてきていることについて思うことはありますか?
和恵 「私が歌謡ショーを始めた90年代は、いまどき歌謡曲なんて、という雰囲気が強くて、歌謡曲を聴いているということも人には言えないような空気でした。その頃に比べると、いまはとてもやりやすい時代になってきた、という感じがします」
――現代のヒット曲と歌謡曲の違いはどこにあるのでしょうか?
和恵 「いまの最新ヒット曲を聴いていると、歌の存在が薄れてきたな、という印象を受けます。ボーカルもサウンドの一部として作り込まれているというか。
歌謡曲は、あくまで歌が主役であって、歌を聴くための音楽だと私は思うんです。歌謡曲がまた聴かれるようになってきたのは、ボーカルが希薄になっている時代だからこそ、逆説的に歌が求められてきているんじゃないのかな、と思っています」
――2016年から、季節や情景をテーマに歌謡曲を3曲選んでカバーする「アンソロジー」というシリーズをミニ・アルバムとして3か月ごとに発表されていますが、こちらでは太田裕美の「煉瓦荘」や、堀江美都子の「茅ヶ崎メモリー」など、いわゆる代表曲ではない曲を取り上げています。これはどういう意図で選曲されているのでしょうか?
和恵 「私はもともとメジャーではない曲を歌うことが多いのですが、アンソロジーシリーズでも、あえてアルバム曲や知られていない曲を選んでいます。
歌謡曲には、大ヒットはしていなくても名曲と思える曲がいっぱいあって、それらが埋もれて忘れられていくのがもったいないという思いがあるんです。そういう曲をカバーして音源化することで、もう一度その楽曲が息を吹き返してくれたら、という気持ちがひとつですね。
もうひとつは、ちあきなおみさんが『黄昏のビギン』という曲をカバーしたときに、あまり知られていなかった曲が、ちあきさんが歌ったことで誰もが認めるスタンダードナンバーになったということがあって、おこがましいのですが、私もそういうことができたら、と考えているんです。
例えば、太田裕美さんの代表曲といえば『木綿のハンカチーフ』ですが、『煉瓦荘』もいい曲だよね、と言われるきっかけを作りたいな、と」
――今後の活動について教えて下さい。
和恵 「11月9日に『ANTHOLOGY#3』をリリースしつつ、来年まであと何枚かこのシリーズを続けたいと思っています。また、来年は歌手活動15周年を迎えるので、節目となる作品を作ったり、久々に大きなステージをやったりしたいですね」
――本日はどうもありがとうございました。
ゲットナビウェブでは、歌謡曲に対する深い愛情と知識を持ちながら独特のセンスで選曲し、歌謡曲を現代に歌い継ぐギャランティーク和恵さんが、いま聴くべきレコードを紹介していく連載コラム「ギャランティーク和恵の歌謡案内 Tokyo夜ふかし気分」を10月中旬よりスタートします。昭和歌謡に興味を持ち始めた方や、懐かしの歌謡曲をもう一度聴きたいという方は、ぜひチェックして下さい!